インターフォンが鳴っている。押してから離すまでが長いのか、妙に間延びした調子で。
 もう昼といっても差支えがない時間に、葛井巳春はベッドの中で裸の体をよじり、腫れぼったい瞼を擦った。開こうとするが、昨夜の疲れが色濃く残る体を起こすのは容易でなく、なんとか動く腕を使って隣の人物を揺さぶる。
 ん、と低い呻きのあとに、舟木大河は野生の獣のような欠伸をひとつした。
「・・・っだよ、もう朝か?」
「ていうか、昼? かも。それより、お客さん」
 そうやって話す間にも音は鳴り続けている。寝不足ですかすかする頭に、この高音はもはや凶器だ。億劫そうに半身を上げた舟木は今一度欠伸をし、降りるのかと思って油断していた葛井の上に倒れてきた。
「んぶっ! ちょ、大河さん・・・」
「いいじゃねぇか、居留守だ居留守。お前だってまだ眠いだろ?」
 落ちてきた腕に毛布ごと抱き寄せられ、葛井は呆れながらも満更ではない顔をした。すす、と自らも体を寄せ、その厚い胸板に額を付ける。それとほぼ同時、諦めたように電子音が鳴り止んだ。
 舟木は猫みたいに背中を丸める細い体に手を回し、そのしなやかな体をさすった。背骨をひとつひとつ確かめるように撫で、そのまま尾骨まで降りていく。形のよい双丘は、両手で包むように揉みしだいた。
 その指にいかがわしいものを感じ、閉じていた瞼を開けて葛井が抗議するように唇を尖らせた。
「寝るんじゃないの?」
「今日は休みなんだ、別に構わないだろ?」
 昨夜も散々可愛がったそこは、少し湿ってはいるものの、すっかり窄まっている。毎回処女のような反応を見せるそこは、舟木のお気に入りだ。体勢を帰ることで体の上に乗せ、まだ少し不満そうな恋人に笑いかける。
「キス、くれよ。朝の挨拶は大切だろ?」
「・・・エロ親父」
「そのエロい親父が大好きなのはどこのどいつだ?」
 太股の裏を掴んだ手に足を開かされ、跨ぐようにその肌を密着させる。触れた中心は熱くて、葛井は思わず唾を飲んだ。
「自意識過剰なんじゃないの、ちょっと」
「褒め言葉としてもらっておこう」
 そう言って顎を出して唇を示され、葛井は悔しがる顔を寄せた。
 そしてお互いの呼気が触れ合おうかというその時。
 けたたましいチャイムの音に、その甘い空気はぶち壊された。

「何しに来たんですか」
『ん? お前ら今日休みなんだろ? 遊ぼうぜ』
「お断りします」
 舌打ちしながらズボンだけ履いた舟木は、来訪者を視認できるモニターに移った男を見て、更に腹立たしげに額を押さえた。そしてすぐに通信を切断したのだが、直後に再びインターフォンが狂ったように電子音を上げ出す。寝室で着替えながらその押収を聞き、葛井は苦笑した。
「いい加減にしてください! 大体あんた、さっき諦めたんじゃ・・・」
『そうそう、そうなんだけどよ、よく考えたらお前らが休みだからってどこかに出かけるなんてまずないだろ? ないよな? てことは居留守だと踏んで俺は舞い戻ってきた訳だが・・・』
 大正解だな! と笑う男に、舟木は肩を落とす。
「そこまで分かってるなら、今日俺がどうしたいかも悟って、」
『お前らだけ楽しいのはムカつくじゃねぇか。開けろ』
 によによとモニター越しに笑顔で圧力をかけられ、舟木は観念してオートロックの解除ボタンを押した。
 このマンションはセキュリティが特化されているので、こうすることで漸く客人は部屋の前まで来ることができる。なので本当に招きたくなければそのボタンを押しさえしなければいいのだが、舟木はそれをしない。結局この男はあの人に対して弱いのだな、と葛井は腕を通した舟木のシャツの袖をまくりながら思った。
 客人は舟木の上司で、その仕事は端的に言ってしまえばヤクザだ。かくゆう葛井と舟木の出会いも借金の取立て現場であり、その返済を肩代わりしてくれるということがきっかけで、二人はこうして一緒に住んでいる。
 強面の割に情緒的な舟木に取り立て業は向いていなかったようで、最近では専ら組が経営している店のオーナー業ばかりしている。ならず者に対する制裁には全くといっていいほど罪悪感は覚えないようで、舟木が経営する店は全て質も治安もよいと評判だった。ちなみに、その内の一店で、葛井もアルバイトとして働いている。
 そういう社会では縦の力が大きいらしく、舟木は基本的にさっきの男には頭が上がらないようだった。
 しかし、ただそれだけが理由ではないことを、葛井は知っている。
 客人の名前は舟木竜也。偶然の同姓などではなく、正真正銘、舟木の実兄なのだ。
 そう言うと舟木は怒るが、そうと知ってから改めて見ると、二人はかなり似通っている。エロ親父思考なところや、意外と情に脆いところ。仲間には優しいところなんか、そっくりだと思う。
 竜也は葛井を身売りするために追っていた過去があるのだが、その必要がなくなり、更に弟の恋人だと知ると急に優しくなった。今日のように突然会いに来るのも、元気にしているか確認するためだけだったりする。勿論それだけでは部下に示しがつかないのか、仕事の話もしていくのだが。
 自分も奥方がいるくせに、竜也は葛井に甘い。その可愛がりようは舟木も機嫌が悪くなるほどで、だからこうして訪問を歓迎されないのだ。
 苛々と苦虫を噛み潰したような顔でソファに座る舟木の前に立ち、葛井はそのしかめっ面を両手で包んだ。
「結局開けるんだったら、居留守しなければよかったね」
 キスできなかったことを残念がる風に言ったのだが、舟木はそれ以上に不満な点があったらしい。特に同意もせず、くすくす笑う葛井を鋭い眼光で突き刺した。驚いて竦んだ葛井の手を引き、かくんと膝を折った体を受け止め、その首筋に歯を立てる。
「ん・・・っ」
「今日は、お前に服着ないつもりだったんだがな・・・」
 長い舌で咬み痕を舐められて、葛井は息を詰まらせた。そうしながら首の骨を辿って背中に浸入する手が、襟首から胸を目指して肌を戦慄かせた。サイズが合わなくて緩いシャツは、簡単にその動きを許してしまう。
「んっう、大河さ・・・だめだ、よ」
 下からも入り込む手が敏感な背筋をなぞったのと同時、玄関のチャイムが鳴った。弾けるように目を見開いた葛井が舟木の腕を逃れ、それに応じようと急いだ。中途半端に熱せられた体が、じくじくと葛井を苛む。
「い、いらっしゃい、リューさん」
「よっすネコちゃ、ん? なんか顔赤いぞ? 風邪か?」
「ななな、なんでもない!」
 俯きがちに顔を隠しつつ、葛井は手を振った。
 慌てて来客用のスリッパを出す葛井を見下ろしながら、竜也は特にそれ以上追求することもなく部屋に上がった。勝手知った顔で、居間へと進む。
「うっす、愚弟。相変わらずの仏頂面だな」
「・・・どうも、愚兄。あんたは相変わらずムカつく顔してますね」
 一触即発のような雰囲気だが、これがこの二人流の挨拶なのだと、最近漸く理解できた。言い合う口は汚いが、意外と兄弟仲はいいらしい。
「面倒臭い人たちだなぁ」
 首筋を赤くなるほど擦ってから、葛井は何度か舌を打ち鳴らした。すると、それを聞いてどこからか白い塊が駆け寄ってくる。小さな鈴の音を伴ってやってきたそれは、葛井の足元に纏わりついた。
「おはよ、とら。お腹すいた?」
 白い毛に茶色の混じった猫は、抱き上げられた腕の中で小さく鳴いた。顎をかかれると、気持ち良さそうに目を細める。
 ここに来たときは片手でも足りそうなほど小さかったのに、今ではすっかり大きく立派な姿になった。好みもはっきりしてきたのか、同時に呼んだときは迷わず葛井の方に駆け寄ってくる。それについて舟木は何も言わなかったが、内心結構気にしているらしい。煮干しを使って気を引こうとしている様子を、何度か目撃したことがある。
 思い出し笑いをしながら、猫缶を開けてやろうとキッチンに向かう道すがら、竜也に呼び止められた。
「今日の土産はそいつ宛なんだ。喰わせてやれ」
 そう言って手に持っていた紙袋から、缶詰をいくつか放り投げてきた。それを受け取るためにバランスを崩した葛井の腕から、とらが俊敏に身を翻した。
「これ、一番高いやつじゃないですか。こんなのあげたら、とらが贅沢になっちゃいますよ」
「いいじゃねぇか。稼いでんだろ?」
 言いながら舟木を見たので、葛井は話題がそちらに移ったと見て、缶切りをキッチンの引き出しから取り出した。
 その姿をちらりと見て、舟木が肩を竦める。
「あんたほどじゃないですよ」
「俺はお前と違って、子猫ちゃんにうつつを抜かしたりしてないからな」
「なんの話です?」
 しらっと言う舟木の目前に人差し指を立て、シニカルに笑う。
「誤魔化すなよ。あんな顔で迎えられて、俺が気付かないとでも思ったか?」
 舟木の正面に座り、葛井の姿を盗み見る。
「溺愛してんのは分かるけどよ、俺が上ってくる数分ぐらい我慢しろよ。思春期のガキじゃねんだし」
「あんたへの当てこすりに決まってんじゃないですか」
 明らかにすねた言葉に、竜也は肩を震わせた。それにつられ、舟木もくつくつと笑い出す。
 そこに皿へ盛ったキャットフードを手にした葛井が近寄り、首を傾げる。
「何笑ってんの? 珍しい」
「なんでもねぇよ」
 含み笑いのままそれだけ言い、二人は何も言ってはくれない。
 不思議でならなかったのか、お預けを喰らって焦れたとらがズボンの裾を爪でいじるまで、葛井は首を傾げ続けた。


 遊びにきたと言っていたくせに、竜也は結局仕事の話を切り出した。
 コーヒーを出しながらそのことを隠れて笑い、葛井は軽食を作りにキッチンへと戻った。そういえば起きてから何も食べていないことを思い出したのだ。
 話しながら簡単に食べられるものを、とメニューを思案していたら、殆ど当然のようにサンドウィッチに決まった。トランプ好きの伯爵だか子爵だかが考案したというそれは、作るのも楽でいい。冷蔵庫からハムやチーズを出しながら、どんな組み合わせにしようかと心が弾んだ。やはり、料理をするのは楽しい。
 その音を聞きながら、竜也は砂糖をふんだんに入れたコーヒーを飲んだ。
「恋人は床上手で料理上手ってか? 羨ましいねぇ」
「早織さんだって、いい奥さんじゃないですか」
「あいつは甘いもの摂りすぎると怒るんだよ」
 やれやれと首を振り、常人には甘すぎるそれを美味しそうに飲む。
 それを眉を寄せて見ながら、傍らで寝息を立てているとらの背中を撫でる。まどろんでいるところを連れてこられたとらは、舟木の横でも気持ち良さそうにしていた。
「ていうかお前さ、カオルのことどうする気だ? まだ雇ってるらしいじゃねぇか」
「カオル? ・・・ああ、馨介のことですか。まだというより、もう一度ですよ。四月頃、急に辞めて」
「男の味が忘れられなかったってか? まあいい稼ぎ手だよなぁ」
 年の割に、と笑う竜也に苦笑いを返し、舟木もコーヒーを口にした。空きっ腹にコーヒーの苦味は染みるが、舟木はこの感じが好きだ。葛井には、たびたび怒られてしまうのだが。
「ていうかお前が拾ってきたんだったか? 最初の相手がお前じゃ、ハマるのもしゃあねぇか」
「あいつは・・・馨介はそんな理由じゃ、」
「キョウスケって誰?」
 話に入り込んでいた舟木は、皿を持って現れた葛井が声を出すまで気付かなかった。驚いた舟木が慌てて顔を上げるのに目を丸くし、テーブルに小切りにしたサンドウィッチを置いた。
「他のお店の人? 男の人が働いている店もあったんだね」
 とらを優しく抱き上げ、舟木の横に座る。起きてしまったのを宥めながら笑っている葛井を横目に、舟木が妙な顔をしている。それに竜也が気付き、わざと呆れたような声を出した。
「なんだお前、言ってなかったのか?」
「ん、まあ・・・」
「大河さんはあんま俺に仕事の話はしないんですよ。バタフライについては、色々教えてくれるけど」
 なんでもないように言い、サンドウィッチを一つ取る。その匂いにひくつかせるとらの鼻先を掻いてやり、ひと欠片口に運んでやる。
 バタフライとは、二人が働く風俗店の名前だ。舟木がそこ以外にもいくつか掛け持ちしていることは知っていたが、それがどういうところか、何件あるのかまでは知らない。
「馨介はブルー・ビーって男色専門店の売れっこだよ。もう30に近いんだけどな」
 くすくすと笑う竜也を見て、舟木は額を押さえた。
 葛井に全てを話していなかったのは、必要ないと思ったことと、面倒だったこととが理由だ。しかし、それ以上に、ただ単純にその店の存在を知られたくなかった。
 舟木の仕事は、店の経営とスカウト、そして教育だ。葛井と一緒になってからは先の二つしかしていない。一度その現場を聞かれた際に、随分悲しい思いをさせたからだ。今はしていないとはいえ、葛井は気にするだろう。
 そう思って窺った葛井の表情はしかし、舟木の予感が杞憂であったことを伝えた。意にも介していないという風に、葛井はとらの毛に指を通していた。
「クズ・・・?」
「ん? あ、大河さん、もしかして俺が気にすると思って黙っててくれたの? へへ、残念でした」
 歯を見せて笑い、ぱたりと動く長い尻尾を指の輪に通した。
「俺だっていつまでもガキじゃないんだよ? それが大河さんの仕事なんだって、最近はちゃんと理解してるから」
 理解があるのはいいことだ。いいこと、だが。
 なんとなく腑に落ちないものを感じながら、舟木は残りのコーヒーを一気に飲み干した。






中編へ→→→