漸く竜也が腰を上げたとき、空はもう夜の帳を降ろし始めていた。別れのキスをせがむ竜也をあしらいつつ見送り、部屋に戻る。
「遅くなっちゃったね。今からご飯作るけど、何かリクエストとか・・・」
 ソファに座ったまま、舟木は葛井の質問を聞いていないようだった。肘掛に頬杖を突き、変な顔をしている。
「・・・大河さん?」
 今日は途中から態度がおかしかった。葛井はそれを、竜也のセクハラ紛いな発言の所為だとばかり思っていたのだが。
 葛井の中で不安の種が疼き、芽を出そうとしている。
「ね、なんか言ってよ」
 こんなときに限って、いるだけで空気を和ませるとらの存在がない。
 決心して、ソファに座る舟木の前に跪く。見上げると、舟木は苦い顔をして目を逸らした。
「大河さん!」
「・・・なんでもない。風呂行ってくる」
 漸く吐かれた言葉に葛井はますます狼狽した。振り払うように立ち上がった舟木を追おうとして、動きを止める。
「なん、で?」
 理由が分からない。
 途方に暮れた声だったが、舟木は振り返らずに浴室へと歩き出した。

 熱いシャワーを頭から被ることで、だんだん冷静な思考ができるようになってきた。
 無駄に裏を勘繰る必要なんてない。言葉通り、葛井は自分の仕事に口を出さないようにしているだけなのだ、と。
 しかし、考えれば考えるほど、普段とのギャップに目が付く。
 葛井はその生い立ちの所為か、傍にいる人に対する独占欲がかなり強い。その癖、それを表に出したくないとも思っている。嘘が下手だから、大体がすぐにバレるのだが。
 特に店の女たちに舟木がモテるのが気に喰わないらしく、腕を絡ませているところを見ると、明らかに動揺し簡単な掃除でもミスしたりする。香水の匂いが服に移っていようものなら、夜中でも洗おうとする。
 しかし、実際には葛井の方が店の女たちから良く思われていた。一癖も二癖もある連中の話し相手にでもなればいいとは思っていたが、葛井はあれでいて意外と聞き上手だったようだ。しかもすぐ同調するから、勘違いする女も多い。
 その度にキスされたりトイレの個室に連れ込まれそうになり、寸でのところで逃げ出し、その後勘付いた舟木にメチャクチャになるまで犯される。その一連の流れが楽しくて、舟木も放っておくのだが。
 葛井はすぐに表情が変わる。くるくると、隠せもしないことを隠そうとするから面白い。
 それが、今日はどうだ。
 過去のこととはいえ、舟木が他の男と寝た事実を聞いて眉一つ動かさないなんて。それどころか、笑っていた。
 自惚れているつもりはないが、結構大事にしていたつもりだったのに。
 苛立ちに壁を殴りそうになり、自重する。すぐ熱くなるのは、舟木の悪い癖だ。
 とにかく風呂から出たら、メシを喰って体にじっくり訊いてやろう。そんなことを思いながら出ると、いつもなら出されているバスタオルと着替えのセットがなかった。
「おい、クズ・・・」
 水を滴らせたまま出た先に、葛井の姿はなく、まだ途中らしい食事の支度がテーブルに成されている。訝しむ舟木の耳に、押し殺したような囁き声が聞こえてくる。それが玄関の方からだと気付き、床が濡れるのも気にせず忍び足で近付いた。
「ごめんね、こんなこと頼んじゃって」
「いいんですよ。それより、これで合ってました?」
 どうやら相手は菅のようだ。近くに住み、スーパーマーケットから二人のために食材を運んでくれている青年で、葛井の数少ない友人だ。
舟木もこの青年のことは気に入っており、二人きりで遊びに行ったりするのも許している。  しかし、今日は何か足りない食材があったとは思えない。それ以前に、覗き見た菅は配達用の制服を着ていなかった。何か頼んだらしいが、一体何を話しているのか。
「合ってる合ってる。いやぁ、間に合ってよかったよ」
「舟木さんに言ってあるんですか?」
「んー・・・実は言ってない。言ったら怒りそうじゃん、あの人」
 くすくすと笑う声に、裸なのも忘れて足を踏み出した。先に気付いた菅がぎょっとして、続いて葛井が慌てて振り向く。
 そして舟木を視認するなり持っていた紙袋を背後に隠し、取り繕うように笑った。その反応が鼻につき、下げた筈の苛立ちが再び沸騰した。
「クズ・・・なんだ、それは? 何を、コソコソと・・・」
「た、大河さ・・・ごめ、バスタオ、」
 バアン! と壁を手の平で殴る音に、葛井の脳が遅い警鐘を鳴らした。菅に向き直り、紙袋を押し付ける。
「巳春さん?」
「ごめん、一旦持って帰って! また、呼ぶから・・・っ」
 押し出し、扉を閉めた瞬間。舟木の手が葛井の後ろ首を掴み、そのまま引き倒した。
「あぅ・・・っ!」
 全身を強か打ち、苦しそうに息を吐く。その胸倉を掴んで持ち上げられ、葛井は恐ろしさに歯を震わせた。
「クズ、てめぇ・・・」
 射抜くような眼光で睨み付け、ぐいぐいと寝室まで引っ張っていった。途中でとらとかち合うも、無視して葛井をベッドに投げ込む。足元でにゃあにゃあと騒いでいたが、扉の外に追い出した。
「そんなことするから、嫌われるんだよ・・・」
 咳き込む葛井にそんなことを言われ、一気に血が昇る。せっかく起こした半身をベッドに沈ませると、その肩を爪が食い込むほどの力で縫い付けた。
「った、ちょ・・・大河さん、落ち着いて」
 抵抗する葛井を無視して、ボタンが飛ぶほどの力でシャツを剥ぎ取った。それで両手首を一くくりにし、体を離した。
 そしてクロゼットを開けて服を取り出す様子に、葛井は残っていた冷静さをなくした。服を着るということは、抱く気がないということだ。ただ、痛めつけるだけ。それこそ、葛井がボロボロになるまで。
「っま、待ってよ大河さん! 何か、何か誤解してるって・・・! 俺、大河さんが思っているようなことは何も・・・」
「俺が、何を思っているって? あ? 言ってみろ!」
 空気が震えるほどの怒号に、目が泳ぐ。そんなこと言われても、葛井には舟木の苛立ちが何からきているのかさっぱり分からない。
 いや、今日の場合は、一体いつからか、だ。
「とにかく、俺の話を・・・」
「黙れ」
 低く放った言葉に、葛井は言葉の続きを飲み込んだ。舟木は、菅と隠れて会っていたことに怒っているだけではないようだった。
 こうなっては何を言っても無駄だ。壊れる寸前までメチャクチャにされて、その後舟木の気分が鎮まるのを待つしかない。
 覚悟して、葛井は一度だけ深い呼吸をした。


 途中からは泣き声も上げなくなった葛井の腕からシャツを抜いてやりながら、舟木は自分のガキ臭さに呆れるばかりだった。
 舟木には、溢れる破壊衝動を大切なものにこそ強くぶつけてしまうという傾向がある。
 勿論普段は自制しているのだが、怒りに我を忘れるとどうにもならなくなる。自由を奪った相手の全身を強く打ち、目を回すほど揺さぶり、吐くほど攻め立てる。
 一度完全に呼吸を止めかけたことがあってから絞首することだけはやめていたが、それこそギリギリだ。首に手をかけては、寸でのところで耐えている。
 問題なのは、葛井がそれを受容してしまうところだ。舟木が暴力を奮ったあとに優しくなることだけをひたすら信じ、意識を失おうと痣が酷くなろうと葛井が文句を言ったことはない。その許容されるという甘さが、舟木の抑えを効かなくさせている。
 舟木はそれが恐い。
 いつか、本当に殺してしまう日が来るような気がして。
 血の滲む口端に手を添えると、朦朧としている葛井が顔を向けた。しかしその目が開かれることはなく、舟木は暗鬱とした気分で寝室を後にした。
 水でも飲んで落ち着こう。夕日もすっかり落ちて暗くなった部屋で溜め息を吐くと、来客を知らせるチャイムが鳴り響いた。
「誰だ・・・?」
 そういえば、さっきから何度か鳴っていたような気もする。電気を点け、客人を確認しようと見たモニターの前で首を傾げる。誰もいない。
「いたずら、か?」
 苛立たしげに舌を打ちかけたとき、もう一度鳴った。そこで、はっとする。
 この音は、玄関にあるインターフォンを押したときのものだ。ということは、同じフロアの人間か。
 そう思って、すぐに否定する。このマンションに、舟木の知り合いはいない。完全防音なので、さっきまでの凶行に対する苦情でもないだろう。
 考えていてもしかたないと思って開けた先には、さっき帰した菅がいた。もう一度襲うとしていたのか。菅は慌てたように前に出していた手を引っ込めた。
「あ、と・・・舟木さん。巳春さんは?」
 内心ビクついているのだろう。激怒する舟木を見たのは、初めてだったはずだ。
「寝てる」
 素っ気ない返事に、しかしすぐには追い返されないところに意を決めたのか、菅は葛井が押し付けるようにして託した紙袋を差し出してきた。躊躇う舟木の手に、半ば強引に持たせる。
「何か誤解していたようですので。巳春さんはまだ渡したくないって言ってたけど・・・そんなこと言ってる場合じゃ、なさそうですもんね」
「お前、それだけのために?」
 追い出してから一時間弱は過ぎている。アルバイトの日ではないにしても、一旦帰ったってよかっただろうに。
 舟木の心中を察したのか、菅は手を前に出して首を振った。気にしないでください、と言い添えて。
「僕にとっては二人の仲が悪くなるほうが深刻ですから。気にするくらいなら、早く仲直りしてくださいよ」
 その言葉に、舟木は苦笑した。一般人のくせに、菅は舟木相手でも時々物怖じしないことがある。舟木のしていることを知っていて、つい先程はその怒気をまともに浴びておいて、なお。
「お前には敵わないな」
「二人の食生活の要ですから」
 にっこりと言われたら、もう笑うしかない。感情に任せて行動する自分なんかより、この学生の方がよっぽど肝が据わっている。たまに、本気で勧誘したくなる。
「それじゃあ僕はもう帰ります。巳春さんには、謝っておいてくださいね」
 最後まで葛井を気遣い、菅は帰っていった。年は違えども、あの二人には深い友情が刻まれているようだ。
 菅の去った玄関で暫く立ち尽くし、溜め息を吐いて居間に戻る。その瞬間、どこにいたのか、とらがしなやかな体を翻して、目の前に立ち塞がった。なんだか責められているような視線に、思わずたじろぐ。
「わかってるよ。・・・ったく、なんだってみんなあいつが好きなんだ」
 ぶつぶつと言いながら、冷蔵庫にあるミネラルウォーターを持ち、寝室の照明を点けた。明るい下で見ると、ますます惨たらしい。
「巳春」
 呼びかけに、小さく反応する。そして弱々しく伸ばされる細い腕を自分の首に回してやりながら、紙袋をベッドサイドの机に置いた。
「喉渇いただろ?」
 反射のように頷く体を少しだけ起こし、口移しで飲ませてやる。いくらか零したが、それでも葛井の意識をはっきりさせるのには充分だった。二、三度と繰り返すと、弱かった瞳に光が戻ってくる。
 その唇から零れたのを拭いてやりながら、舟木は首を傾げた。
「何を笑ってんだ?」
「だって」
 くすぐったそうに笑みを浮かべ、舟木を見やる。
「さっきと、全然違う。今日こそ、殺されるかと思った」
 舟木の良心を痛めるようなことを言いながら、葛井は顔をほころばせた。子猫のようにすり寄り、まだ足りないとばかりに口を開く。
 それに応えてやりながら、舟木は心が落ち着いていくのを感じていた。なんの解決もしていないというのに、葛井が許してくれるうちはまだ大丈夫なのだと、気分が安らぐ。
「・・・それ」
 身じろぐ葛井の視線が、紙袋に注がれていることに気付く。
「渡されちゃったんだ? 当日まで、内緒にしたかったんだけど」
「菅くんが謝ってたぞ」
「ふふ、いいのに。・・・中、見た?」
「まだ。見ていいのか?」
 小さく頷くのを見て、舟木は葛井の腰の下にクッションを詰めてやった。冷えないように毛布で包み、どの隣りで同じように座る。
 紙袋の中には、簡易包装の施された箱が入っていた。片手でも足りそうな大きさの割に、ずっしりと重い。ちらりと窺った葛井の顔は楽しげで、つられて舟木も口角を上げた。
「これは・・・」
 同じデザインで、サイズの違う二つの時計だった。透明のケースに入ったそれをただ眺める舟木の手からそれを取り、ぱこりと開ける。
「これ、男女ペアの物なんだけどさ、大きい方は俺にはゴツすぎたから。それにペア物を男のだけ二つ買うってのも・・・さ?」
 想像しているのか、くすくすと笑いながら男物の方を舟木の腕に付け、もう片方を自らの腕にする。ベルト部分は黒く、文字盤は深い青色だ。一見シンプルだが、見る角度によってその青はくるくると表情を変えた。
「ベルトのところはね、タングステンって石なんだって。凄い硬いから、傷も付かない」
 ダイヤモンドの次に硬い鉱物で、テーマは傷の付かない愛。
 その皮肉のような説明に笑いながら、その重い時計を眺めた。ひやりと冷たい、硬い石。
「誕生日おめでとう、大河さん」
 毛布に包まったまま寄りかかる葛井の顔を黙って見ていたら、唇を尖らせた。
「本当は明日だって言いたいんでしょ? 全く、誰の所為で・・・」
 不平を飲み込むように、唇を塞いだ。突然のことに驚いて反応が鈍いのも無視し、舌を絡め取る。吐息も唾液も甘く感じられ、その中毒性にくらくらする。
「っん、ん・・・たい、は・・・っ」
 明日が誕生日だなんて、自分のことなのに初めて知ったような気がする。もう何年も、存在すら忘れていた。
 それを思い出させてくれたことより、プレゼントを貰ったことよりも、葛井が自分のことを考えていたという事実が、ただ嬉しかった。いい年して、泣きそうになる。
「・・・はる、巳春」
 濃いキスにとろりと目を潤ませる葛井を揺さぶって、その目を覗き込む。舌が痺れているのか、瞬き一つだけで反応した。
「悪かった。何も聞かないのは、俺の悪い癖だ」
 頬に、そして瞼に。帰すを降らせながら、その細身をきつく掻き抱く。
「い、よ・・・驚かせようと黙ってたのは、俺だし」
 ふにゃりと笑う唇に再びキスをして、舟木は一度体を離した。見下ろして、その愛らしい顔に問いかける。
「せっかく貰ったけど、はずしてもいいか?」
「え?」
「風呂行くぞ、巳春。箱入りの処女を相手にするように、丁重に抱いてやるよ」
 言いながらいやらしい笑いを浮かべる舟木の下で、葛井は顔を真っ赤に火照らせた。





後編へ→→→