前編

「もう、いい加減帰りませんか?」
 隠れ家的な小さな居酒屋。
 夏威のお気に入りで、家から場所は近いが浅月にとっては半年振りに入る店だ。もう一度来れるとは思っていなかったが、その感傷に浸る余裕なんてなかった。カウンター席で隣り合う夏威がぐだぐだに酔うのは、浅月に嫌な思い出を湧き起こさせる。既視感に、心が焦れた。
 そんな浅月の思いもお構いなしに、夏威は今しがた酒を注いだばかりのグラスをさっさと空にして、もう完全に座りきった目で浅月を睨んだ。話す声も、もう呂律が回っていない。
「付き合うって言わなかったか? お前は俺に嘘を吐いたのか?」
「そうではなく・・・」
 浅月は眉を下げて泣く泣くグラスを満たした。それを満足気に手にする夏威を見て、複雑そうな顔になる。
 こうして再び並んで酒を飲めるようになったことは、正直にいえばかなり嬉しい。
 もう二度と話すこともできないかと思っていた半年前から比べれば、まさに雲泥の差。
 そのきっかけになったともいえる人物、夏威の弟は、今友人の家にいる。ちなみに、夏威が今日自棄のように酒を呷っているのは、この所為だ。
 夏威の弟、春樹は不思議な魅力を持つ男だった。
 顔だけならただの平凡そうな青年なのに、何故か惹き付けられる。時折見せる表情の中にはドキっとさせられるものも多くあり、夏威のことを想いながら浅月も時々妙な気分になったものだ。
 そしてその友人、御門も春樹の魅力に捕らわれた一人だ。かなり最初のほうから執心していて、高校時からの付き合いである浅月も見たことのない甘い顔を見せるようになった。  ただ、その魅力がいつもいい方向に動くわけではない。そうと知ったのは、最近のこと。そして夏威の闇も、その時に知った。
 春樹は今日も身の危険にさらされた。友人やら浅月やらのおかげでことなきを得たとはいえ、本当に危ないところだったのだ。そしてその帰り道、春樹は御門の傍を離れなかった。抱き上げられたまま、その手は御門の手を離そうとはしなかった。  それを見て、夏威がどう思ったのかは分からない。
 ただ御門に何事かを言い、おろおろする浅月の肩を叩いた。
「飲みに行くぞ」
 元々強くはない上に、この状況。
 嫌な予感はしたが、浅月はその言葉に逆らわなかった。
 だって好きなのだ。
 その意志を汲んでやりたいと思うのは、当然ではないのか。
 そういった恋心は半年も前に無残なまでに砕かれたはずなのに、未だちくちくと浅月の心に爪を立てて残っているのだ。


 まだ飲める! と騒ぐ夏威を店から出すのは一苦労だった。
 それは紅子を椅子から引き剥がすのに必死だった御門も同じようで、肩に抱いた紅子を気遣いながら、浅月に笑いかけた。
「それじゃあ、なっちゃんのことお願いね。アタシはこのまま送っていくから」
 酔っ払い二人組は、店を出た途端にうつらうつらとし始めており、駅に着いたときにはもう殆ど寝ていた。そんな状態の人間一人を抱えて歩くのは結構な重労働で、しかも夏威は浅月よりも背が高い。しかし御門や紅子とは沿線も異なるし、何より想い人を誰かに託すなんて自分が許せない。毎度のことであったし、浅月は御門に手を振って電車に乗り込んだ。
「先輩、夏威先輩!」
 少し揺らしただけなのに、その目は不機嫌そうに開かれた。その剣幕に一瞬怯んだが、振り払って覗き込む。
「もう今日は遅いんで、ウチに来てください。いつかの歯ブラシもありますし」
 同じ方向だが駅は違う。大体は家まで送って引き返すのだが、今日はそんなことをする時間はなさそうだった。だからと言って一人で帰らせるのは恐ろしいし忍びない。夏威もそれを理解していたのかは分からないが、面倒臭そうな顔をしながらも頷いた。
 いつかの・・・初めて泊まらせたとき、夏威は舞い上がった。好きな人の家に泊まるのも、泊めるのも大イベントだ。
 しかしそれは、浅月にとっては危険な選択であったとそのときに知った。
 夏威は酔うと、かなりエロティックな誘いをかけてくるのだ。


 半年前の記憶を頭一振りで消し去り、浅月は机に伏す夏威の肩を叩いた。
「さ、兎に角帰りましょう。お冷貰いましたから」
 ぐたりと伏している夏威を起き上がらせ、その口に良く冷えたグラスをつけた。唇が動き、特に抵抗もせず飲んでいく。
 夏威と顔見知りの店員に手伝ってもらいながら店を出て、その場でタクシーを捕まえた。絶対吐かないと分かっているので、浅月は時間がかかろうともこうして送ろうと最初から思っていた。
 決して、家には上げないように。


 あの夜、浅月の使うベッドに下ろした夏威はすやすやと眠りに就いた。
 気分が悪くなる様子もないことに胸を撫で下ろした浅月がシャワーを浴びて戻ったとき、その目はゆらりと開かれた。そして普段は滅多に見せない柔らかな笑顔で、呼んだのだ。
「来いよ、浅月」
 とろりとした目は、今までも何回か見ている。それに含まれる熱も情欲も本気ではないことを知っているから、その何度もを浅月は耐えることが出来た。
 こんな、酒に酩酊して意識のはっきりしていない夏威に誘われたところで嬉しくなんてない。きちんと場を踏んで、告白して、そして出来れば受け入れてもらってからことに及びたかった。
 少し前の自分からは考えられないほど、浅月は夏威を真剣に想っていた。次の日には忘れられてしまうような行為に、乗ることなんて出来ない。
 しかしこの日、浅月は少しばかり気が立っていた。
 こうなった場合、近付いてベッドに横たわらせて胸を叩けば、いつも安らかに寝息を立て始めた。
 その対処を知っていながらそうできなかったのは、小さな嫉妬心から。
 その日開かれた飲み会は夏威の助教授昇進を祝うもので、その席で夏威は憧れの教授についてずっと嬉しそうに語っていた。学生時代からその著書に惹かれ尊敬していた人で、今こうしてその人の院に入れたことさえ奇跡のようなのに、また更に近くで手伝えるなんて夢のようだと。
 その教授はもうかなりの高齢だし、妻子もいるから世界が変貌したところでこの二人がどうこうなるなんてある訳がなかった。
 それでも、夏威の口から男の話を聞くのはどうも嫌で。それも、始終楽しそうな顔は、時間をかけて浅月の心を蝕んだ。目を輝かせて誰かを語るなんて、やめて欲しい。
 ふと湧いた小さな苛立ちは、いつもは浅月を押し留めてくれていた理性など簡単に吹き消した。
 こくりと喉を鳴らし、肩に手を置くといつもはそのまま後ろに倒す体を引き寄せて。
 触れた唇は、想像のものなんか比べ物にならないくらい柔らかく、そして狂おしいほど甘く。
 今までの我慢なんて、もうどうでもよくなってしまった。この先に何が起こるかなんて、思い浮かべる余裕が浅月の中には一縷も残っていない。
 夏威の正気が戻ったのは、浅月が猛ったその身を夏威の細い体に埋めようとしたときだ。
 酒ですかすかしていたはずの頭は一瞬で状況を理解し、そして鈍い体をなんとか動かしてそれに抗った。
 罵倒と、蔑み。
 好きな相手から容赦なく投げられる言葉は痛くて苦しくて。
 浅月はその口を力任せに押さえ付け、至近距離で勝気な目を覗き込んだ。
 その時吐いた言葉を、浅月は今でも覚えている。それを聞いた夏威の反応は、まだ夢に見る。
「煩いんだよ。あんた、僕の手で何回イったか教えてあげましょうか? 男の手に、唇に反応して、あんたは善がり狂ってたんだ。今更なんだよ」
 夏威の目から色々なものが失せていくのを感じた。黒い染みのようにできた後悔は小さくて、その後生まれた濁流のような快感に流されて跡形もなくなった。
 お互い何も喋らないし、もう夏威が抵抗することもなく。
 喘ぎ声はおろか、泣くこともしなかった夏威の中に散々吐き出しながら、浅月は自分が泣いていることにとうとう気付かなかった。
 一瞬だけ、夏威が自分を見たことにも。


「あ、そこ右じゃなくて左でお願いします」
 座りきった目の割にはやけにはっきりとした口調でそう言い、驚いた浅月が一瞬反応に困っている間にタクシーは曲がってしまった。
「ちょっと先輩、何考えてんですか。こっちは僕の、」
「お前こそ何を考えてんだ? ここから俺んちまで行くとして、一体いくらかかると思っているんだ」
「いえ、お金なら僕が・・・」
「誰が金の話なんかするか。もっと常識で考えろよ」
 細めた目で言われ、浅月は言葉に詰まった。
 夏威が院生のときに見つけた店である。引越した今となっては家までの距離が遠いのは当たり前だ。しかし。
 運転手にUターンしてもらおうと浅月が身を乗り出すと、夏威はその襟首を掴んで引き戻した。軽く咳き込んで、涙目で見た夏威は緩く櫓を漕いでいて。もう声を発するなというような態度に、浅月は黙るしかなかった。
「なんで・・・」
 ただ一言小さく吐いた疑問は、車のエンジンに掻き消された。


 部屋に着いた途端、夏威は服を脱ぎ散らかして浴室に向かった。それを無言で拾い集めながら、浅月は気分が沈んでいくのを感じていた。
 何故、こんなことに。
 夏威の本心が分からない。忘れようとしているのか、それとも元々気にすらしていなかったのか。
 シャツを握り締め、この間のキスを思い返す。
 弟を助けられなかったと悔やみながら、夏威はただ震えていた。春樹のように取り乱すことも、泣くこともせず。
 ただ己の内にある悲痛や悔恨を、自身への罰だとでもいうように押し留めていた。
 その姿が愛おしくて。
 怒られるだろうとは思ったが、衝動のまま抱き寄せてその唇に咬み付いた。
 春樹には悪いが、正直言うと羨ましい。夏威の中に、強くその存在を刻み付けた彼が羨ましくて、渇望する。
 好きで、好きで好きで堪らないのに。
 慈しむようにシャツを鼻先に擦り付け、深く息を吸い込んだ。
 もう、他の誰のことも考えないで欲しい。
 その瞳に自分だけを映し、そして自分のことだけを考えればいい。
 そうしてくれるのなら、その感情が恨みだって憎しみだって構わないから。
 ポタリと涙がシャツに落ちたとき、浴室から何やら音がした。それは単なるものが落ちた音なんかではなく、浅月は慌てて涙を拭い浴室へと駆け込んだ。
「先ぱ・・・」
 脱衣所に上半身を投げ出して横たわる夏威の姿に、浅月は呼吸が止まるやもと思った。酔っていた所為だろうか。どこか打ってやいないだろうか。
 叫びたい衝動を抑えて頭を抱き上げると、夏威は低く呻いてを開けた。泣きそうな浅月を見て、くつりと笑う。
「・・・んだ、その顔。ちょっと躓いただけだっての」
 そう言うが、なかなか起き上がる素振りを見せない。怪我はないようだが、大分酒が回っているようだ。浅月は眉を顰めると、その体にバスタオルをかけて持ち上げた。
 大の男を、それも自分より大きい人物を抱えて移動するのは一苦労だ。だが浅月はふらつきながらも、夏威を落とすことなく寝室のベッドまで運んで行った。
「・・・ん、悪いな」
「・・・服はそこに入っているので、適当に着て寝てください。僕は居間で寝るんで」
 苦汁を舐めるような顔でそう言い放ち、浅月は立ち上がろうとした。その腕を掴んで、夏威が眉を寄せる。
「お前、さっきから何怒ってんだよ」
「怒ってませんよ」
「嘘吐け。こっちを見ようともしないじゃねえか。なんかあるなら言えよ」
 ムっとしたようなその言い草に、浅月の中で何かが切れた。掴まれた手を振り払い、夏威を睨み付ける。
「無神経なのもいい加減にしてくださいよ! なんで見ないかって? あんた、本気でそんなことを訊いているんですか?」
 呆気に取られている夏威の前で、片目を覆うように顔に手を添える。
「僕が、僕がどんな気持ちでいるか分かってんですか? 僕に取って先輩は恋愛対象で、つまり、そういう対象な訳で・・・っ」
 溜めていたものが堰を切って流れ出るようだ。言いたくなんてないものまで、回り始めた舌は勝手にペラペラと口にする。
「好きだって言ったじゃないですか! キスだってして、それ以上のことだってしたのに!」
「お、い」
「あんたには危機感ってものがないんですか? 僕がこんなに我慢しているのに、それなのに目の前で酔ってみせたり、あまつさえそんな格好・・・!」
 膝から崩れてしまいそう。
 いつだって不安定で、地面に安定感なんてなかったのに。
「いつも、いつもビクビクして、僕はあなたが・・・っ、こんなの、酷すぎる!」
「あさ、」
「名前なんて呼ばないでくださいよ! もう同情されるのなんて真っ平だ! どうせなら、徹底的に嫌ってくれればよかったのに・・・!」
「おいって、浅月」
「あ、あんたにはバカみたいな話なんでしょうけど、僕は、僕は必死で、」
「浅月!」
 怒鳴られて、浅月はビクリと顔を上げた。ぼやけた視界の中で、夏威が呆れたように睨んでいる。
「あ・・・ごめ、ごめんなさい・・・僕、こんなこと言いたいんじゃ・・・」
 いつの間にか流れていた涙をぐいぐいと拭き、踵を返して逃げようとしたが足が動かなかった。唇も震えて、言葉が途切れる。
 ベッドに腰掛ける夏威の視線で、浅月はしゃくりあげた。
「すっ好き、なんです・・・先ぱ、を思うと、っく、苦しく・・・て、」
 もう解放されたい。こんなに悲しいなら、好きになんてなりたくなかった。
「こ、こんな、ことなら・・・会いたくなんて、なかっ」
 言葉の途中で顔に丸めたタオルを押し付けられた。繊維が口の中にごわりと入り、糸の味がして気持ち悪い。
「な、何す、んですか」
「見苦しいんだよ」
 殴るようにタオルを投げつけ、夏威はベッドを降りた。そしてふらつく足取りで近付いたクロゼットから服を漁り、勝手に着ると部屋を出て行こうとする。
「先輩?」
「俺はなあ」
 追おうとした浅月を振り返りもせず、夏威は声を出した。ぴたりと、浅月の足が止まる。
「お前を許そうと思ったことも、なかったことにしてやろうとも、思ったことはないからな・・・」
 ちくりと、浅月の中にあった罪悪感が再び火を吹いた。それは、広がりながら古傷の上にちりちりと焼き痕をつけていく。
「・・・じゃ、なんで来たんですか。なんで、前みたいなことを」
 罪悪感の火が、燻っていた怒りの炎をも煽る。
「僕を、試したんですか?」
 ぐらぐらと煮えるような苛立ちを声色に混ぜた。それを夏威は敏感に汲み取り、違うと首を横に振る。
「俺にも、分かんねえよ」
 分かりたくもない、ともう一度呟いて、夏威は部屋を出た。
 ぱたんという扉の閉まる音が、浅月にはひどく現実味のないものに聞こえてならなかった。





続。