後編

 何がしたかったのだろう。
 春樹を口実に浅月の出方を見て、最近では以前のように会話までして。今日に至っては夏威の方から飲みに誘ったり。これでは、浅月が許されたと勘違いするのも無理はない。
 そう、勘違いなのだ。
 深夜の静まる街並みを歩きながら、夏威は自分に言い聞かせるよう頷いた。
 勘違い以外の何物でもない。だって夏威は、浅月を許せる筈がないのだから。
 夏前とはいえ夜気はやはりまだ寒い。思わず出て来てしまったが、もう終電は過ぎている。今となってはタクシーを呼ぶのもバカらしいし、さあどうするかと考えていたら、背後から近付く足音に気が付いた。
「せ、先輩・・・っ」
 ばたばたうるさい足音に被さる、荒い息。
 だるそうに振り返ると、浅月は3、4歩前で立ち止まった。
「なんだよ」
「も、戻ってください。もう、煩わせたりしませんから」
 喉を押さえて喘ぐ浅月に、夏威は溜め息を吐く。
「歩いて帰るから気にするな」
「気にします。帰せる訳ないでしょう」
「・・・あのなあ」
 何か言おうとして、夏威は口を噤んだ。浅月の目が、思いのほか真剣だった所為だ。
 夏威としてもその言葉に甘えたい気持ちはある。歩いて帰るとなると恐らく朝までかかってしまうだろうし、明日も早くに大学へ向かわなければならない。ただ、嫌なだけだ。
 眉を寄せて口籠る夏威を見て、浅月は辛そうな笑いを見せた。ずきりと、胸が痛む。
「僕と一緒なのが嫌なら先輩が帰るまでどこかに行ってますから。明日先輩が出た後に、」
「お前は」
 ひどく落ち着いた声が、浅月の声を遮った。これといった表情が作れないのか、唇だけ動いている。
「そんなに気を遣って、何がしたいんだ? 俺に、許してもらいたいだけか?」
 小さい声なのに、浅月の耳にはよく聞こえ、そして深く刺さった。顔を顰め、酷い、と呟く。
「僕は貴方が好きなんです。好きで、好きだから、二人になったらまた何かしてしまいそうで・・・それを先輩は嫌だって、知ってるから・・・」
 また泣くのだろうか。そう思ったが、浅月は細く溜め息を吐いて気を落ち着かせた。夏威の足の方を見て、諦めたように笑う。
「先輩こそ、僕をどうしたいんです? 僕の気持ちなんて、どうせ笑っているんでしょう?」
「笑ってなんか、いない」
 浅月の顔が上がったが、その視線は夏威を避けて後ろの方に注がれた。それに小さな苛立ちを感じ、すぐに掻き消した。
「はは、笑ってくださいよ。男の貴方に、本気で惚れてるんです。気持ち悪いでしょ?」
 それは、夏威の知らない笑顔だった。嫌な感じに、唇を歪めている。
「・・・笑える訳ない。だって、お前、本気なんだろ?」
「ええ」
 浅月の顔から表情が消えた。
 それはまるで穏やかな海面のようで、その下で何が起こっていようと悟させない顔だ。
「本気ですよ。でも、先輩は僕が本気であればあるほど、嫌なんでしょう?」
「嫌に・・・決まってるだろ!」
 声を荒げられ、浅月は口を閉じた。そして無表情の上に、口端だけ上げた笑みを貼り付ける。
「・・・やっと言った」
 落ち着いた声で言った浅月の目から、涙が一筋流れた。つ、と顎を伝い、首元から襟に染み込んでいく。
 静かな、泣き方だった。
 これを、夏威は前にも見たことがある。
 痛くて苦しくて。殺してやるとまで思っていたあの夜、頬に落ちる水滴にふと目を開けた。薄暗い部屋で、浅月は嗚咽も上げずただ涙を流していた。拭う様子を見せなかったので、気が付いてもいなかったのだろう。目は開いていたのに、夏威の視線に気付きもしなかった。
 その表情が一瞬崩れ、辛そうに眉を寄せられた。奥で、さっきから何度も感じていた熱を感じたとき、浅月は心底気持ちよさそうな顔をした。
 あの日ただ逃げるように家へ帰ったあと。何度もかかってきた電話を無視し続けたのに、電源を切ろうとは思わなかった。着信拒否だってできたのに、それもしなかった。
 大学に残ったあとだって、徹底すれば会わないでいることもできただろうに。
 春樹をゼミ室に行かないよう縛り付けることだってできた。
 切ろうと思えば切れた関係を切らなかったのは、他でもない自分だ。
 浅月の見せたその表情が、いつまでも頭から離れなかったから。
「・・・・・・」
 無意識に足が前に出た。自分よりやや低い位置にある目が、胡乱げに向けられる。
 その目から、流れる涙を。
 夏威は手の平を頬に吸い付かせるようにして、拭った。
「・・・なんですか」
「・・・うん、」
 頷いたが、続ける言葉が見つからない。自分の中に生まれた衝動に理由が付けられない。
「僕といるの、嫌なんでしょう?」
「嫌、だよ」
 何度目かの拒絶の言葉は、控えめであったが浅月の目を悲しげに細めるには充分で。しかしその表情を見て戸惑いを見せる夏威に気付いたのか、その先を無言で促した。夏威の頬が、僅かに染まる。
「嫌な、筈なんだ。嫌じゃなきゃおかしいだろ・・・おかしいだろ、絶対」
「せん、」
 浅月の声は中途で途切れた。
 その唇には夏威のそれが重なり、そしてすぐ離れる。
「・・・っ」
 理解する前にうなだれてしまったその顔は見えないが、髪の隙間から覗く耳は湯気が立つのではというほど真っ赤に染まっていて。浅月は、嬉しさで体が動かなくなるということを始めて体感した。
 その感動に打ち震えていると、夏威の顔が控えめに上げられた。
「何か、言えよ」
「な、何かと言われましても・・・実感が、ですね」
 言いながら、浅月は夏威の前髪を分けた。合うことで照れて泳ぐ黒目に、胸がきゅうんと甘く痛む。
「もう一回したいんですけど・・・いいですか?」
「・・・バカじゃねえの」
 そうは言ったが、夏威は大人しく目を閉じた。


「ばっ・・・かやろ! どこ、舐めてんだよ!」
 暴れる夏威の足に顎を蹴られ、浅月は一瞬怯みながらも再びその両足の間に身を入れた。
「こうなるとは夢にも思ってなかったから、ローションも何も用意してないんですよ。それとも、先輩が僕の舐めて濡らしてくれるんですか?」
 そう言われたら、夏威としてはもう黙るしかない。
「それにほら、先輩のいやらしい姿ならもう随分拝見させてもらいましたし」
 その言葉に、夏威は声を失ったように口をぱくつかせた。
 やけに嬉しそうな浅月に引かれる形で戻った部屋で、入った途端抱えられベッドまで連れて行かれ気が変わる前にしましょうなんて言う浅月に組み敷かれた。ふざけるな、調子に乗るなと暴れたのは最初だけで、殴っても引き下がらない執念に結局は根負した。
 そして、すぐにその諦めを後悔した。
 勉強一筋で女との経験も少ない夏威と違い浅月の手管は慣れたもので。指も舌も、その言葉の一つ一つさえも夏威本人すら知らなかった性感帯を探り当て、刺激し、追い詰めるのだ。何度も逸らされては懇願し、こんな恥は二度とないというような行為までさせられた。もうこれ以上何されてもいいやとも思っていたが、そんなところを舐められるのはごめんだと、夏威は腰の下に入れられた枕を投げつけた。
「させてください、したいんです」
 枕を胸元で握り、浅月が必死な目で見てくる。どうやら以前のことを相当気にしているようで、夏威を翻弄しつつもその仕草から気遣いが消えることはなかった。捨てられた子犬のような視線が、夏威の弱い部分を突く。
「痛い思いなんてさせたくないんです」
 そんなことを言われても、という思いと、また泣かれたら困るという思いが交差する。
 夏威は面倒臭そうに頭を掻くと、浅月の手から枕を奪ってその上に顎を乗せた。
「先輩?」
「どうしてもってんならさせてやる。・・・けど、大股広げんのは嫌なんだよ。分かれ」
 そう言って腰を高く上げた格好は、本人に自覚があるかどうか知らないがされている側から見ればここまで魅力的なポーズはないだろう。浅月は口を覆い、夏威のこういうことに対する疎さを心の底から感謝した。ひとしきり眺めたあと、その形のよい双丘に手をかける。
「先輩、奇麗」
「な、撫でまわすな・・・っぁ!」
 肉を割り開いて現れた中心に舌を当てられ、夏威は抱えていた枕に顔を押し付けた。熱く濡れた柔らかい感触に全身が総毛立つ。しかしそれが不快からくるものだけではないと、足の間で揺れる性器が嫌でも教えてくる。その反応に、浅月は気分をよくして奥まで舌を差し入れた。
「あっ・・・あぁ・・・!」
 指が痛くなるほど強く枕を抱き込んで、夏威は切なく鳴いた。奥の奥まで唾液を流し込もうとする舌の動きが、腰を砕けさせる。目の前がチカチカして、変になりそうだ。
「ん、んはっ・・・だめ、だ・・・っ」
 ずるり、と指が侵入してくる感触に、夏威は全身を小さく波立たせた。ぱた、とシーツを打つ音に、浅月が下を覗き込む。
「あれ? イっちゃったの?」
「・・・っ」
 泣きそうな顔を真っ赤にさせて、夏威は枕を咬んだ。浅月が、指を中で動かしながらそれを諌める。
「歯に悪いです。口を開けて」
 枕カバーを引っ張るが、頑なに歯を立てる姿に、浅月は中の指を無理やり二本に増やした。
 唾液で潤っているとはいえ、まだそこまでの質量を受け入れる準備はできていない。苦しさに、呼吸を整えようと自然口が開いた。
「・・・ぁ、あっんん・・・う!」
 二本の指を根元までぐねぐねと差し入れ、片手で尻の肉を広げながら時々唾をなすり付ける。
 空気と唾液が指によって掻き回され、じゅぷじゅぷといやらしい音が立つ。それに合わせるような夏威の声も、だんだんとすすり泣きに変わっていった。いつの間にか三本に増やされた指を飲み込むそこは、溶けたようにほぐれ誘うような蠢きを見せている。
「んあ・・・あ、浅づ、きぃ・・・」
 首を捻り、快感に潤んだ目で見れば、浅月は唇を舐めて指を抜いた。かくんと、夏威の膝が崩れる。その体を仰向けにして、張り付いた前髪を摘まみながらキスしていく。舌を歯で甘咬みしたとき、腕の中で震えるのが愛おしい。夏威が嫌がるのも無視して、その足を大きく開いた。
「あ、あさ・・・」
「先輩、大好き」
 ぐ、と押し付けられ、その直後燃えるような痛みに夏威は奥歯を軋ませた。
 指なんか比にならない。以前は何故我慢できたのか分からない涙が、固く閉じた瞼の隙間から溢れ出した。その目尻に、浅月の手がかかる。
「ごめ・・・先輩、力、抜いて」
 覗き込む顔は苦しそうで、しかし吐かれる息は甘く感じられた。夏威はその首に手を回し、深呼吸する。
「ん・・・そう。いい、よ、先輩」
 息を吐くたびにず、ずと進む圧力に、夏威は自分の腕に爪を立てて耐えようとした。痛みに喉の奥で鳴くと、その手の位置をずらされる。
「いくらでも、傷付けていいですから」
 そう言われ置かれた背中を強く抱きこんだのと同時、浅月の腰がぴたりと密着した。全部入ったのかという事実に、嬉しくなるのが止められない。思っていた以上にいかれてるな、と夏威は自嘲し、そしてそれがバレていないかと焦って浅月を見た。
 窺った顔は、いつかのように気持ちよさそうに緩んでいて。思わず、痛みを忘れて吹き出した。
「そんなにいいのか、俺の中は」
 からかいの言葉に、浅月の開いた目からポタポタと零れるものがあった。夏威の顔を両手で確かめるようにさすり、静かに泣いている。
「凄く・・・凄くいい、先輩。もうホント、大好き」
 好き、好きですと呟きながらキスする浅月に、夏威は苦笑した。
「結局泣くんだな、お前は」
 前と違うのは、その目がちゃんと夏威を映していることだろうか。
 唇と涙が肌に落ちるのを感じながら、夏威は背中に回していた手でその頭を抱き込んだ。そのまま幼い子供にするようによしよしと撫でてやると、胸の奥がほっこりと温まるような気がした。


 カマをかけただけのつもりだったのに、夏威は最愛の弟の性事情を他人の口から聞く羽目になった。
 その憎むべき相手はくねくねとムカつくほど浮かれており、腰の痛みも相俟って夏威の不機嫌ゲージは上限一杯まで昇っている。何かしらの嫌がらせをと思って口にした言葉は、にやけるほど効果的だった。時間差で現れた最愛の弟にも、小さいながらも意地悪を。
 二人がおろおろする様子を見て笑っていたら、ゼミ室の扉が開いた。ビニル袋を片手に、浅月が息を切らせている。
「なんだ、遅かったな。間に合ったか?」
 にやにやと笑う夏威の前に、情けない顔でビニル袋の中身を並べていく。つい先ほど、閉店間近の学内生協まで買い物を頼まれたのだ。しかも、自腹で。
「好みのがない、とか言わないで下さいね。ほんと、大変だったんだから・・・」
「あ? なんでもしますっつったのはお前だろうが」
 凄むと、浅月は口を閉じたが頬は緩んでいた。今朝からこっち、浮かれまくっている。その原因が自分かと思うと悪くはないが、如何せん腰が痛すぎる。苛立ちのほうが勝っているのが現状だ。それに。
「何よ、敬心。その浮かれようは・・・ま、まさかぐふぁっ」
「な、夏兄?!」
 御門が勘繰るから嫌だ。とりあえずクッションをぶつけて牽制してみたものの、おかげでバレてしまった。
 顔に受けたクッションが落ちる前に受け止めた御門が、恨めしげに目を細める。
「何よ・・・アンタたちばっかりいい思いして! アタシだって、アタシだってきーちゃんとげへらっ!」
「それとこれとは話が別だ! ボケ!」
「わあ、夏に、やめ・・・」
「せ、先輩・・・そんなに動いたら・・・」
「うるっさい! 喧嘩なら外でしてちょうだい!」
 がたがたと騒ぐ部屋に響く声に、四人ははたと動きを止めた。
「い、いたの? 紅子ちゃん・・・」
 一人レポートに追われる紅子に暫くのゼミ室立ち入り禁止令が出たのは、言うまでもない。






終。


紅子オチ。笑。