「ヒロちゃん! ヒロちゃん、待って・・・」 普通に話せば良い声なのに、その青年は縋るように前を行く青年を呼ぶものだから、なんだかな妙に甘たれた声のようになっていた。 すたすたと後ろを気にする素振りもなく早足で歩いていた青年は、その声が自分を呼ぶのを十数回聞いた後で、漸く振り向いてくれた。呼んでいた方はそこで躊躇いながら足を止め、ほっとしたように顔を崩した。 「ヒロちゃん」 「その呼び方は止めろって言ったろ」 「・・・広、海」 十倉広海はその呼び方にも少し文句があったようだが、何か言いかけて口を半開きにしただけで、結局再び踵を返してしまった。後ろを行く笹貫雄大も、慌ててその後に続く。 さっきよりは全然歩みが遅い。話は聞いてもらえなかったが、これなら離されることもないだろう。以前のように一緒に帰れる、と雄大は肩の鞄を掛け直した。 雄大は4分の1ほどイタリアの血が混じっているとかで、肌は白く髪も若干明るい色をしている。身長もやや高めのなりをしているのだが、いささか小心の気がある所為でせっかくの長身をかがめてしまっている。その上いつも幼馴染である広海の後をついて回るため、周りからは色々バカにされてもいた。本人は、そんなこと全く気にしていないようだが。 しかし、付き纏われる側からすればとんでもない。 物心ついたときからお隣さん同士で、年が同じこともありすぐに仲良くなった。昔は御伽噺に出てくるような容姿の友人がいることが誇らしくもあったが、中学の途中辺りから疎ましく思い始めた。何故なら、自分が好きになる女の子は皆、雄大のほうを好きになってしまうからだ。本当、嫌になる。 今日だって、2月14日、いわゆるバレンタインという日なのだが、普段はバカにされている癖に、しっかり女子全員からチョコを貰っている。歩くたびガサガサと紙袋の音がするので、それが耳障りで何度も舌打ちをした。 広海だって悪い容姿をしているわけではない。ただ、少しばかり目つきが悪い所為で勘違いされるだけだ。本日も一応いくつかもらったが、全て机やロッカーに忍ばされていたものだ。本人から直接受け取ることは、叶わなかった。 「ひ、ヒロちゃ・・・広海」 「なんだよ!」 八つ当たりなのはわかっていたが、声を荒げてしまうのを止められない。振り向いた先でビクリを肩を跳ねさせるのにまたイラついていると、雄大は言いにくそうに横を指差した。 「家、通り過ぎてる・・・」 かっと顔を熱くしたが、何も言わずに雄大を押しのけて門を通った。小さく呻くのが聞こえたが、知るものか。 「ひ、広海・・・っ」 「呼ぶな!」 「ご、ごめんね!」 謝られたことで、今度こそ頭に血が昇った。肩にかけていた通学鞄を、中に辞書が入っていることは承知で、力いっぱい投げつけた。そのまま振り向いて、視界の端で雄大がよろめくのを見て見ぬふりしながら家に飛び込んだ。外で何か騒いでいるが、もう知らない。 「お前なんて、大っ嫌いだ・・・」 およそ二ヶ月前には大衆の面前で叫んだ言葉を、今度は呟くように漏らした。 何十分玄関で座り込んでいただろうか。すっかり夕日も沈んだ頃、制服のポケットが揺れるのにびくりと顔を上げた。 この震え方は電話だ、と急いで開いて耳に当てると、電話越しに聞くと自分のにそっくりな、兄の声が聞こえてきた。 『あ、広海? 僕今日帰らないからさ。母さんたち帰ってきたらそう伝えてくれる?』 「兄貴。また高木さんとこ?」 『まあね。今、先に家ん中入ってもらって、裸で首にリボン巻いて待ってるよう頼んだとこ。ちゃんとできてるかなー』 まるで語尾に音符マークでも付いてるような口振りだ。兄より年上の恋人を思い出し、苦笑する。 「あんま苛めないであげなよね。いつか逃げられちゃうよ?」 『広海こそ、あんまないがしろにしてると雄大くんに逃げられちゃうんじゃない?』 「なっ・・・」 『幼馴染は大事にね?』 可愛い口調で言い切ると、返事も待たずに通話を切った。広海の反論は、宙ぶらりんになって霧散する。 「あの、バカ兄・・・!」 兄の大湖は、昔からことあるごとに雄大との仲をからかってきた。そんなものではないと、何度も言っているのに。 大体、広海は女の子しか好きにならない。男との恋愛を否定するつもりはないが、なんていっても女の子の柔らかさと甘い匂いには敵わない。自分が男の恋愛対象になるとも思っていなかった。 「さて、と」 いつまでも拗ねている場合ではない。今日は英語和訳の宿題が出ていたのだ。だからこそ重い辞書なんかを持って帰ってきたのだ。 「あ」 その鞄を、さっき雄大に投げてしまったのだ。あちゃあと頭を掻きながら靴を履きなおし、扉を開けようとしてぶつかった。思った通りに、扉が開かなかったのだ。 「あぁ?」 「あ、ごめんなさい・・・」 消え入るような声に、扉が思い原因に気が付いた。またふつふつと湧き上がる怒りを堪えながら、その障害物がどくのを待ってから再び開いた。 「何してんだよ、お前」 「だってヒロちゃん、鞄置いていっちゃうから・・・」 「そこに置いておくか持って帰ればよかっただろうが。バカか」 早口に言うと、雄大は目に見えてしょんぼりとした。その姿にまた苛々として、乱暴に鞄をひったくろうとした。が、思いのほか強い力で引き返されて、暫しその場で立ち往生する羽目になる。 「離せよ」 「・・・や」 「はぁ? 離せよ、このバカ」 「だって、離したらヒロちゃん、帰っちゃうでしょ?」 「当たり前だろ」 「じゃあやだ。話、したい」 うっすら緑色の混じる目に涙が滲みそうになり、広海は苛々がピークに達するのを感じた。手を離して、扉を大きく開く。 「ならそのまま持ってきやがれ! この大バカ野郎が!」 靴を飛ばすように脱いで、どかどかと苛立ちを隠さずに二階の自室へと上がった。恐らくもたつきながらもついてくるだろう姿を想像し、もういっそ階段の上から突き飛ばしてやろうかとも思う。そんなこと、できるわけないのもわかっているのだが。 「ひ、ヒロちゃん・・・」 情けないことこの上ない顔で部屋に入ってきた雄大は、いつものように体を小さくしてローテーブルの低位置に腰かけた。広海はベッドにどすりと尻をつき、腕を組んで高圧的な態度だ。 「ほら、話せよ。何が言いたいんだ」 「み、深山さんのこと・・・」 深山恵梨。広海がここ一年、いいなと思っていた子の名前だ。 「お前の彼女が、なんだよ」 「ヒロちゃん、僕と深山さんが・・・その、勘違い、してる」 「勘違いだと?」 去年の12月、日数にすれば二ヶ月も経っていないあの日、深山と雄大はキスをしていた。クラスのみんなでクリスマス会をしようと、言った街の中で。 「あん、あんなことしててお前、付き合ってないだとか・・・」 「だからね、ヒロちゃ、」 「呼ぶなって言ってるだろ!」 怒りに任せて枕を投げつけると、奇麗に顔面にヒットした。ぽとりと落ちた枕を追うようにして顔を下げた雄大の目から、ぽたぽたと涙が垂れる。 「な・・・そんな強く投げてねぇだろ」 「ちが、目になんか、入っちゃ・・・」 「ばか、擦んな。見せてみ、」 ベッドから降りて顔を近づけた瞬間、手を掴まれた。あっと思うより先に顔を寄せられ、びくりとする。 「深山さんとも、こうなっただけ。深山さん、なんか入ったって言うから」 「は?」 「分かった?」 「わ、分かったから・・・」 久々に近くで見る顔は、思い出の中にあるものより奇麗で驚いてしまった。こんなにいい男だっただろうか、とつい胸が鳴る。 しかし真剣な顔は一瞬だけで、くしゃりと崩れたかと思うと結局泣き出した。ぎょっとする広海の前で、雄大が大きくしゃくり上げる。 「よ、かった・・・ヒロちゃんに嫌われたら、僕もう、生きていけない・・・」 「んな、大袈裟な・・・」 「大袈裟じゃないもん。だって僕、ヒロちゃんが好きなんだもん・・・」 「・・・え?」 ぐすぐすと泣きながら、とんでもないことを言われた。呆けている広海を余所に、雄大は訥々と続ける。 「初めて会ったときから、ずっと好き・・・中学上がってからかっこよくなって、焦ったのに、ヒロちゃん、僕のこと避け始める・・・し」 「何、言ってんだよ・・・」 かっこよくなったのはお前のほうじゃないか、とはちょっぴり悔しくて言えなかった。それに、言ったとしても雄大は聞いちゃいないだろう。未だに凄い勢いで泣いているものだから、掴まれた手の力が緩んでいることに気付いても振りほどくことができなかった。 「それにヒロちゃ、最近モテてるし・・・僕もう、どうにかなっちゃいそう・・・」 「モテてるって、お前のがチョコ・・・」 「こんなの義理ばっかだもん! ヒロちゃんのは、全部本命じゃないか!」 「そうなのか?」 こんな状況でなければ、急いで鞄を開いて名前を調べるところだ。しかしそんなことをしたら、雄大が何をしでかすか分からない。 仕方ないので、自由なほうの手で頭を撫でてやった。驚くように顔を上げた顔は涙でキラキラと光っていて、号泣しても美形は美形なんだな、と思わず笑いが漏れた。 「お前って、本当にバカだったんだな」 「ヒロちゃん・・・」 「まあ、お前の気持ちに応えてやることはできないけ・・・ど」 あれ、なんでいきなり目の前が暗く、そう思ったときには唇に柔らかいものが触れていた。しょっぱい、と一瞬感じ、それから正気に戻った。殴ろうとした手も押さえられ、そのままベッドに上半身を倒される。 「ん! おま、何すんっん、ぅく・・・っ」 まるで唇から喰おうとするような口付けに、広海は頭がくらくらした。抵抗の力が、削げていく。 こんななりをしていながら、弓道部で活躍する雄大の力は凄い。長い時間拘束されて、漸く離れた顔はいつもの情けなさを閉じ込めていた。雄の顔だ、と思う間にそれは元通りになり、自分のしでかしたことに気付いて青くなった。 「あ、ヒロちゃん、あの・・・僕・・・ごめんなさい!」 転がるように部屋を出て行くと、落ちるように階段を駆け下りて雄大は家を飛び出していった。その騒々しさが消えてから結構経っても、広海はぽかんとしたままで。 漸く動いたのは右手だけで、その指先はさっきまで濡れていた唇に寄せられた。ふにりと押して、もう一度。 「あの、バカ・・・」 口ではそう言っていたが、その顔が真っ赤に染まっていることを、広海本人は気付いていなかった。 いや、気付いていて、気付かないふりをしているだけなのかもしれない。 終。 09.06.01 |