「なあなあ、もういいんじゃないのか?」
 そう言って十数回とも思えるほど伸ばした手を、横から伸びてきた別の手にぴしゃりとはたかれた。さっと手を戻して、むぅと口を尖らせる。
「まだだって。それに、途中で開けたら冷気が外に出ちゃって、余計固まりにくくなるぞ」
 正論だと分かっていても認めたくない。尖らせた口を更に尖らせようとしたら、後ろから今度は頭をはたかれた。空気を漏らすような情けない音を立てた口をぐっと閉じて、拳を握りながら振り向いた。
「お前なぁ! 仮にも魔界の王子である俺を・・・」
「うっさい。せっかくリューが手伝ってくれてるんだから文句言うな」
 またもや正論だ。しかし今度のは聞かないと自分の非礼が増すばかりなので、横にいる男を拗ねたような顔つきで見た。
「ごめん、なさい」
 リューと呼ばれた見目のいい男は、ひねくれたようで素直な態度に小さくふきだし、手の甲で口元を隠しながら目を笑みの形にした。自然な流れで頭を撫でられて、くすぐったそうに唇を動かす。
 この手は一番大好きな手とは違うが、それでも平穏を与えてくれる気持ちのいい手だ。この人間は他の人間とは違うから、それが原因だろうか。
 なんてことを考えながらその手の心地よさに浸っていたら、また後頭部をはたかれた。一瞬止まって、今度こそやり返した。
「おま、調子に乗ってんじゃねぇぞ! ラズ!」
「リューは俺んだって言ってるだろ! ディアには手の平だってやらん!」
「いいじゃねぇか、出し惜しみすんな!」
「なっ」
「はいはいはいはい。もうおしまい」
 間に割って入ったリューが、ラズの額を持つようにしてディアから離した。暴れるラズをそのままに、リューがこちらを向いて微笑む。
「険悪なムードの中じゃいいものもできないぞ。楽しく、な。あげたい人がいるんだろ?」
「ん・・・まぁ」
 瞼を下ろすように目を細めて、ディアは鼻の横を掻いた。
「頑張ってな」
 再び頭に手を置いて、まだ文句を言っているラズを引き連れてキッチンを出て行った。甘い匂いの漂う、城の中にあるにしては現代的なキッチン。
 ディアの屋敷にもそれなりのキッチンはあるのだが、今回ばかりはそこで作るわけにもいかなかった。というよりも、元よりディアには料理のりの字もできやしない。
 それでも、今日は作らずにはいられなかった。あんな行事、知ってしまっては。
 冷蔵庫の扉を開けたい衝動を抑えつつ、ディアは中のものを渡すときのことを考えて控えめに笑った。


 そいつのことだけは、遠くにいたってすぐに見つけられる。やけにでかいことも関係するだろうが、それ以上に、目がそいつを捜しているからだ。
 その姿を見つけると、無条件に胸が躍る。そしてにやけそうになるのを頬をぴちぴちと叩くことで無理に引き締めて、一飛びで近寄った。
「ヴィー!」
 たくましい体付きで、庭いじりか。似合わないことをしていると思いつつも、シャツの腕をまくる姿はかっこよかった。
「ディア様。そんなに急いでどうかなされましたか?」
 長めの髪を一つに縛り、意志の強そうな目をした男は名をヴィエスタという。引き締まった体躯の美丈夫で、ディアが幼少の頃から傍に仕える従者だ。ディアに手がかからなくなってからは、城の細かな整備もヴィエスタの仕事となっている。
 小さなときには、少し年上の男が自分の言うことに絶対逆らわないのが面白くて、朝から晩まで引きずり回した。目を細め、口元を漸く分かる程度に上げる笑い方は、今も昔も変わらない。
「あ、あのな・・・用ってほどじゃないんだけど」
 緊張する。いつもならこんなことはないのに、と歯噛みするディアの前で、ヴィエスタは申し訳なさそうに眉を下げた。
「こんな姿をお見せして・・・今洗って」
「い、いいよ。これ、やろうと思って」
「これは?」
 リューがひゃっきんとやらで買ってきてくれた包装紙に包まれた、小さめの箱。中には、できたばかりのチョコレートが入っている。
「今日ってバレンタインだろ? 人間の行事だけど、ちょっとやってみようかなって・・・」
 ヴィエスタは珍しく目を丸くし、そうしてから深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「っ、んなことしなくても・・・」
「でもそれは、いただけません」
 丁寧な物言いに、ディアは言葉を切った。さっと背中に冷たい汗が流れ、心臓も痛いような気がするほど激しく動き出した。
「な、なんで・・・」
「その行事のことなら私も知っています。人間界のことについては、あらかた学んでいますので」
 顔を上げないまま、ヴィエスタは続けた。だが、言われなくても続きが分かってしまう。耳を塞ぎたい気持ちで、ディアは後ろに下がった。
「バレンタインとは、男女どちらであろうとも、好意を寄せている人にチョコレートをあげる日。もしディア様のチョコレートにその意志が汲まれているのであれば、私は従者である以上受け取ることはできません」
「そ、そんなこと・・・」
「分かってください。お父上から貴方を任されている身で、そんなものは・・・」
「と、友チョコだから!」
「はい?」
 ヴィエスタが少しだけ顔を上げた。その困惑したような顔に胸を軽く痛め、ディアは箱を持った手を前に突き出す。
「友チョコ! リューに聞いたんだ、最近は女の子同士で友達に送ることもあるって。だから、受け取れよ・・・っ」
 引き裂かれるような思いで言った言葉に、ヴィエスタはゆっくりと上半身を上げながら首を振った。申し訳ありません、とディアの好きな声が、ディアの一番聞きたくない言葉を紡ぎ出す。
「私と貴方は、友人でもありませんので」
「・・・っ」
 ディアは唇を咬んだ。こいつは昔から、この一線だけは越えさせてくれない。従者とその主という関係を、踏み越えさせてはもらえないのだ。
「せ、せっかく作ったんだぜ・・・?」
「ええ。とてもいい気が纏われております。是非、奥方様に・・・」
「っ!」
 その単語を聞いた瞬間、ディアは箱をヴィエスタに投げつけていた。避けられるであろうそれを甘んじて額に受け、ヴィエスタは瞬きもしないでディアを見つめ返した。そのまっすぐな碧い視線に、思わず少しだけ怯んでしまう。
「何をなさるのですか」
「いいから受け取れってんだよ! これは命令だ!」
「命令・・・ですか」
 足元に落ちたそれを骨ばった指で拾い上げ、土を払う。
「それでは、もらわないわけにはいきませんね・・・」
「ヴィ、」
 あの笑いだ。怒っていたような気がしたのに、これを見るとなんとなくその気分が萎えてしまう。
 それと同時に、ひどく安堵した気持ちになった。胸を撫で下ろしそうになるのを必死で堪えて、ばっと翼を広げる。
「いいか、ちゃんと喰えよ! これも命令だからな!」
「はい、ディア様」
 大事そうにそれを胸に抱え、ヴィエスタは再び深く礼をした。その姿を満足そうに見下ろしてから、地面を蹴って宙に舞った。くるくると回りたいほどの欲求を抑え、素早く自室へと飛んでいく。その間も、にやける顔を治すことは難しかった。
 その姿を見送ってから、ヴィエスタは包みを傍に畳んで置いてあった上着に乗せた。それを暫く眺めてから、中断していた仕事に取り掛かる。
「本当に、あのお方は・・・」
 含むような笑いを浮かべ、先の傷んでいる枝をボキリと折った。その感触に、ヴィエスタは恍惚とした表情を浮かべた。






終。

09.04.13
色々隠しておきたい二人なので、よく分からない内容になってしまいました。