女の子はみんな違う顔をして、みんな同じことをする。
 いつもは白い頬をうっすらと赤く染めて、少しだけ潤んだ瞳を時折僅かに逸らす。そして背後に隠した手を、前に出すのだ。
「あ、あの・・・っ」
 でもこの可愛らしい仕草は自分に向けられたものではない。
 浅月は内心でやれやれと溜め息を吐きながら、愛想の良い笑顔でそれを受け取った。中身より外見の方が金かかってるんじゃないかと思うくらい、豪奢に包まれた小さな箱。
 今日はバレンタインだ。
「これ、名取准教授に渡してください!」
「あ、あの・・・」
「それじゃ!」
 待って、というより先に彼女は身を翻し、行ってしまった。
 本当に待って欲しい。だって浅月の鞄の中には、今日たくさんの子に同じように渡されたチョコレートの包みがパンパンに入っていたからだ。紙袋でも持てばよかったのだろうが、こんな事になるなんて微塵も思っていなかったのだから用意なんてしているはずもない。仕方ないから、いくつかの教科書を手で持っている始末だ。ああ、なんでこんなことに。
 去年はこんなことにはならなかった。あの時は、近くに女性が一人いたからだろうか。女というのは、一人でもいると牽制になるものなのか。
 自嘲気味に笑うと、浅月は人に見つからない道を探してこそこそと研究室へと急いだ。


「遅い」
 振り向きもしない背中に低く声をかけられて、浅月は苦笑いが頬に貼り付いた。そのままで、これ以上機嫌を損ねてはいけないと、そろそろした動きで自分の机まで向かう。しかしそれすらも今日の夏威には気に喰わないのか、持っていた器具を些か乱暴に机へと置いた。びくっと肩を揺らし、相変わらずの苦笑いでそれを見た。
「あの・・・先輩?」
 どうしたんだろう。今日はいつにも増して機嫌が悪い。もしや昨日家に誘ったのがまずかったのだろうか。それとも、今朝布団の中で怒られるまで体を離さなかったのが・・・
 なんてことをぐるぐると考えていたら、夏威の目が鋭く教科書の束に刺さった。何故手で持っているのかを説明するより早く、顎で鞄を示される。
「さっさと出せ。俺んだろ」
「あ、はい・・・」
 ともすればかなり自分を過大評価した言葉に聞こえたが、名取夏威はそれを許されるだけの容姿をしている。怒っている姿でさえ、切れそうなほどの美しさをたたえていた。
 つい見惚れてしまいそうになる自分を鼓舞して鞄を開け、その中身をバラバラと出した。少し乱れてしまってはいたが、色とりどりのリボンに巻かれた包みは、受け取った自分が見ても驚く量で。
 だが夏威はそれを当然のものであるというような顔で一瞥し、視線を逸らした。
「せ、先輩?」
 出したのに、何故まだ怒っているのだろう。
 恐る恐る窺っていると、夏威は呆れたように溜め息を吐いた。
「お前さ、なんで自分のじゃないのに受け取ってくるわけ?」
「えっ、でもだって、自分に渡されたものじゃないのに僕が断るってのは・・・」
「俺はそんなものいらない」
「でも、みんな先輩に直接渡す勇気はないからで・・・」
 機嫌を損ねた。そう自覚しても、彼女たちの気持ちが分からないわけでもないから無碍にもできない。そう思っての言葉に、夏威は眉間の皺を深くした。
「んなわけあるか。あいつら結構図々しいもんだぞ」
「そんなこと・・・っ」
「証拠に、俺は午前中のうちにそれの殆どをこの目で見ている」
「え?」
「直接行っても俺が受け取らないから、次はお前に、か。これのどこが図々しくないって?」
「あ・・・っと、」
 反論が見つからない。女の子って、女の子って・・・
 なんだか悲しい気分でいたら、ひゅっと音がした。何ごとかと思うより先に、鼻っ面に硬いものが当たった。
「あたっ」
 一瞬固まり、すぐ我に還ってそれが落下する前に受け止めた。小さくて、簡素な包み紙。
「これ・・・?」
「・・・お前に、渡してくれってさ」
「え?」
 箱と夏威を交互に見ると、夏威は意地悪そうな顔をして浅月を見た。その表情と言い草に、なんだかかちんとくる。
「な、なんで先輩がそれを・・・」
 そこまで言いかけて、口を噤んだ。そして思わずにやけそうになる口を、その箱を使って隠す。
「おい?」
「これ、先輩が僕にくれたんでしょ?」
「なっ」
 目を見開く夏威の前で、箱に鼻をつけて空気を吸い込む。
だってこれ、先輩の匂いがする」
「んなっ・・・昼休みそこで買ってきたやつに、匂いなんて・・・」
 言ってからはっとしたのか、夏威は慌てて踵を返した。その背中に素早く近付いて、許しも得ないで抱きついた。
「ごめんなさい、先輩。僕は、受け取るべきじゃなかったんですね」
「・・・何をだよ」
 むすっとした声が、可愛らしい。
「チョコレート。受け取るたび、先輩への告白を許してるみたいなものですもんね」
「ちが・・・」
「違わない」
 言葉を遮るようにして、腕に力を込めた。
「だって僕が嫌だったから。他の人からのチョコを先輩に貰うのって、凄く嫌だ」
 浅月の言葉に、夏威は何も答えなかった。じっと固まったまま、逃げ出すこともしない。
「だから、それで機嫌悪くしてる先輩が、僕に渡されたチョコを預かるはずがない。よってこれは先輩が僕のために用意してくれたもの。・・・これでQ.E.D.証明終了です。及第点ですか?」
 髪を分けるようにしてうなじに唇を当てると、突然夏威の体が反転した。え、と思うより早く鼻を摘まれ、痛みに目を閉じた瞬間にキスを奪われた。驚く浅月の腕を抜けて、すっかりいつも通りの顔に戻った夏威に指を指された。
「ばーか、一番根底にある条件が抜けてんよ」
「えぇ?」
 ちょびっとだけ涙を浮かべ、情けないことこの上ない顔をしている後輩に向かって、夏威は見下したような笑みを投げた。
「お前みたいなアホにチョコをあげるような奇特な奴が、この大学にいるわけないだろ」
「ひ、酷い・・・」
「呆けてないでさっさと実験始めるぞ」
「はぁい・・・」
 唇を軽く尖らせ、それでもチョコレートは大事そうに抱えたまま、浅月はロッカーから白衣を取り出してその背に羽織った。そして自らに与えられた責務を果たそうとして、はたと顔を上げる。
「でも、先輩はそんな僕にチョコをくれる、奇特な奴ってことですよね?」
「は?」
「もう、照れちゃって。僕も先輩のこと大好きで・・・」
 はっとして口を閉じた時には、もう遅かった。目の前には、四角く黒い影。
 それはさっき投げられたチョコレートの箱でも女の子たちから貰ったものの1つでもなく。
 B5サイズハードカバー、1冊数万円もする、広辞苑なみの厚さを誇るビジュアル資料集だった。


 浅月が目を覚ました時、辺りは真っ暗であった。
 そして、夏威はおろか彼から貰ったチョコレートも姿を消していて、浅月は守衛さんが開けに来る朝の8時半までを泣いて過ごすことになった。






終。

09.03.27