部屋中がチョコレート臭い。 扉を開ける前、エレベーターを降りてからすぐにそれを感じた舟木は、鼻をひくつかせながら自室の鍵を開け、入るなりそう思った。まるでチョコレートを使って壁紙を貼り付けたようだ。 部屋をこんな状態にした張本人になんて言ってやろうかと半分楽しみ、半分は苛つきながらキッチンへ向かうと、そいつがぐったりとソファに寝ていた。 「あん?」 不機嫌も露わに声を漏らすと、足元に何かぶつかるものがあった。それがふらふらとよろける猫だと気付き、慌てて抱き上げる。 「あ? どうしたお前ら、大丈夫か?」 「んー・・・大河、さん?」 葛井巳春がうなうなと顔を上げるが、その顔は少し赤い。くにゃりと力を抜いて大人しく抱かれているとらを腕に乗せたまま、その顔を覗き込む。 「おい、どうした? 一体何が・・・」 「・・・酔った」 「あ?」 葛井の指がキッチンを指した。ここはチョコレート屋かと見紛うばかりの、チョコレート菓子の山、山、山。その量に舟木が声を出せずにいると、葛井がにひゃりと笑った。 「チョコってさ、結構油入ってんあだよねぇ・・・だからこれ、油酔い」 笑ってはいたが、すぐに眉を寄せた。頭痛がするのだろう。腕の中では、とらも辛そうだ。 「お前は・・・」 呆れた溜め息を吐いて、舟木はその痩躯を抱き上げた。ひとまずとらはソファに降ろし、葛井を寝室に運ぶ。扉を開けると、少しくらいましとはいえ、やはり甘い匂いで充満していた。 ベッドに置いて毛布をかけると、とらも抱き上げて寝室に入れた。よろりとしながらもベッドに飛び乗り、葛井の顔の傍で丸くなる。 「とら、ごめんねぇ・・・」 葛井が鼻先をくすぐると、とらは小さく鳴いた。普段は生意気そうな猫だが、流石に今日は葛井に甘えるような仕草を取った。 それを少しだけ見てから、舟木はキッチンに戻り換気扇をハイパワーにした。窓も開け、兎に角空気を入れ替えようとする。 「にしても凄い量だな・・・」 元々料理好きの男だったが、よくもここまで作ったものだ。 嘆息するが、バカな奴とは思わない。というよりも、こんな状態にしたそもそもの発端は自分なのだ。話は、昨夜の店内に遡る。 「というわけで、今回はみーちゃんにその役を頼みたいんだよねぇ」 『バタフライ』の古株、とはいっても外見は20台前半にしか見えない女性、美都里がシナを作って葛井の背中から抱きついた。うわっと逃げようとするのをがっちり抑え、とろりと潤む瞳で後ろから覗き込む。 「ね、みーちゃん。みーちゃんがお菓子作り巧いって、知ってるんだからね」 「うぅ・・・」 モップを握ったまま、受付にいる舟木に助けを求めた。しかしこの男は、煙草をふかしたままいやらしく笑うだけだ。 「大河さーん・・・」 「いいじゃねぇか、やってやれよ」 「ほら、旦那さんの許可も出たよー」 「旦那じゃないから」 重たい溜め息を吐いて、葛井は肩を落とした。 店のバレンタイン企画にと、14日に来た人にはチョコレートをあげることになっているんだという。それは毎年店の誰かが作ってくるのだが、それを今年は葛井に頼もうというのだ。別に嫌ではないが、それでは詐欺というものじゃないだろうか。 「買えばいいんじゃないのぉ」 「金がかかる」 「・・・儲けてるくせに」 「あん?」 視線を上げて、舟木は葛井を見た。その威圧に負け、葛井はやれやれと頷く。 「てかさ、男が作ってたら裏切りだよ・・・」 「いいのいいの、手作りならっ」 美都里がそんな勝手なことを言い、後ろからむぎゅむぎゅと胸を当ててきた。ううん、と複雑な気分でその柔らかを感じながら、葛井は頬を指先で掻いた。 「で・・・何個作ればいいんですか?」 「えっと・・・何個でしたっけ?」 「去年は100個だったか?」 「100個?」 思わず荒げた声に、美都里と舟木が同時にいやな笑いを浮かべた。 「まあ、できないってんなら構わないけど?」 負けず嫌いに、火がついたわけだ。 「ううーん、頭痛いよー」 「ムキになって作りすぎなんだよ、お前は。ほど良く手を抜きゃよかっただろうが」 「だってー」 葛井がここまで頑張ったのは、認めてほしかったからだ。人に頼られるのが存外好きなのだと、たまに思う。仕事をしているときのほうが楽しそうに見えるときすらある。 ぐだぐだと文句を言う葛井の口に水を含ませてやりながら、舟木はその髪を無骨な指で梳き上げた。 「大丈夫か? 今日の仕事は休むだろ?」 「んー、うん」 嫌そうだが、行くと言っても無理矢理縛ってでもおいていく。だが素直に頷いたので、相当辛いのだろう。眉を下げて、その額を撫で上げる。 暫くそうしていると、葛井はすっと眠りについた。元々熱を出しやすい質なのだ。結構簡単に倒れてしまう。芯は太そうでも、やはり体調不良だけはどうにもならない。傍で眠るとらの頭をちょいと撫でて、舟木は立ち上がる。 「さて」 ひとまず出かける準備をしよう。 昨夜は葛井を休ませるために半休扱いにして送り届けた。そのまま店から直帰せず兄の元へ寄ってきたのだが、そんなことしないで戻っていればよかった。そうすれば、こんなに作る前に止められたかもしれない。 そう思って、それは無理かと苦笑する。 葛井は頑張りやさんだ。しかも自分が頼られているとなると、それは更に強くなる。舟木がなんと言ったところで、やめはしなかっただろう。 やれやれと頭を掻き、さっきより幾分か匂いの薄れたキッチンへと向かった。チョコタルトにクッキー、マフィンにガトーショコラ。一体いつから作っていたんだと、顔を顰める。 「こんなもん、溶かして固める程度のやつでいいじゃねぇか」 今までだって毎年そうだった。誰かが板チョコをまとめ買いして、電子レンジで溶かして型に流し込むのだ。湯煎なんて言葉を知っている奴は、何人くらいいるのか。 それらを些か乱雑に詰めていきながら、舟木はオーブンの中にまだ何か残っていることに気が付いた。どうやらもう一つガトーショコラを焼いていたらしい。いくらなんでもこれは多いだろうとその扉を開け、目を丸くした。それはどうやら、舟木宛のものであったらしい。ゆっくりと扉を閉めて、苦く笑う。 「俺はいらねぇって、言っておいただろうが」 皮肉を漏らすが、内心かなり嬉しかった。何を思春期みたいに、とは思うが、口角が上がる。 「これは、仕事帰りの楽しみにとっておくとするかな」 まだ少し熱いオーブンから手を離し、袋を担ぎ上げる。 「礼になんか旨い酒でも買ってきてやるか」 それとも元気になったところを懇切丁寧に抱くか。紳士的に抱くと泣くほど悦ぶので、楽しいのだ。 にやにやと笑みを浮かべながら、舟木は腰を上げる。んっと伸びをして、玄関へと向かった。 「行ってくるぞ」 「・・・ん」 微かにだが返事が聞こえ、それを確認してから舟木は部屋を出た。まだ少しばかり早いが、こういうイベント時には早めに行かないとマネージャーの亀井が怒るのだ。 亀井は出来る男だが、経営に関して舟木の意向に逆らうようなことはしない。それどころか巧く棹をさすので、舟木は右腕として重宝していたのだ。 それが、最近になって少しばかり反抗的になった。というのも、舟木が人目も憚らずに葛井を襲ってばかりいる所為だ。表立って文句を言われたことはないが、細い目を更に細めて笑ってくる様は少しばかり恐い。やおら顔が人形のように無機質な美しさをたたえる分、怒り顔には迫力があるのだ。 それを思って、舟木は若干背中を震わせた。おおこわ、と口から独り言が漏れる。 実のところ、亀井が舟木に意見するようになったのは、葛井のおかげで舟木の纏う空気が柔らかくなったからなのだが。それはまた、別の話だ。 そんなわけで葛井が頭痛を起こしてまで作ったお菓子たちだが、客の口に入ることはなかった。 舟木が店に着くなり、待ち構えていた美都里がそれを奪うと、味見だと称して一つずつ食べ始めた。そのときの感想を余りにも大きな声で言うものだから、出勤してきた他の子らもそれを摘み出し・・・最終的には亀井までそのおこぼれを頂戴し、開店する頃には殆どなくなってしまったのだ。 『バタフライ』でなんとなしに始まり、なんとなく好評だったので続いていたイベントは、この日を境に終幕を迎えることとなった。 終。 09.02.14 |