バレンタインなんて、お菓子会社の陰謀だ。 本宮栄一は特にモテないわけでもないのに、昔からそんな風にこの行事を嬉しいものとは思っていなかった。たくさん貰ったらもらったで友人に悪気がないとはいえ一日や二日嫌味を言われるし、第一返すのが面倒だ。 その考えは恋人ができた今でも変わることはなく、栄一はその恋人との待ち合わせ場所に向かう足取りを重くした。 本日、二月十四日。俗にバレンタインという日を空けておいてほしいと、恋人の三角渓夜はのたまった。 嫌だと言えば泣くかSっぽい攻め方をされるのだろうし、まあ別にデート自体ならしたって構わない。しかし場所が嫌だ。少し洒落た店で食事をしようと言うのだ。男二人で何を、と鼻で笑いたい気分である。 そもそも三角にはこっ恥ずかしい部分が多い。お揃いのリングだとか、誕生日は机の上にキャンドルを灯すだとか。 栄一は飯を家で喰えればいいんだと毎度のように言っているのに、三角がそれを汲んでくれることは余りない。唯一挙げるなら、この間のクリスマスくらいだろうか。それも全て楽しいものではなかったが、と栄一は呆れたような溜め息を吐いた。 とはいえ全てが嫌というわけでもない。結局付き合ってしまうのは自分が甘いからなのか。 いや、と栄一は苦笑した。自分が三角の要求に結局は応えてしまうのは、甘やかしているとかいうそんな問題ではなく。 と自嘲気味の笑みを漏らしそうになったとき、少し前の店先に知った顔を見つけた。お、と首を傾げ、のんびりとした足取りで近付いた。 「柚木さん」 声をかけると、柚木美里は一瞬驚いたような顔をしてこちらを見た。そして声をかけたのが栄一と知るや、ほっと胸を撫で下ろして微笑んだ。 「びっくりした。本宮くん、おでかけ?」 「そう。柚木さんは・・・買い物?」 可愛らしい格好をしているが、近くに友人がいるようには見えなかった。恐らく一人でウィンドウショッピングでもしているのだろう。そう思って訊いたのだが、美里はぱっと顔を赤くして腕を後ろに回した。その反応にはっとして、にやりとする。 「分かった、バレンタインの買い物だ」 「あー・・・」 美里は目を閉じて悔しそうに笑った。隠した手を前に出すと、小さい紙製の手提げ袋がそこにはかかっていた。深めの茶色に薄いピンクの縁取りがされた、いかにもな袋である。 「なんで本宮くんにはこういうところばっかり見られるんだろ・・・なんか付けてるの?」 そう言ってきょろきょろと見渡す彼女に、栄一はどうだろうねと適当に答える。ふふ、と美里もそれに笑って応じた。 美里は栄一が大学で所属していたバスケットボール部のマネージャーをしていた子だ。学年が一緒なので先程二人とも引退したのだが、今でも会えば話くらいはする。それに、美里とは一時期よく話をしたことがあった。栄一の恋人、三角渓夜について。 栄一と三角の間には色々あったのだが、そのごたついた中で美里が三角に懸想をしていることに栄一が気付いた。 当時は三角と美里が上手くいけばいいなんて思っていたこともあったのだが、それももう過去のことだ。今ではそんなこと微塵も思わないし、美里自身にも新しい恋が始まろうとしているようだ。このチョコレートも、その相手に渡すものだろうか。 少しだけ話して分かれるつもりが、方向が同じだということもあり暫く一緒に歩くことになった。歩幅を女性のそれに合わせながら、講義や就職の話なんかをする。来年の今頃、何してるんだろうねなんて笑いながら。 「そういえば、本宮くんは彼女がいるんだって? なにやら、美人だという話ですけど」 大学内でもこの手の噂が広まるのは早い。勿論栄一は男と付き合っていることをまだ隠しておきたいので、間違った噂を修正する気などさらさらないのだが。だからこそ、勝手に尾ひれ胸びれがついて、すすいっと泳いでいってしまうのだろう。今では、同棲してるだの実は子供がいるだなんて話も聞く。そのたびに、栄一は三角と一緒になって肩を震わせて笑うのだが。 「美人かどうかは別として、まあ付き合ってる奴ならいるよ。美里さんは?」 「訊く、それ?」 「訊くねぇ」 美里はもう三角に対して恋心を抱いてはいない。それでも一時そうだったのは確かであり、そのことを知っていた栄一に今のことを知られるのは恥ずかしいのだろう。なんだかんだと言い逃れようとはしていたが、実のところ栄一は相手の男からその一部始終を聞いていたりする。美里の今の相手は、誠実なバカだ。訊いてもいないのに、ちょっとでも話を触れば嬉々として多くのことを教えようとする。またかとは思いつつも、美里の片恋を破った一端を持つ栄一としては、その話を聞くのは楽しかった。 「でもまだ付き合ってないんだよね・・・待ってくれてるみたい」 少し意識が逸れていた。気付かれないよう相槌を打ち、勝手に推測する。 「まあ、あいつはバカな上優しいからね。でもそれあげるんだろ?」 「うん・・・」 そう言う美里の頬は少し桃色で、実に可愛らしいと思う。もし三角が自分と会わず、告白されていたら付き合っていたのだろうか。考えても無駄なことだが、つい思わずにはいられない。 街中にチョコレートの匂いが漂っているわけではない。クリスマスのようにカップルで溢れかえっているということもないし、外国のように町全体がバレンタイン色に染まっているわけでもない。 それでもなんとなく幸せそうな雰囲気が流れるのは、みんながみんな相手のことを想っているからなのだろうか。好きな人のことを考えるだけで優しい気持ちになれるなんて、使い古された言葉を思うわけではないけれど。 「あ、じゃあ私こっちだから。本宮くんも今からデートなの?」 「まあ、そんなとこ」 曲がり角になってそう訊かれ、栄一は曖昧に答えた。最近はどちらかの家に行くばかりだから、久し振りのデートということになるのだろうか。思っていたら、美里が手を振って去っていった。それに軽く振り替えして、マフラーを巻きなおす。 「寒いなぁ」 ぽつりと呟いて、すぐ傍にあったコンビニへと足を運んだ。 「はーい、栄一さんハッピーバレンタイーン」 嬉しそうにそう言う三角とグラスをつき合わせて、栄一は苦さを全面に出した笑いを浮かべた。その苦渋の顔に三角は気付かず、いや、気付いていながら特に反応をせず、テーブルの下から奇麗に包装された箱を出してきた。 「じゃじゃーん。俺から栄一さんにチョコレートです。甘さ控えめですよ」 ことんと置かれ、栄一は反射的に周りを見渡した。誰もいるはずがない。何を思ったのか、このレストランは個室制だったからだ。 おかげで緊張せずに食事をすることはできたが、気まずい気分は消せない。やはり男二人で高級レストランになんて来るものではない。 「んでこんな高いとこ・・・」 それも男二人で。 言葉をワインで飲み込み、栄一は渋々といった風にその箱を手に取った。するりと赤いリボンを解き、どう考えてもこの包装は中身の値段の倍分くらいだろうなんて皮肉を考えながら、紙を破く。 もっと奇麗に取れとでも言われるかと思ったが、三角は相変わらず嬉しそうにこっちを見ているだけだ。いたたまれなくなって、栄一のほうが視線を泳がせる。 「またこれも高そうな・・・女子に混ざって買ってきたのか?」 「はい。なんかジロジロ見られて楽しかったです」 「楽しかったって、お前なあ・・・」 かこ、と蓋を外すと、奇麗に仕切られた六つの部屋に一つずつ違うチョコレートが入っていた。その内の一つを手に取って、口に入れる。 「ん、んまい」 高い料理もブランドにも興味はないが、チョコレートは結構好きだ。何がどう違うとは思わないが、口当たりが違うことくらいは分かる。口に入れた瞬間に舌の上で溶け、カカオの香りがさっと広がる。甘いなとも思うが、それ以上に酒の芳香が強くて最高だ。美味しい、と自然に頬がほころびそうになる。 「一つ喰うか?」 「はい」 「じゃあ目閉じな」 そう言えば素直に目を閉じる三角の口に、摘んだチョコレートを入れた。それを咀嚼してすぐ、三角がぱっと目を開いた。 「これ・・・」 「ああ、分かった?」 あっけらかんと言ったが、気付くだろうとは思っていた。何故なら、どう考えても今のチョコレートは安い味しかしないだろうからだ。というか、もしも同じ味だったとしたら、三角の物を見る目を疑ってしまう。 チロルチョコレートの包装をくしゃりと丸めて、もう二つ三つポケットから出してデスクの上に乗せた。 「さっきコンビニで買ってきたんだ。やるよ」 「え? 俺、にですか?」 「お前以外に誰がいるんだよ。いらないなら俺が喰うけど」 伸びてきた手を避けて、三角はそれを自分のほうに引き寄せた。思わず握り込んでしまったのを、溶ける溶けると言って離す。 「や、食べます食べます! ・・・いや、このまま永久保存しても・・・」 「何気持ち悪いこと言ってんだよ」 「だって、栄一さんからもらえるなんて・・・」 「全部で100円もかかってないけどなぁ」 本当はちゃんとしたのを買ってあげても良かったのだが、元来の性格からそれさえもできなかった。それでも三角は喜んでいるようなので、栄一はどことなく複雑な気分でその顔を見た。 美里が嬉しそうな顔でチョコレートの袋を掲げているので、なんとなく栄一も買ってみてあげたくなった。 女子が何故頭をフル回転させてチョコレートを作ったり買ったりするのかが、少しだけ分かったような気がする。どんな顔をするのかなんて考えるのは、なかなか面白かった。 しかし、予想以上の喜びようだ。これでは自分が今までかなり適当にあしらっていたみたいじゃないか。まあ否定もできないしな、ともう一度ワインを飲んだ。 「渓夜?」 黙っているのをいぶかしむと、三角はじっとチョコレートを見つめて固まっていた。どうしたのかと伸ばしかけた手を、不意に掴まれる。 「好きです、栄一さん。俺、嬉しい」 「・・・」 「好きです」 栄一は答えなかった。代わりに一つ頷いて、席を立った。机越しに腕を伸ばし、座る三角を抱きしめてやる。 「バカだな、お前」 バレンタインなんてお菓子会社の陰謀だ。 だが、その策略に乗ってやるのもたまにはいいのかもしれない。 三角の背中を叩いてやりながら、栄一はくすりと笑った。 終。 09.02.14 |