7.

 薬品に頭まで浸かっているような、そんな夢を見た。
 耳から口から鼻から、それらは次々と侵入して少年を満たしていく。沈み込む心地に、不安と恐怖が襲い来る。
 もがく手を掴まれて、薬品と一緒に夢から引き出された。白い天井が眩しくて、目を細める。
「ヒロキ?」
 この声は誰のものだろう。呼んでいるのは、なんだ。
「ヒロキ、分かるか? 分かるなら、何か喋れ・・・」
 掠れる声にもう一度呼ばれ、脳内に浸入していた偽りの薬品が漸く消えた。掴まれている左手を、そっと握り返す。
「木坂・・・さん」
 あの時。視界の端にトラックが見え、ああ、これで死ねると思った時。
 後ろから呼ばれる名前に、心が震えた。木坂の声が自分を呼んでいる。そう思って振り向いた瞬間、いつかのように猛烈な風が後頭部を撫ぜた。
 追い付いた木坂が肩を掴み、その口が糾弾しようと開かれた途端に気絶した。
 どうやらそのまま病院に運ばれていたらしく、左手からは点滴の細い管が伸びていた。少年の視線がそれを辿るのに気付き、木坂が苦笑する。
「栄養失調だと。だから喰えって、言ったろ?」
「・・・ごめんなさい」
 和やかな雰囲気が湧いたのはその一瞬だけで、すぐに気まずい空気が立ち込めた。時計の針が進む規則的な音だけが二人の間にあり、やがて我慢できなくなった木坂が口火を切った。
「なんで、あんなことしたんだ?」
 あんなこととは、トラックの前に出ようとしたことだろうか。それとも。
「死ぬところだった」
 付け足された言葉に、ホっとする。泣きそうになりながら、口を開いた。
「生きてる意味、なくなったから」
「・・・は?」
「元々、死ぬつもりで。でも木坂さんが飽きるまでは、生きていていいんだなって」
「・・・悪ぃ、よく分からねぇ」
 木坂が頭を掻いたのでどうしようかと思ったが、説明しようとする前に、まあいいやと言って頭を撫でられた。
「まだ飽きてないから、とりあえず生きとけよ」
 優しく撫でられて、視界が歪んだ。せっかく切り離そうとした思いが、またも芽を出そうとして困る。
 泣き出した少年に驚いた木坂の手をやんわりとどけて、首を振った。
「もう無理、です。これ以上一緒にいたら、手遅れになるから」
「手遅れ?」
「好きに、なりそうで」
 天井を見ながら、ぼろぼろと涙が流れ出す目を右手で押さえた。その所為で、木坂の表情が変わったことには気付かない。
「・・・違うなりそ、じゃなくて・・・」
 震える唇に手を当てて、目を閉じた。
「ごめんなさい。好き、です。好きになって、ごめんなさ・・・」
「なんで、謝るんだ?」
「だ、って、僕、人形だか・・・ら。人形は人間らしいことするな、て、宮元くんが・・・」
「・・・誰だよ、宮元くんって」
「クラスメ、」
 言葉の途中で手がのけられ、横になった少年に被さるようにしてキスをされた。  逃げようとする頭を掴んで押さえ、しつこく甘咬みして口を開かせる。引っ込む舌を追い、誘い出しては吸い上げた。何度か絡めると漸く観念したのか、力を抜いて感じるままになった。
「ん、は・・・」
「クラスメイトと、俺の言葉。どっちを、信じる?」
 ついばみながら訊かれ、おずおずと目を開けた。覗き返した瞳は優しくて、見つめられると胸が痛む。
「木坂、さん」
「ならもう一度言うぜ。・・・俺もお前のこと大好きだから、死ぬなんて言うな」
「嘘、だ」
「即答かよ。信じるんじゃなかったのか?」
 笑いながらちゅうちゅうと唇やその周りを吸われて、全身が震えた。流れる涙が、耳にまで伝う。
「だって、そんな、の・・・幸せすぎて、恐い」
「・・・またそういう可愛いことを」
 言って、今度は長く唇を合わせてきた。歯を緩く立てながら動かしたり、ただ柔らかさを堪能したり。少年が泣き止むまで、重ね続けた。
「・・・で? なんで好きなくせに俺から逃げようとした訳?」
 前髪を分けながら訊かれ、少年は目を逸らした。何度か言おうとしては口ごもり、その仕草が木坂の胸をきゅう、とさせた。
「言いたくない?」
「ごめ、なさ・・・」
 涙の筋を拭う指の優しさに、また泣きそうになる。その赤い鼻を木坂が弱く咬んで、笑った。
「泣くなよ。俺も酷いことしたし、お前が嫌がること、もうしたくないし」
 頬を包むようにさすり、額に軽く口付けをしてからベッド横の椅子に座り直した。そして少年の顔近くに顎を乗せ、暫く見つめ合ってからくすぐったそうに笑った。
「それに今、すげー幸せだし。ヒロキが俺のこと好きって言ってくれて、すげー嬉しい」
 そのまま左手を重ね、指を絡める。鼻歌まで唄って喜ぶ姿に、収まったはずの涙がまたぞろ溢れ出した。静かに泣くその顔を見て、木坂が苦笑する。
「だから泣くなっての。泣くのは、セックスん時だけ」
「ごめんなさい・・・」
「だからあ、」
「ピアス。取られちゃって、ごめんなさい」
 はらはらと流れてはシーツに染み込む涙を見ながら、木坂が一瞬真面目な顔をする。絡めていた指に力を入れ、少年を真っ直ぐに見据えた。
「宮元くん?」
 訊かれて、素直に頷く。
「お前の中に射精したのも?」
 宮元だけじゃないが、それにも頷く。
「・・・そいつ、殺してもいい?」
 頷きかけて、慌てて首を振った。木坂が笑い、繋いだ手を軽く揺する。
「冗談だよ。・・・でもヒロキが望むなら、いつでもできるよ。俺、金はあるし」
 笑ってはいたが、痛いくらい握られた手から、半分以上は本気かもしれないと背筋が冷えた。
 でもそれだけ思ってくれているのかと思うと、正直嬉しい。少年はもう一度首を振って、さっきの木坂と同じように答えた。
「僕も幸せだから、いい」
「そうか」
 暫くそうしていたが、検温の看護師がきたので一旦離れた。それが終わると、個室なのともう来ないだろうと勝手に想定したのとで、木坂は少年の右側に回りベッドに潜り込んだ。体とシーツの間に手を入れ、愛おしそうに抱き締める。
「あのさ、ヒロキ」
「はい」
「俺お前の苗字も、それに名前の漢字だって知らねんだ。ここも新橋の親戚がやってるとこだから、無理言って入れて貰ったんだ」
「あ・・・」
 そういえば、看護師も下の名前で呼んできた。上目使いにベッド上の名札を見ると、苗字のところが空欄になっている。
「名前、教えてくれよ。そこから、もう一度始めようぜ」
 キスされて、また泣きそうになった。くすん、と鼻を鳴らし、点滴を抜かないよう木坂に擦り寄る。
「海堂、ヒロキ」
「字は?」
「海のお堂に、大きい、輝く」
「大輝・・・大きな輝き、か」
 故意に言い換えられた説明に、少年は口を噤んだ。今初めて、自分の名前も悪くないもののように思えた。
 点滴を引き抜いてでも、今すぐ強く抱き合いたい。それを察したのかは分からないが、木坂の方から抱き締める力を強くしてくれた。幸せな痛みが胸いっぱいに膨らんで、張り裂けてしまいそう。
「・・・ものは相談なんだけど」
 髪を弱く引きながら、顔を摺り寄せる。
「大輝さえよかったら、俺と住まねぇ? てか、俺んちに来いよ」
 突然のことに目を丸くした少年が見つめると、木坂は少し躯を離し、怒ったような顔で見つめ返してきた。
「実はお前、丸一日寝てたんだよ。今は日曜の昼間。で、家は知ってたからお前んち行ってよ、いないから手紙残してきたんだけどさ」
 ここで木坂は言葉を切って、苦々しいものでも口にするように顔を歪めた。
「その間お前の両親はどっちか一人でも来なかったぞ? どういうことだ?」
 木坂の話に、少年は一人で納得してああ、と頷いた。
 あの二人なら有り得ることだろう。きっと、少年が家出したとしても一週間は気付かない。ひょっとしたら死んだときでさえもそうなんじゃないだろうか、と我が親ながら呆れかえる。
 殆ど諦めている少年と違い、木坂は怒り心頭のようで。唇を尖らせて、少年の目を強く見つめた。
「で、そんな親から俺はお前を奪いたいんだけど。つうか絶対奪うから。これ決定な」
 子供のような言い草に、またも目が点になった。思わず噴き出して笑ってしまい、気分を害したかと思った木坂は、しかし嬉しそうな顔をしていた。
「やっと、笑いやがったな・・・」
「え?」
 なんのことかと訊き返す言葉は、優しいキスに飲み込まれた。


 早く抱き合いたくて、退院許可が下りたらすぐに木坂の車でマンションまで戻った。玄関を開けるなり扉が閉まるのも待たずにキスをして、お互いに服を脱がせ合う。扉に背中を付けた少年のものを木坂がしゃぶり、何も出ない射精を一度だけさせた。
「木坂さんの、せっかち・・・」
「お前だっていつもより早いじゃねぇか。出なくても、イったの分かるぞ」
 本当はその場で押し開きたいのを必死で堪え、抱き上げて寝室まで急いだ。ベッドに放るように降ろし、両足の裏を持って高く上げさせる。
「っちょ、やだ・・・そんな、とこ」
「消毒。昨日他の奴にも舐められてたろ」
 それはあんたが仕掛けたことなんだけど。
 思ったが、唾液を多く乗せた舌を当てられる感触にどうでもよくなった。しつこく舌で嬲られれば腰が砕け、人差し指の甲を咬みながら、ひんひんと泣くように喘いだ。
「気持ちい?」
 二本の指が出し入れされるのに合わせて訊かれ、かくかくと頷く。もうそんなんじゃ、足りなかった。
「入れ、て・・・木坂さんのおっきいの、入れて」
「・・・やらしいなあ」
 少年の見える位置まで腰を上げ、先端を埋めてその収縮する肉をゆっくりと揺らした。焦らされるその動きに少年が痙攣し、瞳を潤ませて木坂を仰いだ。
「そこ、や・・・もっと奥まで、ちょうだ・・・」
「だめ。よく考えたら答え聞いてないし」
 更に躯を折り、深く埋めないように注意しながら顔を近付ける。ひくっと喉をしゃくり上げる少年にキスをして、言葉を続けた。
「俺んちの子になるの? ならないの? 今、答えな」
 見つめられて、赤くなった。両手を鼻の上で拝むように重ね、目を閉じる。その閉じた双眸の隙間を縫って涙がぽろぽろと溢れ出し、木坂は首を傾げた。
「嫌?」
 言葉に、首を振る。
 嫌な訳がない。自分を見ない親なんて比べ物にならないくらい、木坂が好きだ。
 でも、迷う。素直にその腕に飛び込んでいいものか、自信がない。
「捨てられなく、なるよ・・・? そんなことして、いつか飽きたりしたら・・・っあ!」
 前髪を分けてどかし、その下の額に口付けながら侵入を再開した。目を開けた少年の体が、ビクビクと跳ねる。
「あ! やっあっあっあん、ぁあっ」
「・・・お前、さ。もっと俺を、信用しろって」
 ぐっと最後まで押し込み、両足を肩に担ぐ。涙に濡れた瞳がぱちりと不安そうに揺れ、それに笑いかける。
「もうすっかりメロメロなんだよ。お前なしじゃだめなのは、むしろ俺の方」
 土日に少年と会うため、無理を言ってまで平日に仕事を全てこなした。コレクションだって、少年と一緒のもの以外は処分してしまった。
 なんとなく恥ずかしいのでそれは一生言う気はないが、少年にはその言葉だけで充分だったようで。嬉しそうな顔をして、首に手を回してきた。
 お願いします、と可愛い声で呟きながら。


 十年来の友人に呼ばれて家まで行ったら、表札に名前が一つ増えていた。
 弟がいるという話は聞いたことがないし、見覚えのない名前は、しかしひょっとしたらああ読めるのじゃないかと思い、勝手に顔がにやけてきた。
 チャイムを押すと、案の定知った声が聞こえ、そして出された顔に確信を持てた。シンプルなエプロンをかけた姿は、以前見たときよりも断然可愛らしい。
「久し振り、大輝くん」
「いらっしゃい、新橋さん」
 笑顔で迎えられ、新橋は自分のことのように嬉しくなった。
 この子を最後に見たのは半年以上前のことで、その時は心身ともにボロボロで、見ていられなかった。今は随分幸せなのだろう。初めて見た笑顔は、想像より何倍もよかった。
「稔は? あいつが来いって言うから来たんだけど・・・仕事?」
「今日は・・・違うんです」
 客用のスリッパを出す手が一瞬震えたのを見て、新橋は内心で頷いた。恐らく、少年の実家に出向いているのだ。
 養子縁組の手続きで、相手方が籍を抜いてくれないだかなんだかで手こずっていると、一回だけ愚痴られたことがある。今も一緒に住んではいるものの、それは少年が家出してきた結果のことであった。
 今まで少年に見向きもしなかったくせに、人一倍世間体を気にする両親だったらしく、話し合いは難航し今や裁判一歩手前なんだとか。少年も気が気でないのか、新橋を前にしながら始終時計を気にしていた。
「学校はどうしてんの?」
 気を紛らわせてやろうかと、違う話題を提供した。それとほぼ同時に出されたコーヒーに口を付け、殆ど飲まずに机へ戻した。こう言っちゃなんだが、かなり不味い。
 それは少年も理解しているのか、同じように口を付けて苦笑いした。
「あれからずっと行ってません。辞めようにも、保護者の同意が必要みたいで」
 悲しそうに言って、少年はラックから何か資料を取り出した。全て定時制高校のもので、時間帯なんかにチェックがされている。
「木坂さんはいいって言ってるんですけど、僕もちゃんと働きたくて。色々済んだら、通わせてもらおうと思ってるんです。勿論、学費はバイトして返します」
「ふうん」
 心配しつつも、離れることがあるなんて微塵も思っていないようだ。なんだかんだ言って木坂が必ず自分を手に入れると信じている。幸せそうに未来を語る姿に、ちょっとだけ意地悪してみたくなった。
「それより、稔は仕事変える気ないのか? 恋人がいるってのに他の人ともヤるなんて・・・なあ?」
 自分の評判を下げてもいいくらいの覚悟で言ったのに、少年はくすくすと笑って返した。
 驚く新橋の前で、少年はごめんなさい、と小さく言う。
「全然平気なんです。おかしいでしょう?」
 四つん這いでテレビの方に向かい、その下の戸棚からDVDを取り出した。
「止められているんで、内緒ですよ? 僕、一人でいるときよく木坂さんのAV見るんです。安心、したくて」
 胸の前で指を組み、恥ずかしそうに続ける。
「僕の知ってる木坂さんは、そこにはいないんですよ」
「つまり、それって・・・」
 馬鹿が付くカップルのことを確かめるのも馬鹿らしいような気がしたが、意地悪したお詫びに肯定してやろうとする。
 その言葉を遮って鳴ったチャイムに、少年の目が輝いた。
「あ、の・・・失礼します」
 ぱたぱたと走る様子から、今朝からチャイムが鳴るたびにあんな顔をしているんだろうかと、悔しくなる。絶対自分より恋愛が下手だと思っていた友人に、あんな可愛い恋人ができるなんて。
 苛立ちを沈めようと飲んだコーヒーの味に、また酷くげんなりすることになった。
 機械で淹れるコーヒーがこれだけの出来なら、他の料理は一体どんな味になるのだろう。しかしそれをネタにキッチンでイチャつく二人の姿が容易に想像され、不愉快さに歯軋りした。
 それにしても遅いなあと思い玄関を覗き、新橋はそこで見た光景に額を押さえた。
 自分を呼んだはずの人間が、少年を壁に押し付け唇を貪っている。
「んふ、木坂さん・・・新橋さん、が」
「構うもんか。それに、近い内にお前も木坂になるんだかんな。稔だよ、言ってみ」
「ぁ、みの、んっみ、あぁっ」
 言わせてやれよ。
 新橋は思ったが、木坂の顔を見て呆れたように肩を竦めた。確かに、こっちの顔を新橋は知らなかった。
「台所借りるぞ」
 結婚祝いに何か作ってやるとしよう。というかわざわざあの横を通って帰るほど新橋の神経は図太くできていない。
 返事のない意趣返しに、長峰でも呼んで一番いいタイミングでチャイムを鳴らさせてやろうか。
 可愛い声を聞きながら、新橋は今ある材料で何が作れるだろうかと、鼻歌を唄いながら冷蔵庫の扉を開けた。





終。