第四話。

 陶器の割れる鋭い和音で、無理やり意識を返された。
 足元に散らばる食器を片さないといけないのは分かっている。分かっているのに、体が上手く動かない。自分が放心していたことにすら、たった今気が付いた。
「ちょっと倉内さん。貴方手伝いに来たんですか? それとも私の邪魔ですか?」
「いや・・・あ、すまない。今片付ける」
 理沙に怒られて漸く状況を思い出し始めた。久々に夜の時間が空いたから炊事の後片付けくらいは手伝おうかと思って。思って、それから何時間経っているのか。
 動作が鈍い。筋肉が意識に全く沿ってくれないみたいな感じがする。
 のろのろと破片を手で集める私に痺れを切らせたのか、理沙が大業な溜め息を吐いてから一旦調理場を出た。ぱたぱたと足音を響かせて私の正面に腰を下ろすと、スカートがふわりと舞う。箒とちりとりが使われ、私は居場所をなくした。
「そんなに気になるなら、旦那様の部屋を覗いてきたらどうですか?」
 集めながらちらとだけ私を見て、立ち上がるときには不必要なほど視線を外して部屋の隅へと行く。バラバラと鉄と陶器の当たる音を最後まで聞いてからその言葉の意味を理解して、心臓が跳ね上がった。
「な、何を馬鹿なことを・・・」
「いいじゃないですか。今までだって何度か見物させられたでしょうに」
「それとこれとは!」
 思わず荒げた声に理沙はわざとらしく目を丸くし、そして細めてから私を見つめてきた。何故か、身構えてしまう。
「違いますか? 倉内さんが躾けて、旦那様がそれを首尾する。時には指導しながら・・・なんてこともあったじゃないですか」
「それは・・・」
「もう認めちゃってください。貴方は見たくないだけなんでしょう、あの子を旦那様が犯すところを」
「・・・れ」
「本当は、旦那様に鈍くんを渡したくなかったから」
「もうやめてくれ!」
 叫んだのと同時、けたたましい鈴の音が廊下の奥から響いてきた。
 驚愕より先に、不信が湧く。これはいつかの呼び鈴で、それのある執務室と今いる筈の寝室はかなり離れているのに。
 いつからか握り締めていた布巾をその手ごと包まれ、はっとする。理沙が目の前にいて、困ったように笑っていた。
「お呼びですよ?」
 くすくすと笑って、布巾をするりと抜く。
「勝手言ってごめんなさい。でも、見ていて辛かったんです」
「理沙・・・?」
「そろそろ素直になってもいいと思いますよ? 旦那様にも似たようなこと、言われたでしょう?」
 答えなかったが、顔に出ていたようだ。にこっという笑顔になり、体を回された。
「さあさ、早く行ってください! 怒られちゃいますよ!」
 ぐいぐいと背中を押され、調理場から締め出しを喰らった。どうしたものかと迷う間もなく、また鈴が耳を襲う。一体、なんだというのか。
 頭がぐらぐらした。真っ直ぐ歩けていないような錯覚さえある。
 主人も理沙も勝手かことばかりを言う。一使用人の私が、何故主人の意志に背くようなことをしなければならないのか。そんな必要はないし、していい訳がない。
 それなのに主人までもがそんなことを言うものだから。
 ぐらぐらと揺れているのは心なのかもしれないと、柄にもないことを思ってしまった。
「遅いぞ、コラ」
 昼間見るときと変わらない存外な態度で、しかし服だけは少し乱れた格好の主人に言われ、肩が下がる。調理場からここまでどれほどかかると思っているのか。不満を殺して、顔を上げる。
「お前が鳴らせと言うから鳴らしたのに。来ないのならやっぱりいらないじゃないか」
 いつかのように片手で持っていたそれを、ゴミ箱に放った。というのは見せ掛けで、まだ手元にあるそれを私に見せて目を丸くした。
「止めないのか?」
「それが仁人様の意志なら。私は逆らいません」
 その答えに主人はふと黙り、つまらなそうに椅子へ深く座りなおした。乱暴に置かれた鈴が、抗議するように大きくなる。
「あ、そ。じゃあ俺があいつに何しようと本当に構わないな?」
「質問の意味が分かりませんが」
「分からない? じゃあ質問を変えよう。俺が今まで、セックスを途中で止めてまでお前を呼んだことはあるか?」
「・・・ありま、せん」
 なんだ? 何故この人はさっきからこんなにも苛立っているのだろう。
 いやそんなことよりも、確かにおかしい。執務室で楽しんでいるのかとも思ったが、鈍色の姿はない。それどころか主人の服は脱いだのを再び着たというよりは、脱ぐのを途中でやめたという感じだ。もしや、奴に何か不都合でもあったのか。
 胸騒ぎをひた隠して主人を見ると、少し困ったような、怒っているような顔をしていた。考えが読めない。何を、言うつもりなんだ。
「や、やはりまだ駄目でしたか・・・? 抵抗でも?」
「喋った」
「は?」
 やりきれない沈黙に発した質問を言葉で遮られる。その事実の方が気になって、主人の言葉の意味が最初よく分からなかった。
「喋った。声を出した。口を利いたと言っている」
「そ、それは」
 よかったではないですか、と口を動かした筈なのに、主人の口調から何か嫌な予感を覚えてそれは言葉にならなかった。
 不安が背中を冷や汗となって流れる。その流れが見えているのか、主人は不自然な間を持って続きを話した。
「喋りはした。だがな」
 重い緊張を含んだ声に、視界の端から徐々に色が褪せていく。握った手の平が湿り、妙に喉が渇く。
「何やらぶつくさと言うばかりで気持ち悪くて仕方がない」
「そ、それで・・・」
 私の掠れた問いに主人は肩を竦めて、いたずらに失敗した子供みたいに笑った。
「気持ち悪くてつい殴ったら動かなくなってしまった。殺してしまったかもな」
 完全に色が消えた。
 灰色のフィルターが落ちてきたみたいだ。発すべき言葉が、見つからない。
 なんてことをしてくれたんですか。貴方は自分の立場を、早く医者を、それよりも警察を、私が罪を、いやそうじゃない。そうじゃないだろう。
 自分の心音がやけにうるさい。それに思考があちらこちらを向いて訳が分からなくなる。わんわんと羽虫の鳴くような音が、耳に無理やり入ってきて堪らない。
 助けを請うように見た主人は、相変わらず笑っていた。
「どうした? お前は私の意志ならそれで構わないのだろう?」
 ガチャ、という音に我に還った。見ると、爪先のすぐ先にあの呼び鈴が不思議な形となって落ちている。
 壊れてしまったのかもしれない。新しいのを買わなくては。
 壊れたのは捨てて、新しいのを買えばそれで。
「済む訳、ないでしょう・・・!」
 気付いた時、私は走り出していた。
 まだ間に合う。まだ間に合うかもしれない。間に合ってくれなくては、困る。
 そこまで遠くはない筈なのに、寝室までの道のりがやけに長く感じられた。ただ足を前後に動かすことさえ、私は満足にできないのか。
「・・・っいろ、」
 私の所為だ。私が、殺した。
 あの純粋な灰色を、私が濁してしまったのか。
「鈍色・・・!」
 勢いよく開いた扉の奥で、人影がびくりと動いた。暗闇を予想していた所為か目が明かりに慣れにくい。しかし確かにそれは鈍色で、彼はベッドの上でぽかんと私を見ている。
 その顔がぱっと明るくくなるのを見て、私は思わず駆け寄っていた。
「お、お前・・・」
 ぱちんと両手で顔を挟むと、困ったような顔をしてはにかんだ。殴られた痕なんて一切ない。もしかして、これは私が作りだした幻想なのか?
「にび、」
 馬鹿みたいに声が震えているし、鼻も痛い。色々な感情が次から継ぎへと湧いて、泣きそうなのだ。
「総」
 その滑らかで低い声に、最後の堰が切れた。口を押さえて俯くと、涙の流れる頬を今度は私が包まれた。
「下向かないで、総。顔が見たい」
「おま・・・なん、で」
「今まで、誰も聞いてくれなかったし、もう聞かせるのも諦めてた。でも総には聞いてほしいなって思ってたら、喋り方、思い出した」
「ちが、違う鈍色。だって、仁人様、が」
「俺がなんだって?」
 混乱の極みにいる私の耳に届いた声に振り向こうとしたら、鈍色の腕に囲まれて動けなくなった。主人のおかしそうな笑い声が、背中に当たる。
「さっきのは嘘だよ、総。俺が暴力反対なのは知ってるだろうが」
 破壊願望はあるくせに。そう思ったが、鈍色の胸に押し付けられている所為で声が出せない。
「やっぱりそいつはお前にやるよ、総。だってそいつ、お前の名前ばっかり呼んで、つまんねんだもん」
 主人の言葉に、胸が熱くなるのを感じた。それに呼応するかのように、鈍色の腕にも力が篭る。
「俺は、総の。だから総も俺の。貴方には、渡さない」
「嫌われたもんだなあ、俺も。総、ちゃんと説明してやれよな」
 じゃあと言って、主人は部屋を出たようだった。それで漸く安心したのか、鈍色の拘束がやっと緩んだ。
 そしてゆっくり躯を離して、真っ直ぐに目を見てくる。
「説明って? 総は、あの人のなんなの?」
 まるで玩具を取られたくない子供のようだと、思わず噴き出したのがまずかった。みるみる内に鈍色の顔に不機嫌さが募り、私は苦笑いするしかない。
「あの人は私の兄だよ。倉内は母の旧姓。先代に母子で引き取られて、私は円の家に恩を返しているだけだ」
 お互いに連れ合いを早くに亡くした母と養父は本気で愛し合っていたとも知っているが、それでも母が死ぬまで幸せに暮らせたのは彼のおかげだ。その血を引く男に捧げない忠義など、他にどう使えと言うのか。
「兄弟だと知られると色々面倒だからね。呼び方は、私が無理言って今の状態にしたんだ」
 兄さんと呼ばなくなってもう十年が過ぎる。主人には、兄にはそれが少し寂しくもあるそうだが、のし上がるためにはそれくらい我慢してもらわないと困る。
 私の答えにまだ納得がいかないのか、鈍色は口を窄めた。
「でも総、あの人の命令でセックスしてるんでしょ?」
「兄が私にそういうことを指図したことは一度もないよ。やめろと怒られたことも、何度かある」
 笑って言ったのに、鈍色はこの世の終わりみたいな顔をして私にしなだれかかった。その後頭部を撫でてやりながら、声をかける。
「馬鹿だな」
 私なんか気遣う必要はない。そう思ってずっと過ごしてきたのに、兄も理沙もお節介にも程がある。私を嬉しくさせる、少しくすぐったい感情だ。
 目に見えて凹んでいる鈍色の体を起こし、その唇に咬むようなキスをした。驚く顔を下から見上げて、唇を舐める。
「しようか。肥えた親父なんかよりずっと良くしてくれたら、私も、お前のものになってやるよ」
 年上の余裕のつもりで言ったこの言葉に後悔するのは、このすぐ後のことだった。







四話終わり。