第二話。

「ふうん・・・少し預けただけで随分見られるようになったな」
 そう言って眺める主人に顎を持たれたまま、鈍色はぼんやりと視線を彷徨わせていた。その視線が私を見つけて、何かを訴えるような視線でじぃと見つめてくる。
 よく分からないが、鈍色は私に懐いているようだ。手負いの獣のようだったくせに、世話をした者に懐くとは結構な飼い犬根性じゃないか。そういう皮肉は肌一枚下にひた隠し、不自然に思われないよう視線を外した。何はどうあれ、その真っ直ぐな目で見られるのは不快ではないが少しばかり恐い。私にはない清さを、向けないで欲しい。
「この分なら俺の遊び相手として置いてやらなくもないかな。・・・総、聞いているのか?」
 主人の声で思考を中断させられ、更にその言葉の意味に眉を顰めた。
「また、悪いくせです」
「いいじゃないか。奇麗なもんは全部俺のものなんだよ」
 けらけらと笑い、再び鈍色を別の角度から眺め、離した。
「どれくらいでできる?」
「具合によりますが、一週間前後でしょうか」
 そうかと言って、主人は体を反転させた。その姿で一瞬隠れた灰色の目は、まだ私を射したままだ。
「まあ他のと遊びながらのんびり待つさ。今何人いたっけ?」
「先週一人抜けたので今は二人ですね。仁人様が余り相手をしてやらないからですよ」
「覚えてられないんだから仕様がないだろう」
 大真面目に言っているが、別に主人は健忘症でもなんでもない。ただ覚えようとしないだけだ。会った頃は、私もよく顔を忘れられた。
 部屋を後にする主人の背に一礼して、ソファで所在なさげにしている鈍色の前に立つ。眠そうな感じに細められた目が、私をきょとと見上げた。
「という訳でお前の立場が変わった。なんのことだか、言わなくても分かるな?」
 私の問い掛けに、鈍色は小さく頷いた。聞き分けがいいのか、意志がないのか。その素直さが、何故か癪に障る。
 主人はできる男だが、特定の相手、いわゆる恋人はいない。仕事の面では呆れるくらい手間をかけるくせに、私事では面倒なことになりたくないと自ら敬遠している所為だ。
 しかし奇麗なものには手を出したがるし、一たびするとなるとどこの性豪だというくらいやる。それがまた突っ込んで前後するだけだというのだから、相手する側としてはたまったものではない。それ故私が相手を見繕っては、あれこれと手を焼いているのだ。男女構わなくなったことには辟易しているが、しかし恋人ができてそれに現を抜かしてもらっても困る。
 そんなことを思い返していると、鈍色が下から覗き上げてきた。
「なんだ。自分より柔な男にあれこれされるのは嫌か?」
 からかいにも、鈍色は首を振るだけだ。会話が成り立たないから、こういう間があるといたたまれない。目を逸らして、主人が来たために流れてしまっていた食事たちに意識を移す。
「まあ、あれだ。お前は喋らないけど奇麗だからな。遅かれ早かれこうなるだろうとは思っていたさ」
 年にして21か22といったところだろうか。まだ若い彼には酷な話かもしれないが、拾われた相手、もとい倒れていた場所が悪かったと思って諦めてもらうしかない。
 しかしそんな私の思惑など本人は全く気にかけてもいないようで、私の横に立つと薄く口を開けた。
「・・・もう自分で喰えるだろう」
 そう言うが、鈍色はその名の由来にもなった灰の目で私を射抜く。そのガラスのような虹彩の中で、私の顔が諦めたように笑う。
「そんなに真っ直ぐ見つめるもんじゃない。刺されているようだ」
 冷めたスープを口元に運んで、その時漸く灰色の瞳は上から隠された。


 夜、主人に渡された顧客リストを入力しながら、画面の向こう側にいる鈍色を盗み見た。奇麗な顔を軽く歪ませて、体内に穿たれた異物感に耐えている。
 時折漏れる苦しそうな吐息が、拓かれることに慣れていないのだと私に信号を送っているようだ。しかしそんなことは端から無視して、私は手元のリモコンを弄った。
「ぅく・・・っ」
 声が吐き出される。医師の診断に間違いはなかったようで、意味のない声なら何度も聞いた。それは、もし言葉を紡いだらうっとりするだろうと思わせる音色で。その美しい青年を見ながら、私は溜め息を吐いた。
「嫌なら逃げればよかったろうに」
 汗で貼り付く髪をかき上げてやりながら額を親指でなぞると、気持ちよさそうに目を細めて鈍色が首を振った。仕方ない、と唇が動く。
「こんなこと、慣れるもんじゃない」
 言いながらぐちぐちとバイブを動かす私は、鈍色の中でどんな存在になっているのだろうか。
 苦痛や恥辱などで潤んだ目は私を見ない。いっそ、もう二度と映さないでくれとも思う。私はお前が思っているような人間ではないのだから。
「・・・私を、恨め」
 ちりと胸が痛んだ。
 大型犬のような、何かを護る使命を負ったような灰色の瞳。
 それに射抜かれる度、私の心はざわりと疼いて仕様がないのだ。


 鈍色の調教は苦行を極めた。
 何を言っても素直に従うし、張り方を使っての口淫もくわえるだけで吐き出していた最初の頃に比べれば幾分かはましになった。ただ、後ろに何かを挿入されることに対しては肉体のほうが先に拒絶の色を見せるのだ。それを見ないようにして無理やり進めると、ガチガチと歯を鳴らして倒れてしまう。
 今までもそういった固い奴は何人かいたが、こいつはそれ以上だ。何度かやれば感じるようになると思ったがその素振りもない。とことん向いていないのだと、気分が重くなった。
「そんなこと言って、お前、あいつを渡したくないんじゃねえの?」
 午後の休憩にと紅茶を運んだついでにその旨を告げた私にそんなことを言い、主人はにたにたと笑った。
「何故そうなるんです? 仁人様が言ったんですよ、ところてんをしない玩具はつまらないと」
「ま、そうなんだけどな。しかしお前の口からそういう言葉が出るのはなんとなく意外だな」
「? 弱音を吐くなということですか?」
「違う違う。今までならどんな相手でも無理やり従えてきたじゃないか。そんなにあいつは頑ななのか?」
「だからそうだと・・・」
 苛立ちを感じ始めた私に向けて人差し指を立て、左右に振る。わざとらしく舌も鳴らして。
「まあ怒るな。ただ面白くてな」
「面白い?」
「総にしては珍しく楽しそうにしていたからな。お前が嫌だと言うなら、夜伽にするのもやめるつもりだったし」
「私が嫌だと言うとでも・・・?」
 流石に聞き捨てならない。
 主人が先代の跡を継いで独立してから十年余り、口ではなんと言いながらも主人の命を違えたことなど一度もなかった。主人だって、そのことに気付かないふりをしているだけで知っているくせに。何を、今更。
 私の態度に不穏なものを感じたのか、主人は机を離れ私の前に立った。鈍色を見上げるときよりも少し視線を上げ、その顔を見る。
「悪かった。お前にはずっと助けられているよ」
 苦笑しながら伸ばしてきた手を、頬に触れる前に叩き落とす。
「分かっているのなら二度とアホなことを言わないでください。では、失礼します」
 ティーセットを押し付けるように盆ごと渡し、礼もそこそこに部屋を出ることにした。その背中に、主人の声が当たる。
「お前ももう27だぞ? そろそろ自分の為に動いたっていいんだからな」
「・・・ありがとう、ございます」
 私が動くのはいつだって貴方の為だけだ。
 分かりきった答えを言うのも馬鹿馬鹿しく、私は振り向くのもやめて扉を開けた。閉め際に、主人が殊勝な声で付け足す。
「今日、杉下の大臣が来る」
「・・・理沙にもてなしの準備をさせます」
 ぱたりと、扉を閉める。その隙間から主人の謝罪の声が聞こえたが、私は聴かなかったことにした。
「杉下、か」
 思い溜め息がどろりと床に落ちる。嫌な汗を背中に感じた。
 高校を辞めてまであの人に付いて来て十年と少し。まだ若かった主人を上に押し上げたくて必死だった。他のヒヒ爺たちに早く認めさせたくて。
 主人に罪はない。全部、私が勝手にしていることだ。
 息を詰めて、顔を上げる。早く理沙に言伝をしなくては。
「・・・鈍色」
 いつからいたのだろうか。廊下の端で背の高い青年が私を見ていた。じとりと、何かを訴えるように。
「もう勝手に出歩くなと言った筈だ。それと、今日はもう何もしなくていい。客人が来るんだ」
 言って、理沙を捜すために反転させた体を鈍色に止められた。掴まれた腕を見て、次にその主を睨み付ける。
「なんだ? 今お前に付き合っている暇はないんだが」
 眉を寄せて何かを言っている。しかし開閉する口からは空気しか出てくることはなく、私は苛立ちをそのまま口にした。
「何かあるなら言葉にしたらどうだ? 話せもしないくせに、私に意見しようとするな」
 さっと顔色が赤みをなくし、私は言いすぎたと思った。しかし使用人ですらない鈍色に遣ってやる気など爪の先ほどもない。睫毛を伏せた鈍色の手を振り払い、私は踵を返した。
 進んでも進んでも、背中がちりちりする。あの瞳に見られているのだと、感覚で分かる。
「・・・やめてくれ」
 小さく、自分でも聞こえないような声で呟いた。
 お前の目は、私には奇麗過ぎる。


 午後になって現れた大臣は、暫く話をした後すぐ腰を上げた。元々話すことなんて何もないのだから当たり前だ。
 私に視線を向け、それを察した主人が苦い顔を隠して部屋を空ける。そうして二人きりになった部屋で、私は机に上がるのだ。出際に見せてくれた主人の謝るような顔だけが、これから先の私の救い。それを思うだけで、私は自分の行為に疑問なんて感じなくて済む。
 この50を過ぎてなお性欲の衰えを見せない男に組み敷かれるのなど、なんでもないことだと思える。
 目を閉じ、いつも言われているように足を大きく開いて服を脱いでいく。シャツのボタンは一つずつゆっくりと。スラックスのファスナーもきちきちと焦れるくらいの動作で。
 脱ぎ方も魅せ方も、口の遣い方も締め方も卑猥な懇願の言葉も腰遣いも全てこの人に仕込まれた。更に磨きをかけたのは、他の男たちかもしれないが。
「今日は面白いものを持ってきたんだ」
 楽しそうに口元を歪めながら、しかし欲望は皮一枚下に隠そうとしていた大臣が、私から目を離さずに背広の内ポケットを探った。そこから出されたのは黒い革張りの四角いケースで、一見すると高そうな煙草を入れるもののようだ。
 しかしゆっくりと開かれたそこにあったのは、長さこそ葉巻のそれに見えたが、全く別物だった。
 私の目が丸くなったことに大臣は気をよくし、気味の悪い笑顔を見せた。
「いつもの君も魅力的だが、たまには乱れる姿も見たくてね」
 何かの薬品を針先から垂らす注射器が、裸の私の前に掲げられた。






二話終わり。