第一話。

「総! そーう!」
 貴族のものとしてはそう広くない屋敷に、やけに良い声が響き渡る。
 その声はここ円家の当主のものであり、呼ばれてるのは私の名前だ。
 一介の執事である以上この手の呼び声にはすぐ応じなければいけない。いけないとは、思っている。
 思っては、いるのだ。
「おーい、総ってば! 聞こえてないのかー?」
 間延びした声に苛立ちながら長い廊下を足音も高く進んでいくと、寝所のシーツを抱えたメイドの理沙とすれ違った。面白いものを見たというような顔で、私に微笑みかける。
「お呼びですよ、倉内さん」
「・・・分かっている」
 主人が主人だから、ここの使用人たちはすぐに増長する。少人数ということもあって結託したら私一人では敵わないし、何しろ主人がそれを許している。
 しかし主人の人を見る目は確かなので、ここの屋敷に使えない者はただの一人としていない。この理沙にしたって、まだ三十にもなっていないのにこの屋敷の維持を一人で担えるほどの仕事量をこなしていく。しかも一つ一つが丁寧なので、私が文句をつけるのはほぼ皆無に等しい。結局、この家で私はメイドの一人にすら劣るのだ。
 なんとなく鬱屈とした気分で目指す扉の前に立ち、今だな二やら叫んでいる主人に一発かましてやろうと息を深く吸い込んだ。その空気を口の中で圧縮させ、ノブを掴む。
 勢いよく開くと、ゴウンと鈍い音がした。
「・・・ひと、ひと様?」
「い・・・たいな、総。気を付けろ」
 いやいや、なんで扉の前に立っているんですか。
 余りの展開に苦情の言葉は消え、額をさする主人を奥の執務机まで押し戻した。全く、この人は大人しく座っていることもできないのだ。
「ああ痛い。お前が遅い所為だからな」
「何を言っているんですか・・・私にだって朝の仕事があるんです」
「それ」
 ぴしりと、額を撫でる手とは別の手が私の前に突き出された。真っ直ぐに伸びた人差し指に、自然な流れで意識が集中する。
「お前は、俺になんだかんだと言う割には自分で守れていない」
 指がくるりと回り、それを私の視線が追ったことに満足して椅子に深く座りなおす。
「それに言動も歯に衣着せぬというか、とにかく厳しすぎる。あけすけ、とも言うな」
「あの・・・仁人様?」
「俺はお前の主人であって、友人ではないのだぞ? しかし出来のいいお前に言動が不適切だからと言って首をちらつかせて脅したとしても、実際脅かされるのは俺のほうだし・・・っは! 総、お前ひょっとしてこれを狙って・・・」
「仁人様!」
 せっかく散った怒りはまたもや収束し、爆発した。それなのに、人の話を聞いても理解しない男はきょとんとするだけで。
「いきなりデカい声を出す奴があるか。びっくりするだろ」
 全くお前は、とまた何か続けそうなのを机を叩くことで制し、その顔に己のを近付けた。
「朝から大声を出したのはそっちでしょう! 呼ぶときはそこの鈴を遣ってくださいと何度も・・・」
 そう言って掴もうとした先に、話題の呼び鈴はなかった。さっきまで確かにあったのにとうろついた視線が、主人の手の中にそれを見つける。主人はそれを顔の横まで上げためつすがめつし、仕上げにチンと鳴らした。
「だってお前、この間これで呼んだら烈火の如く怒ったじゃないか」
「そ・・・れは、リンリンリンリンと馬鹿みたいに鳴らすからです! あなたって人は本当に独走ばかりして・・・」
 ぱん! と大きな音がして、私は口を閉じた。主人の目が、切るように私を見る。
「お前の言い分も理解してるさ、俺は」
 さあ本題だと、突然やり手の顔に戻られるととても困る。しかしこの人はいつもこの調子なので、私も慌てることなく執事の顔を貼りなおした。
「実はさっき拾い物をしたんだ」
 再び人差し指を立て、私がそれを見たと知るとそのまま視線を釣るように横へ動かした。
 促された先には、来客用のソファセット。その黒張りの上に転がるそれは、まさか。
「ひ、人ですか?」
「そう。今朝庭の隅で死んでいるのを見つけてな。景観にも悪いし拾ってきたのだが・・・」
「し、死んでっ?」
「誰が死体など拾うか。馬鹿かお前は」
「・・・・・・」
 あなたが言ったんじゃないですか。
 その不満を押し殺して、ソファへと近付く。
 目を閉じているその顔は酷くやつれていて、髪も服も元の色が分からないほど汚れている上にボロボロだ。どう考えても面倒事の後のようなそれを引き受けたくはなかったが、主人は一度言い出したことを忘れはするがやり通してないと知ると煩い。
 溜め息を呑んで膝を付くと、気配を察したのか伏せられた睫毛が揺れた。
「大丈夫か?」
「・・・ぁ、」
 かさついた唇が動いて、何か言葉として意味をなす前にがくりと意識を失った。驚いて主人を振り返れば、当然のように顎をしゃくる。
「死にそうだから、助けてやれよ」
「・・・っそ、」
 そういうことは早く言え!
 私はそう叫びたいのを我慢して、理沙に湯の準備を頼みながら医師を呼ぶため廊下へと飛び出した。


「熱くないか?」
 湯船の中の青年に問うと、青年は黙ったままこくりと頷いた。
 医師の出した診断は、重度の栄養失調。それも、摂食不良によるものだという。
 点滴によるとりあえずの処置が済みこうして洗ってやることになったのだが、そこで私は再び目を瞠った。細く白い躯の至るところに残る無数の傷跡。擦過傷や打撲痕、果ては火傷の類まであり、その殆どが既に塞がっているということだけが唯一の救いだった。
 しかしだからといって今の生活がよくなっているという訳ではないのだろう。医師の話では、彼はその言葉すらも失っているという。
「心因性の失語症と思われます。診たところ声帯に異常はありませんし・・・よほど辛いことでもあったのでしょう」
 その診断を受けている間、青年は顔色一つ変えなかった。
 聞こえもすれば理解もしている筈だ。しかしその現象全てが、彼のあずかり知れぬところで起きているような。感情の全く伴わない反応は、見ている側にそんなことを思わせた。人のこととはいえ、なんとなく気分が悪い。
 温まってきたようで、幾分血色のよくなった顔に私は軽く安堵し、湯を少し抜いた。
 そして湯船の縁に座って青年に湯をかける。特に警戒も驚きもせず、されるがままに項垂れた。
「目、閉じてろよ」
 青年の体はどうすればここまで、というほど汚れていた。髪を洗っただけで湯船に残しておいた湯は真っ黒になるし、肌は擦るほど白くなっていく。
 その汚さにも驚かされたが、もう一つ。青年の容姿は溜め息を吐くほどの美貌だった。
 清めて櫛を通した髪はしっとりと黒く、その髪に隠れていた顔はパーツの一つ一つが整っている上にバランスもよかった。  そして何より目がいくのは、その灰色の瞳だ。珍しいその瞳は虹彩も奇麗な青色をしていて、まるでどこかの国の人形のような風貌を醸し出していた。
 十人いれば十人が振り向くような顔は、やつれていてなお美しい。これで体調が戻ったとなれば、恐らく主人も驚くほどの輝きを放つだろう。そうなれば、彼がここにいる意味は変わってくるかもしれない。
 理沙と二人で見繕いを整えてやりながら、感嘆の息を何度となく吐いた。
「・・・よし、できた。仁人様の服が合ってよかったよ」
「ほんと。旦那様もそうだけど、背が高いってお徳。こうしていると、病弱な貴族様みたいよ」
 くふくふと笑いながら、散らかしたタオルや切った髪なんかをてきぱきと片付けていく。
 理沙には屋敷の管理の殆どを任せている。他のメイドたちへの指示も仰せつかっている彼女の仕事は速く、この屋敷の使用人を最低限の数に抑えている要因の一つと声を大にして言える。実際言ったことはないが。
 彼女は青年を気に入ったらしく、弟に向けるような笑顔で接している。対する反応が薄いことにも、さして気にしていないようだ。
「手伝ってもらって悪かったな。まだ仕事が残っているんだろう?」
「いえいえ、眼福でした。まだお世話してあげたいですよ」
 美しく笑い、ベッドに腰掛ける青年の頭を撫で、その手を置いたままはたと何かを思いついたように宙を見上げた。
「そういえば、名前。名前訊いてなくないですか?」
「ん? 確かに。喋れないから知りようもない思っていたな」
 頷きながら言うと、怪訝な顔で見られた。
「倉内さんって、頭いいくせにちょっと抜けてますよね。なんのために文字はあるんですか?」
 あ、と思う。
 そんなことにも気付かないなんて。気恥ずかしさを隠して胸ポケットからメモ一式を取り出すと、青年の手に乗せた。受け取った青年は暫くそれを眺め、私を見上げる。
「どうした? 字は書けるんだろう?」
 その質問に頷くが、一向に書こうとしない。流石におかしいと思って先を促そうとしたが、医師の診断を思い出してそれをやめた。忘れたい記憶、なのかもしれない。
「・・・言いたくないか?」
 また頷く。やれやれだ。
 私は青年の手からメモを奪うように取ると、思ったままの文字をそこに書いた。
「鈍色。便宜上、お前をそう呼ぶことにする」
「にびいろ?」
「染色に使う絵の具の一種だ。灰色のことさ」
「・・・なんて安直な」
 まるで犬猫みたいだなんて理沙は言ったが、当の本人は意外と気に入ったようだった。私を見上げ、初めて表情らしいものを見せる。といっても唇を横に伸ばしたような笑顔で、ぎこちないことこの上なかったが。
「よろしくな、鈍色」
 頭を撫でると、鈍色は曖昧に頷いた。





一話終わり。