6. 事務所の中で、舟木は最近落ち着いた心地と無縁だった。 いくつかの店を任されている身なので、ここには普段は余り近寄らない。月に一回顔見せするだけで、金のやり取りは専ら若い衆にやらせても事足りたからだ。 それを最近足しげく通っているのは、知っておかなければならない情報があるから。 葛井巳春の身柄を拘束せよ。 一時は舟木が請け負っていたもので、そのときに全てを終わらせたはずの一件。それが実は終わってなどおらず、今は上から下まで総動員で行っているという。 馬鹿なガキ一人の捜索。そんなもの徹底すれば三日もかからないだろうが、数週間たった今でも終わらないでいる。その理由は、舟木がそのガキを囲っている所為だ。 だからこそ舟木はこの捜索に何か動きが出ないかを見張るため、ここに通っている。 その日も特に進展はなく、このまま諦めやしないかと溜め息を吐いたとき。 いつも電話をかけてくる男が、肩を叩いた。 「よう、虎。お前最近猫飼い始めたんだってな」 「え? ええ。話が早いですね」 ドキリとしたが、その程度なら若衆に漏らしたことがある。平静を保った顔は、次の言葉で一変した。 「それも、二匹いるらしいな」 背筋が凍った。無理に笑った所為で、頬が引き攣る。 「お前が女一人のために俺の呼び出しを無視するとは思えないからな。下のを一人張らせたんだ。そしたらビンゴ! ベランダに二匹、デカいのとチビのがいたと言うじゃねぇか」 軽い口調だが、目が全く笑っていない。何年かぶりに、足元がふらつく気がした。 「先方にはまだ通してねぇ。分かるよな? チビじゃなく、デカいほうの猫を連れてきやがれ」 一日やるから、よく考えることだ。 念を押すように男に肩を叩かれて、舟木は口を押さえた。 帰ってくるなり、舟木は葛井を掻き抱くと引きずるようにして寝室まで連れていった。そのままボタンをちぎるように服を脱がせ、ジェルでおざなりに解しただけで性急に突っ込んだ。 切れはしなかったようだが、痛みに暴れるのを殴って大人しくさせ、ぐったりしたところを無茶苦茶に抱いた。 このまま全てを喰らい尽くすのではないかというほど強いキスをして、お互いに何度となく吐精した。 泣くような悲鳴が喘ぎに変わり、やがて何も言わなくなる。そして完全に気を失ったことを確認して、舟木は漸くその体から性器を引き抜いた。少しピンクの混ざる精液がそこから溢れるのを見て、嘆息する。謝罪の代わりに頬を撫で、優しく抱き締めた。力のない体を軋むほど抱いて、シーツに下ろす。 「悪いな」 できることなら、より深く自分を刻み付けてから手放したかった。悪い印象でも構わないから、忘れない衝撃を。 捨てるように脱いだ背広から携帯を取り出し、耳に当てる。 「・・・あ、俺です。明日・・・連れていきますんで」 このまま逆らっていれば葛井もただでは済まない。金持ちの変態というからには死ぬようなことはないだろう。それだけは電話の相手も太鼓判を押した。ただ、色狂いになる可能性はあるなと笑われたが。 幸か不幸か、向こうは舟木が同情で葛井をかくまっていると思っているようで、葛井の体はまるっきりの処女だと信じているようだ。着いたとき痣だらけの体を見てなんと言うだろうか。出し抜いたようで気分がいい。 時間や場所その他のことを話し、気に病むなよ、と言われて通話を切った。 長々と重い溜め息を吐いて、葛井を見やる。奇麗にしてやらねばと思ったところで、ぎょっとした。葛井の目が、じっと舟木を見ていたからだ。 「・・・なんだ、気付いて」 「売られるんだ、俺」 淡白な口調に、言葉の続きを飲んだ。ざわざわと胸が痛む。 「変な気はしてたんだ。あんた俺が外に出たいって言うとキレるし。時々変な顔で電話してたし」 重い体をなんとか起こして、シーツを巻いた。 「逃げたりしないから安心しろよ。ちゃんとあんたの・・・」 引き寄せられ、唇を塞がれた。吸って、少し咬んで。開いたところで侵入する舌が、歯茎や顎の裏を滑っていく。二人分の唾液が飲み切れずに口端からとろりと溢れ、それを舐め上げてまた唇を合わせる。 何度もついばんでは離れ、絡めては息を奪い葛井の顔をぽぅっとさせていく。くにゃりと後ろに反れた首を追って重ね合い、長い間キスだけをしていた。漸く離れたとき、葛井は小さく痙攣しながら浅い呼吸を繰り返していた。 「渡さない。お前をここまでにしたのは、俺だ。俺がお前を磨いたんだ」 きつく抱き締め、顔を擦り付けて唸った。葛井の眉が、苦しそうに寄せられる。 「クズ。お前、俺が好きだろ」 言われ、葛井は目を閉じた。違う、と唇が動く。 「好きだろ? 言えよ。言ったら俺は、お前を逃がしてやる」 「・・・好きじゃ、ない」 唇を震わせて言う葛井に苛立ち、肩を掴んで体を離した。顔を覗き込んで、その痩躯を前後に揺らす。 「そんな顔で誰が信じる? 欲しがる顔で、俺を拒絶するな!」 「嫌いだよ!」 ぼろり、と大粒の涙が頬を伝った。 「嫌い嫌い、大っ嫌いだ! もうあんたの顔も見たくないし、一緒にいたいとも思わない! だから、だからさぁ・・・」 そこで大きくしゃくりあげ、手の甲で流れ続ける涙を拭った。 「早く・・・捨てちまえよ・・・」 止まらないと諦めたのか、俯いた葛井を舟木は抱き直した。後ろから頭を叩くように撫で、喉をひくつかせて泣くその背中を優しくさする。 「酷いこと、言わせたな」 顎の乗った肩に染み込む涙の熱さに、舟木は眉を下げ溜め息を吐いた。 「泣くほど俺が好きか?」 「・・・嫌いだっての」 「俺は好きだ。お前を離したくない」 とん、と胸を弱く叩くものがあった。それが葛井の拳だと知る前にもう一度。次は少し強く。その次は更に強く。流石に痛くなってきたころ、葛井は手を止めてわんわんと泣き出した。嫌い嫌い、と時折言いながら。 「大丈夫だ、絶対逃がしてやる。お前が俺を心配してくれなくてもいいんだ」 「ぅ、ううぅうう・・・」 結局、葛井は最後まで嫌いだと呟きながら眠りに就いた。その間、舟木の腕から逃げようとする素振りは一切見せずに。 泣き疲れて眠る葛井を見ながら、舟木は自嘲気味に嘆息した。その子供のような寝顔に決意する。 翌日、店の始まる時間を待っていつもどおりの注文をファックスした。その配達を持って現れた菅を玄関から引きずるように入れ、早口で説明して協力を求めた。 菅は一瞬も躊躇うことなく頷き、葛井の手を引いて階下へと誘った。 「舟木さん・・・」 「心配すんな。奴らを帰したあとで、こいつも連れて必ず行くからよ」 緊張など全く関係ないような顔であくびをするとらを抱え、そんなことを言う。 葛井はなんとなく胸騒ぎがしたが、早く行けと肩を押され追い出されてしまった。目の前で閉じる扉は、もう招かれない限り開くことはない。数週間ぶりに出た外は、そんなに感覚があったわけではないのに心細くなる心地がした。 「・・・大丈夫ですよ。命が関わるわけじゃないんですから」 縮むように俯いた肩を抱かれて外に出る。久々に見る外の空気は少し眩しくて、細めた視界に見知らぬ男が立っていた。誰だろうと思う前に、菅の細い背中が葛井の前に壁として立ち塞がった。 「菅くん?」 「多分、話に出ていた見張りです。まだいるなんて」 苦々しい言い方に、目の前の男は下種な笑いを浮かべて詰め寄った。 「舟木のダンナはこの一件で大分信用を失ってんのさ。万が一のときは、オレが連れてく算段でね」 考えが浅かった。菅の車はもうすぐだというのに、進めない。どうしようかと思っている二人の脇を風が走り抜け、あ、と思う間にその風が男を殴り飛ばしていた。 「寸でで思い出してな。追ってきてよかった」 息を切らせた舟木が振り向き、葛井も菅も緊張を解いた。 「菅、車頼む」 「はい!」 駆けて行く菅を見やってから、舟木は葛井を引き寄せた。元々人通りが少ないとはいえ、いい時間帯だ。迷ったが、葛井は大人しく腕の中に収まった。 「ほんじゃま、今度こそ最後だな」 「最後とか・・・縁起悪いよ」 「それもそうか」 肩を揺らして笑う舟木が、突然体を離した。何事かと見れば、高そうな黒塗り車が近付いてくる。 「次から次へと・・・」 舟木が舌打ちし、葛井を脇に隠す。目の前で停車したその中から、派手な紫のシャツを背広で隠した男が現れた。にやにやと笑いながら、ようと手を上げる。 「愛の逃避行か? 虎」 サングラスで表情は掴めなかったが、舟木が身構えたのが分かる。 背後で、菅の車が止まった。 「そいつが噂のオス猫ちゃん? ・・・ふうん、可愛い顔してんじゃん」 「・・・気安く見ないでくれますか。俺のなんで」 「俺の? ってそりゃあ・・・へぇ、そお・・・」 にやにや笑いが大きくなったかと思うと、今度は声を上げて笑い出した。わけが分からなくて舟木を見上げると、舟木もこの反応は予想していなかったようで、ぽかんとしている。 「・・・おい?」 「はは、あーはははは! なんだ、そうだったのか。女ってのもあながち間違いじゃねぇなあ」 ついには泣き出したらしく、サングラスの下から指を突っ込んでヒイヒイ言っている。どうすることもできずに固まっていると、男は腹を抱えたまま次第に笑いを抑えていった。 「・・・は、ははは。あー笑った」 最終的には馬鹿みたいに咳き込み、えづいてからこちらを見た。 「そんな君らに朗報だよん」 なんだこの人は。こんな人に舟木はビビっていたのかと訝んでいると、漸く男の中の鋭い部分が見え始めた。勿体ぶるように息を吸って、二人を指差して、 「あ」 口をぽかりと開けた。 「巳春さん、後ろ!」 菅の声に振り向いた先に銀色の光が見えたかと思うと、舟木に強く引かれすぐ見えなくなった。続いて鈍い衝撃。何が起こったのか分からない葛井の体を、舟木が痛いくらい抱き締めた。 「・・・ちょ、苦し・・・」 押し付けられる肩から顔を上げると、舟木は凄い汗を浮かべて歯を喰いしばっていた。ぎょっとして舟木の背後を見れば、倒れていたはずの男が顔面を蒼白にさせながらも笑っている。そいつが一歩下がり、二歩下がり。カシャンという音に目を向けると、地面に赤く濡れたナイフが落ちていた。 「・・・舟木さん?」 呼びかけに、舟木はにやりとして膝を折った。そのままずるずるとうつ伏せに倒れ、葛井は何が起きたのか把握できない。 「舟木、さん」 「舟木さん!」 切羽詰まった菅の声で漸く正気に戻り、その途端舟木の腰に広がる赤い染みに目が行った。刺されている。思うより先に手が動き、そこを押さえつけた。 「・・・ぐ、いってぇ」 痛いどころじゃないだろう。押さえてもじわじわと溢れる血は止まらなくて、葛井は全身が冷たくなるのを感じた。ここから、舟木の命が流れていく。 「ひ、ひひ・・・ひひひ」 刺した本人は壊れたように笑っている。サングラスの男がそれを殴り、今度こそ完全に気絶させた。 「おい兄ちゃん! 救急車!」 「・・・あ、はい!」 白目を剥いた男を黒塗り車に放り投げ、菅に向かって叫んだ。そして葛井の向かいにしゃがみ、べしりと舟木の頭を叩いた。 「ちょ、あんた何して・・・」 「黙れクソガキ。おい虎、生きてっか?」 「う・・・なんとか、な」 「これも自業自得かもなあ、おい。因果なもんだ」 「・・・違ぇねえ」 これから死んでいくというような会話に、血の気が引いた。傷を押さえたまま男に詰め寄って、必死の形相で頼んだ。 「ねえ! あんたなら助けられるんでしょう? 助けて・・・くれよ」 「クズ・・・何言って、」 「喋んな! ・・・なあ、俺、逃げないから。あんたたちのいいようにしてくれていいから・・・」 「クズ!」 泣きそうになったが、歯を喰いしばって男を見た。サングラスをずらし、上から睨むように眺めてくる。 暫くそうやって睨み合い、葛井が折れないと知るとやれやれと溜め息を吐いた。携帯を取り出し、何やらボタンを押している。 「元々殺す気もねぇよ。・・・ま、必ず助かるとも言えねぇがな」 言いながら、二人から離れると真剣な顔で通話を始めた。内容こそ聞き取れないが、舟木のためであろうことは分かる。 「・・・馬鹿野郎」 絞り出すような声に、葛井は睫毛を伏せた。 「やっぱ無理。舟木さんに迷惑かけるくらいなら、離れる方がマシ」 そう言って黙り込む葛井に触れようと手を伸ばし、痛みに呻いてぱたりと落とした。それを何度か繰り返し、諦めたように笑う。 「なあ、キスしてくれよ。それか泣いてくれ」 「やだ」 「やだってお前・・・」 唇を震わせて、目をきつく閉じた。泣きそうなのは明らかで、耐えるほうが辛そうに見える。 しかし葛井は頭を振って必死で堪え、深呼吸してから舟木を睨んだ。 「絶対しない。どうしてもしてほしかったら、治してから殴ればいい」 かちん、と歯を鳴らした。怯えているのだ。 「絶対、しないからな・・・」 舟木が呆れたように笑い、目を閉じた。 薄れていく意識の中で、サイレンが遠くから響き渡る。 完全に途切れる最後まで、葛井が泣くことはなかった。 続。 |