5. 「具合はどう?」 いつもより早く出た舟木の使いでファックスを送った。熱で臥せっていたのは一日だけだが、色々あってベッドから出られないでいたので、菅に会うのは実に数日振りだ。どうやらその間ずっと具合が悪かったと思われているらしい。葛井はそれを否定して、あの日のことに礼を言った。随分と世話になってしまったと。 「パジャマもありがとう。あの人、下着ばっか買ってくんだもん」 それは、下着以外に替える必要がないのではと菅は思ったが、表には出さず曖昧に笑った。 「でも大事にされてるみたいですね。舟木さんが取り乱すのなんて、初めて見ましたよ」 「取り乱す? あの人が?」 実はあの日の記憶は結構おぼろで、服を替えてくれたことと猫を貰ったこと以外は思い出せないでいた。ただ、治ったら頑張るなどと言ってしまったらしく、翌日以降も葛井は泣きを見ることになったのだが。 思い出して顔が赤くなるのを感じた葛井は、軽く俯いて話題を変えた。 「そ、そうだ。猫見る? 菅くんが貰ってきてくれたやつ」 返事を待たず、逃げるようにリビングへ走った。熱い頬をぺちぺちと叩き、やりにくいと歯を鳴らす。 子猫はソファの上でタオルにくるまってうとうとしていた。それをタオルごとそっと抱き上げて、菅に見せる。 「眠そうだね。名前は?」 鼻先を指でつつきながら、菅は葛井を見て訊いた。 「とら。白猫だけどね」 厳密には白い毛の中に薄茶色の毛がぽつぽつと混じっているような毛色なのだが、それでもやはりとらという名前はそぐわない。 「何故です?」 当然の問いに、葛井はにやりとした。 「あの人、大河で虎って呼ばれてんだぜ。あいつを飼育してると思うと、楽しい」 うけけと笑う葛井に菅は小さく噴き出して、仲良しですね、と言った。驚いて取り落としそうになったとらが抗議の鳴き声を上げ、ひらりと飛んで逃げてしまう。残されたタオルを握り締め、菅に詰め寄った。 「仲良しってなんだよ! 俺とあの人が? ないない、絶対ない!」 その顔はどこから見ても真っ赤で、菅は笑いを堪えながら、だって、と言った。 「好きな子の名前をサボテンに付けるのと同じ心理じゃないですか。好きなんですね」 「ち、ちが・・・っ違うぞ菅くん!」 必死になって否定するから、余計に笑われる。最終的に言葉を失った葛井の背後から洗濯の終了を告げる電子音が鳴り、これ幸いと菅は帰って行った。好きなら言ったほうがいいですよ、よ一言残して。 「だから・・・違うっての」 誰もいない玄関で呟いたが、完全に否定できないことが辛かった。 熱を出した翌朝、自分から舟木に寄りなおかつその服を強く掴んでいた。驚いて記憶を漁るも、なんとなくぼんやりしていて全体が掴めない。それなのに、腕の中にいることがとても心地よくて。 高鳴る胸を押さえるために降りた先で子猫を見つけた。腹が空いているのか、柵を掻いて小さく鳴いていた。キッチンにある猫用の離乳食を持ち、混乱する頭で缶切りを駆使した。 気恥ずかしさに、ああ、と嘆く。 そのあとのっそり起きてきた舟木は妙に機嫌がよく、いくら訊いても昨日の出来事について答えてはくれなかった。そのほうが余計変な想像をしてしまうというのに、舟木は昼間から襲ってくる。しかもした覚えのない口約束を握られ、色々と恥ずかしいことをさせられた。 そして何より、それらの命令に逆らえない自分に一番驚いた。 逆らわないどころか、早く挿入れて欲しいと思ったり、中に出された際の熱さに幸せを感じたり。自分の知らないところで自分の中身変化していることが恐かった。 恐くて目の前の体に縋れば、舟木は甘く口付けてくる。大切にされているかもしれないという錯覚に、葛井は心のどこかが脆くなるのを感じていた。今まで孤独だった分、人の温もりが全身に染みる。もしこれがなくなるとしたら、自分は耐えられるのだろうか。葛井は何度も考えて、考えては集中しろと中をえぐられた。 その不安や葛藤に、菅が答えを出してしまった。 自分は舟木を好きなのだろうか。気まぐれに人を殴る、あの男を。 ぐるぐる考えている内に、葛井はすっかり眠ってしまった。 夜になり、葛井は電話の呼び出し音に飛び起きた。洗濯物を乾燥機にかけるのも夕食の準備もしていない。焦るように見た時計の針はまだ夕方を指していて、少し安心してから電話に出た。 ここにかけてくるのは部屋の主か、菅だけである。時々他の番号も表示されるが、どうせどこかしらの勧誘だから出なくてもいいと言われている。今回表示されているのは舟木の携帯番号で、葛井は少し構えて受話器を上げた。 「舟木さん?」 『出るのが遅ぇよ。・・・まあいいか』 一度電波に分解されて届くその声は、少し苛立ちを含んでいるように聞こえた。 『今日俺が帰ったら、書斎に隠れてじっとしてろ。音立てんなよ』 「なんで?」 『なんでもだ。とら連れてていいから』 それじゃあ静かにするのが難しいよと言いたかったが、葛井はうんと答えた。機嫌の悪いときの舟木に逆らえば後が恐い。痣のない状態でセックスをしたことが、実はまだ一度もなかったりする。 「ご飯は? まだ作ってないんだけど」 『一人で済ませてろ。・・・ち、もう時間か。切るぞ』 騒がしい雑音が後ろから微かに聞こえる。舟木の職場を思えば普通のことだが、そのノイズが今はひたすら憎かった。適当に相槌を打ち、向こうが切るのを待つ。 通話の切断を知らせる電子音を暫く聞いてから、ゆっくりと耳から離した。 「・・・ご飯食べよ」 その前に乾燥機か。 にゃあにゃあと足にまとわりつくとらを抱き上げ、葛井はそっと頬を寄せた。 「とら・・・」 自分はどっちの名前を呼んでいるのだろう。菅の所為でよく分からなかった。 かなり手を抜いた食事をして、簡単な掃除をしてから乾燥機の中ですっかり冷たくなった洗濯物を抱えて書斎へ向かった。 書斎と言ってもただ舟木が暇潰しに買った本があるだけで、葛井も掃除以外で入ったことはない。位置的に少し暗いから、嫌いなのだ。 「おいで、とら」 まだ自分の名前として認識はしていないようだが、声をかけられるととてとてと覚束ない足取りで寄ってくる。入ってきたのを確認して扉を閉めると、狭い部屋に静寂の幕が降りた。 「なんで隠れるんだろうな」 子猫に話しかけながら、持ってきておいた毛布を肩にかけた。 久し振りだったから、洗濯した服はもりもりと多かった。まあ時間はあるしと思いながらたたみ始め、漸く最後の一枚というときに玄関で音がした。 帰ってきた、と息を潜める。子猫を抱き寄せ、大人しくするよう祈って頭を撫でる。 しかし、舟木の足音以外にもう一人の存在を感じ、それが女性だと気付いて声を上げそうになった。 この家に女の人を連れてくるなんて。そもそも人が来ること自体が初めてだ。激しく動悸がして、葛井は胸を押さえてうずくまった。その腕からとらが抜け出し、心配するように服を咬んだ。 「とら・・・とら、俺」 ほどなく、二人の話し声が途絶えた。そして少しの間をおいて聞こえ始めたのは、明らかな情事の音。反射的に毛布を被り、強く耳を押さえた。それでも高い女性の声は隙間から侵入し、葛井は痛くなるほどの力を加えた。 押さえ続けた耳が熱を持ち、少しの頭痛さえ生じてきた頃、再びした足音に顔を上げた。 いつの間にか泣いていたらしく、視界はぼやけるわ鼻は痛いわで大変だった。 さっきより声が近いから、会話をいくつか拾うことができた。よく聞こうと立ち上がり、扉に耳を付ける。 どうやら女は新人のようで、店に出す前はこうやって研修のようなことをするらしい。誰かに聞かせるような口調で舟木は言い、送ると言い残して玄関を出た。 そんなことを言われても困る。舟木があのベッドで誰かを抱いていたのかと思うと、虫唾が走る。女性が出際に言った、優しかった、の一言も胸に刺さって辛い。 またもボロボロと自分の意志に関係なく泣けてきて、葛井はよろよろと毛布の上にへたり込んだ。その時手がたたみ損ねたシャツに触れ、無意識に引き寄せる。 「とら」 部屋の隅で眠そうにしているのを呼び、自分も丸くなった。シャツに顔を埋めると、そこから香る匂いに心が震えた。 好きなんだ。 好きになってしまった。 認めてしまうと、こんなにも辛い。 シャツを抱き締め、子猫の体温を近くに感じながら、葛井は泣いて重くなった瞼を閉じた。 囲っていた猫が、自分のシャツをきつく抱き込んで眠っている。 その様子に何してんだと起こしそうになったが、うっすらと残る涙の跡を見て何も言えなくなった。 やはり今日はホテルを取るべきだったか。しかし、いつもと違う行動を取ったら怪しまれる。仕方がなかったとはいえ、悪いことをした。 葛井の気持ちの変化に気付かない訳でもなかった。 あれ以来口では何かと文句は言ってくるも、本気で嫌がるようなことはしなくなった。本人に自覚があるのかは分からないが、時折じっと見つめられている気もする。 好意を向けられて、年甲斐もなく喜んでいる自分がいた。笑顔を見れば嬉しいし、セックスだっていくらでもできるように思われる。他の誰と一緒にいても、こんなことを感じることはなかったのに。 ただ、と思う。 もしこのまま葛井を縛りつけていていいのだろうか。ひょっとしたら、風邪で朦朧としている間に何か勘違いしてしまったのかもしれない。第一、自分といることで葛井が幸せになれるとも思えなかった。 舟木には、気に入った相手を痛めつけることで興奮する部分がある。どうでもいい相手ではそうならないのだが、好きであればあるだけ傷付けてみたくなる。 好意の表し方が小学生から進化していないのだ、と時々おかしくもあった。 自分の下で喘ぐ体が痣だらけであるということに、舟木は他にない喜びを得るのだ。 おかげで女とも男とも続いたためしがない。今の葛井は、金で繋いでいるようなものだ。 そんなことを思いながら眺めていると、葛井の顔の横で丸まっていた子猫が目を覚ました。いっちょまえに伸びをして、舟木の足元に駆け寄る。 「どうした? 腹でも減ったのか?」 首ねっこをつまみ、廊下に出してから静かに戸を閉めた。 ひとまずシャワーを浴びて趣味の悪い香水を落とそう。 缶切りを探しながら、舟木はそんなことを思った。 微かな水音に目を開け、葛井はのっそりと上半身を上げた。 「とら?」 いるはずの小さな気配が消えている。あれに扉は開けられないし、もしや舟木がと思い至り、自分の格好を見られたのだと赤面した。 シャツを抱いて寝ていたことは明らかだろう。ぐしゃぐしゃになったそれは、もう一度洗い直さなければならないだろう。色んな意味で後悔しながら、葛井は書斎を出た。どうやら聞こえていたのはシャワーの音で、子猫は柵の中で気持ちよさそうに寝ていた。 「薄情者」 耳をちらちらと弄り、唇を尖らせた。蠅でも散らすように邪見にされ、少しがっかりする。 不貞寝したい気分だったがベッドに行く気にはなれず、ソファに乗って天井を見上げた。その上に、照明を遮るように影が差した。それが舟木だと気付き、次いで垂れてくる水滴に眉を顰めた。 「ちょ、ちゃんと拭けよ・・・」 首に巻いていたタオルを奪い、仰向けの不安定な体勢で乱暴に拭う。その腕を掴まれ、どきりとした。 「いいからヤろうぜ。あんな女相手じゃした気がしねぇ」 「・・・バカじゃねぇの」 毒吐くが、内心では女よりもいいと言われたことが嬉しかった。 服を脱がされる間が、セックスの中で割と恥ずかしい行為に思える。手持ち無沙汰に少し濡れたタオルを握り、口元に寄せる。いくら言われても、やはり自分の口から変に上ずった声が出るのは悔しかった。 「・・・ん、んふ」 「ここ数日でデカくなったんじゃねぇの? 赤くさせて、やらしいぜ」 こねるように乳首を揉まれ、痺れる感覚に腰が浮く。確かに、敏感になっている気がする。 「あ、んたが・・・しつこくいじっからだろ・・・」 「そうか? 昨日は自分で擦って気持ち良さそうにしてたじゃねぇか」 くすくすと笑われ、目を逸らした。自分でしたいと言った覚えはない。 舌と指で思う存分楽しんだ後、舟木は葛井の足を持って高く上げさせた。そのまま腰も引き上げ、後ろまで丸見えになったところで舌を当てた。葛井の目が丸くなり、足がバタついた。 「や、それやだ!」 「んだよ。この前は随分喜んでただろ。嘘つくなっての」 「で、でも・・・」 「足押さえてな」 鋭く言って、ずるずると指を挿し入れた。絞り出すような甘い声を出して、先走りがこぷりと溢れる。もう前を触ってやることも少なくなっていた。 「んあっ! や! あ、あんっんっあ、はぁ・・・っ」 ごつごつした指でピストンされると、もう訳が分からなくなる。顔を隠すように手で覆い、むせび泣いた。 「ひゃあ、あぁ・・・舟木、さん! 舟木さん・・・!」 がくがくと腰を揺らし、切ないほどの快感に助けを求めるように名前を呼ぶ。掠れた声で呼ばれるたび、舟木もぞくぞくと胸が騒いだ。 「んん! あっ・・・出る・・・っ!」 大きく腰を揺らして、腹から胸にかけて白い液を飛ばした。絶頂を迎えて喘ぐ姿を見て、舟木が喉を鳴らす。 「乗れるか?」 肩で息する葛井の手を引き、上に乗せた。ぐったりと疲れている体を割って、その腰を一気に引き下ろす。泣くように、葛井は嬌声を上げた。 「やああぁあ! ああん! ふな、きさぁん、」 教えた訳でもないのに淫らな腰使いをするようになった。多分自分の好きなところを探って擦りつけているのだろうが、それが結局煽情的な動きになるのだ。 「クズ、キスしろ」 二の腕を引いて屈ませる。呼吸を奪うようなキスに翻弄され、とろりと目を潤ませた。離した途端に喘ぎ声が溢れ出し、きゅうきゅうと喰い締める。舟木が眉を顰め、腰を打ちつけた。 「ん、やぁっあん、も・・・だめぇ・・・っ」 縋るように首に抱き付いて、びたびたと舟木の腹に吐き出した。中に出される感覚にぐにゃりと体を崩し、その肩にしなだれかかる。 「・・・はぁ、は、ぁ・・・」 ぶくぶくと結合部から泡になった精液が零れ出す。その余韻を感じながらうっすらと開けた目で、その首に付く赤い跡を見つけてしまった。指でなぞり、おずおずと咬み付く。くすぐったそうに舟木が笑い、尻から太股にかけて撫で下ろした。 「どうした?」 「・・・てるから」 「ん?」 嫉妬してるから。 もう一度強く咬んでから、力尽きたふりをしてその首に絡み付いた。 続。 |