4.

 夜中に頭から水をかけられた上に吐くまで殴られ、挙句の果てには手酷いセックス。これで体が参らないほうがおかしいというものだ。
 昨日と同じように昼過ぎから起き出して、コーヒーを淹れようとソーサーに水をセットした後で倒れた。新聞を広げていた舟木がそれに気付いて抱き上げ、その異様な熱さに舌打ちする。
「・・・なんで黙っていた」
 絞り出すような問いに、葛井は薄目を開けて一瞥しただけだった。その後はふっと意識を失い、昏睡した。
「くそっ」
 またぞろ大きく舌打ちして、舟木は立ち上がった。ベッドまで運び、埋まるほど毛布でくるむ。自分も周りも、病気なんか名前を知っていたら凄いくらいのの健康体だから、こういうときどうすればいいのか分からない。とりあえず濡れタオルでもと、舟木は寝室を後にした。


 座って待っているのももどかしく、リビングでうろうろしていたら、インターフォンが鳴り響いた。開閉ボタンを押して、走るように玄関まで行く。足音に気付いて扉を開けたら、驚いた顔の菅と目が合った。
「ど、も・・・舟木さん。毎度で、」
「ちょっと来てくれ」
「っわ!」
 割と強引に引っ張ったが、菅は抱えたダンボールを落とさなかった。流石は優秀なバイト君だ、と今は思う余裕もない。寝室まで連れて行き、葛井を見せる。
「熱があるんだが、どうしたらいい? こういうとき、何すれば・・・」
「お、落ち着いてください」
 静かに叫んで、菅は舟木を黙らせた。舟木を知るものが見たらなんて恐れ多いことをと焦っただろうが、菅は生まれついての穏やかさで獣のような気迫を受け流した。
「とりあえず出ましょう。病人の前では静かにしてあげましょう」
 眉を上げて笑い、舟木と連れ立って寝室を出た。
「おかゆと冷却シートとかだったんで、そうじゃないかとは思ってたんです」
 そう言いながらダンボールの中身を出していく。一通りの風邪薬とビタミン剤、他にはスポーツドリンクや軽い食べ物を並べた。
「熱が四十度を超すようなら解熱剤を飲ませてください。それ以下なら、できるだけ飲ませないほうがいいです。飲むのが辛そうだったら、口移しでもしてあげてください」
「お、おう」
「汗かいたら拭いてあげてください。絶対に、体を冷やしちゃ駄目ですよ」
 タオルと換えのパジャマを自分のリュックから取り出す。
「早く巳春さんの服も買ってあげてくださいね。これは僕のですが、まだ使ってないんであげます」
「ん、すまん」
 一生懸命覚えようとする舟木の表情に笑い、菅はあといくつか指示を出し、立ち上がった。
「あと最後に一番大事なことを」
 人差し指を立てて、くすりと笑う。
「一人にしちゃ駄目ですよ。こういうとき、一人にされると心細いんで」
 その言葉に、舟木は心配そうに寝室のほうを見た。それを横目で見ながら菅は出したものをダンボールに詰め直した。スポーツドリンクを渡して、控え目に微笑む。
「大丈夫ですよ。人の思いやりが、一番の薬なんですから」
 それじゃあ帰りますと言う菅に礼をして、少し多めに代金を支払った。しかし菅はファックスに書かれた分だけを受け取り、玄関に向かった。
「あ、ちょっと待ってくれ。最後にひとつ頼みがあるんだが」
 なんですかと振り向いた菅に、舟木は言いにくそうにしてから口を開いた。


「舟木、さん」
 ぬるくなったタオルを変えてやろうとしたら、小さく呻きながら葛井は目を開けた。少し驚いたが、すぐに隠して険しい顔をした。
「なんだ。何か飲むか?」
「ごめんなさい・・・俺、」
 何か言おうとした後、また目を閉じた。うわ言かと嘆息して、立ち上がる。と、リビングに置いた携帯が突然鳴り出した。相手を予想して、げんなりする。無視しようかとも思ったが、無理なのは百も承知していた。
「・・・はい」
『よう、虎』
「その呼び方はやめてくれませんか?」
 ぼりぼりと頭を掻き、声を顰めて洗面所へ向かう。タオルを湿らせて、横に置いた。
『今日、分かってんだろ? 遅れるなよ』
「あの、それなんですが・・・」
『来るよな。来ないなら、あの金は俺のポケットマネーになるからな』
「ですから・・・」
『ま、来ないほうが俺には得ってことだ。じゃあな』
 笑ってはいたが、電話の向こう側にある表情は違うものだろう。暗鬱とした気分で、タオルを絞った。


 何度か口移しで水分を与えてやり、呼吸が整ってきたのを見て胸を撫で下ろす。
 そろそろ汗でも拭いてやるかと毛布を剥いだところで、葛井がゆっくりと目を開けた。
「・・・あれ?」
「起きたか。気分はどうだ?」
「肩が、痛い。あと、足も」
「熱が出てるからな。脱がすぞ」
 舟木の言葉に大人しく頷いて、葛井は目を閉じた。寝た訳ではないようで、舟木がやりやすいように腰を浮かせたりする。
 軽く絞ったタオルで拭かれて、くすくすと笑った。
「・・・気持ちいい」
「そうか」
 どう考えても熱が出たのは舟木の所為なのに、葛井がそれを咎めることはなかった。それどころか感謝しているようで、何度も顔色を窺ってはふにゃりと顔を崩す。
 言葉はないが、なんとも悪くない心地だ。舟木がそう思っているとき、無粋な電子音が沈黙を引き裂いた。
「・・・電話」
「いいさ、後で」
 本当はよくない。約束の時間はとうに過ぎていた。
 全身を隈なく拭いてやり、菅に貰ったパジャマを着せて毛布をかける。眠るまで撫でてやり、うとうとしかけたところで軽くキスをして、寝室を出ようとした。その裾が、つんと引かれる。
「どこか、行くの?」
 その表情にどきりとし、頭をわしわしと撫でた。熱で少し赤い瞳が、不安そうに揺れる。
「隣りに行くだけだ。すぐ戻る」
 熱が下がれば、もうこんな表情も見せなくなるだろう。少し寂しいと感じながら、その手を毛布の下に戻してやる。葛井は頷いて、目を閉じた。
 リビングに出たところで再び携帯が鳴る。早足で寝室から離れ、通話ボタンを押す。がなり声が、耳に飛び込んだ。
『てめぇ虎! どういうつもりだ!』
「どうもこうも、今日は行けないと・・・」
『今日の話が何か、知らない訳じゃねえだろうが!』
 けたたましく言われ、思わず携帯を耳から離した。漏れてまで聞こえる声が消えたときを狙って、会話に応える。
「分かってますよ。あのガキのことでしょう?」
『そうだ。てめぇが勝手に肩代わりして、勝手に逃がしたガキのことだよ』
「肩代わりって・・・奴にゃあ返すあてがあったと、」
『銀行の記録見りゃ一発なんだよ、アホ』
 そんなことは知っている。流石に今回は額が額だったし、バレないほうがおかしかったのだ。
『大体あいつの身辺は徹底的に洗ってんだ。天涯孤独だよ、ありゃあ』
 そうなのかと内心で思い、本当に可哀そうな奴だと微笑んだ。道理でここに来てから誰とも連絡を取ろうとはしないわけか。
 気付かれないように笑って、意識を電話に戻した。
「とにかく金が戻ればいいんでしょうが。非合法なことで稼ぐより、ずっと確実で」
『あいつには買い手が付いてたんだよ』
 言葉を遮るセリフに、目が点になった。連れてこいと言われただけで、そんなことは聞いていない。
 舟木の沈黙をなんと理解したのかは知らないが、相手は続ける。ある道楽家が金に糸目は付けないから人を売ってくれと言っていたこと。今の時代人買いは難しく、漸く見つけたのが葛井だったと言うわけだ。身内もいなければ、社会的繋がりもない。好条件な人材であったのにと、男は舌打ちした。
「そんな話、」
『言ってないぜ? お前は案外情に厚いからな。今までも何人かの借金代わりに払ってたろ』
 例えば、と知っている名前を挙げられ、言葉に詰まる。全員、ひと月かふた月分の返済を肩代わりしてやっていた。
「だが、そいつらからはちゃんと後で・・・」
『今回はどうなんだ? お前に一体なんのメリットがあるというんだ?』
「それは・・・」
『とにかくあの金はお前の口座に戻す。ガキの方は目下捜索中だ。お前も捜せ』
 まさか逃亡にまで手を貸してねぇよな、と笑われ曖昧に否定した。手を貸すどころか、かくまっている。絶対外に漏れないような場所で、本人にはそうと悟られないように。
『まあ今日は見逃してやるが、明日店に行く前に一度顔を出せ。・・・女でもいんのか?』
 下卑た問いに、苦笑する。
「そんなとこです。野暮なことは聞かないでください」
 仕方ねぇなと笑って、通話は切れた。リビングに戻ってソファに携帯を投げ、やれやれと肩を竦める。
 家に連れてきたのは流れ上のことであったが、あとで正解だったと知りほっとした。
 あの翌日、なんとなく気になって見に行った葛井のアパートには若い衆が張り込んでいて、赴いた本部では利子がどうこう言われもう一度連れて来いと叱責された。
 とにかくマンションから出さないようにして、今日漸く理解できた。ますます出せなくなるな、と舟木は額に手を当てた。
「全く。俺らしくもない」
 一回り以上離れたガキを守るため、上の命に背くなんて。自嘲気味に、鼻から空気を吐いた。
「メリット、ね」
 焦げた料理や生意気な態度を思い出し、顔が歪んだ。料理以外は割とこなせたが、時々大雑把なこともある。
 いいとこねぇなと言いかけたとき、インターフォンが鳴る。それが菅であると確認し、舟木は迎え入れた。
「二回も悪いな」
「いいえ。それよりこれ。最後だったんで選べなかったんですけど」
 頼んでいたものを受け取り、舟木は眉を上げた。


 寝室に戻ると、葛井は半覚醒状態であったらしく、もそりと動いた。ベッドに腰掛け、顔色を窺う。
「何か喰うか? 果物とヨーグルトなら用意できる」
「・・・病人には優しいね」
「俺はいつでも優しいさ」
 売り言葉に買い言葉のセリフだったが、舟木は葛井の様子を見て溜め息を吐いた。
「悪かったよ、もうしない」
「セックスを? それとも暴力? ・・・水、かけたこと?」
 のろのろした質問に、視線を外してから答えた。
「最後のだけ」
「・・・なんだよ、それ」
 弱々しい笑いだったが、葛井はそれでいいと思っているようだった。舟木も笑い、さっき菅からもらった箱を枕元に置く。
「分かるか?」
 首を傾げて。葛井は箱に顔を近付けた。ダンボール製の箱はかたりと動き、驚いてあとずさる。暫く遠目で観察し、ぱっと顔を綻ばせた。
「もしかして、猫?」
「少し前から里親募集してる奴がいてな。お前、欲しかったんだろ?」
「うん、うん。でも、どうして・・・?」
 出してやった子猫を寝たまま手で触れ、顔をふにゃりと崩す。
「菅くんに行ってもらった。俺の人相じゃ飼い主に不信がられる」
「じゃなくて、」
「どうだっていいだろ」
 葛井の前から子猫を抱き上げて、箱に戻した。それを足元に置き、額に手を当てる。
「こういうときは心細くなるんだろ? こいつに、俺の代わりをしてもらおうと思ってな」
「・・・可愛すぎだよ」
 皮肉ったが、葛井は嬉しそうに頬を緩めた。
「でも。ありがとう」
 その笑顔を見て、舟木も笑い返した。この表情が、得たメリットだ。そういうことにして、箱を持ち上げた。
「もう一眠りしな。俺はソファで寝るから」
 その言葉に、葛井の表情は一変した。上目づかいで舟木を見やり、泣きそうな顔をする。
「一緒に、いてよ」
「お前なあ・・・」
「風邪じゃないんだし。猫とは、寝られないじゃん。もうひとつくらい、優しさのおまけしてよ」
「俺はおまけか」
 言って、さっき聞いたことを思い出す。
 天涯孤独の身だという葛井。こういうとき一人の寂しさを、何回味わったのか。
「治ったら覚悟しておけよ」
「ん、頑張る」
 治ったらこんな甘え方はもうしてこないのだろうけれど。
 猫をペットシートの敷かれた柵の中に入れ、ベッドに潜り込む。すす、と葛井が寄ってきて、頭を胸にぺたりと付けた。恥ずかしそうに笑い、目を閉じる。
 その細い体を軽く抱き締めて、毛布を掛け直した。少し湿っぽいような気もしたが、取るに足らないことかと苦笑する。
 あと何日誤魔化せるだろうか。
 一抹の不安を抱きながら、舟木もゆっくり眠りに落ちた。





続。