1.

 まるで汚い猫のようじゃないかと、男が笑った。
 その足の下でゆるゆると肺を潰されながら、じゃあお前は犬だなと、青年が血痰交じりに毒づく。上の連中に尻尾を振り、自分を追いかける姿は、まるで犬のようであったと。
 いや、虎だよ。
 気分を害したのか、男はその頬の笑いを凶悪なものにし、その靴底で強く青年の腹を踏みつけた。ごふりと嫌な音がして、青年は見上げた空よりも深い闇を見た。


 長い悪夢からの目覚めのような最悪な気分で飛び起きたとき、葛井巳春は自分の手が縛られて動かせないことに気が付いた。口もテープで塞がれている。暗かったが、そこが車内であることだけは理解できた。標準サイズの車の助手席で口と手を封じられ腰掛けている。記憶が曖昧で、状況が整理できない。ただ、腹が重く痛んだ。
 呆然とする葛井の顔の横でガラスを叩く音がして、心臓が飛び出るのではないかというぐらい驚いた。見上げた闇の中に赤い光がちらと見え、そこから煙草の紫煙がふわりと揺らいだ。
 煙草を吸う男の顔に目がいったとき、堰が切れたように全てのことが思い出された。頭を殴られたように、思考が決定する。逃げなくては。
 暴れ出した葛井を見て、男は肩を竦めて煙草を携帯灰皿に捨てると、大股で車を周り運転席側に乗り込んだ。
 手を結んでいるのはどうやら自分のベルトで、これなら出た後にテープを剥がして口で外せるかもしれない。そう思ってドアノブに視線を向けたとき。
「ふぐぅ?!」
 バクンと座席が後ろに倒れ、葛井は背中を打ちつけた。一瞬目の前が暗くなった気がして、それでも逃げようと半身を上げたところで、
「諦めろって」
額を掴まれ、片手でシートに縫い付けられた。振りほどこうにも手はこんな状態だし、いくら頭を動かしても取れなかった。
「ん、んぐ・・・っ」
「葛井巳春、22才。間違いねえな?」
 威嚇するような目に、渋々頷く。ここで逆らっても無駄だと、頭のどこかが言っていた。
 葛井は定職に就いていない。それどころかアルバイトも短期のものが多く、それ以外は競馬やパチンコで日銭を稼ぐような生活だった。
 しかしそんな生活が上手くいくことなど勿論なく、次こそは次こそはと夢を追う余り借金ばかりが風船のように膨らんでいった。そして一ヶ月前、とうとう督促状が届いた。
 借りては踏み倒すことを続けていた葛井に貸してくれる場所は減る一方で、ついには非合法な利子をつけるような場所にまで手を出した。
 人生の暗い部分など知ることもなく生きてきた葛井には事の重大さが全く分かっておらず、のらりくらりと逃げ続けている間に一ヶ月が過ぎた。このまま田舎にでも逃げ隠れて暮らそうかなどと考えていた矢先に、この男が現れた。
 無駄に逃げ足が速かったのが災いしたか。あろうことか金融側はその道の人に取り立てを頼んでしまったらしい。一目でそれと気付き、これはまずいことになったと葛井は身が凍えた。
 そのとき葛井が取った行動は至極単純なもので、男が手を伸ばすのに気付いた瞬間安アパートの二階から飛び降りた。こんなこともあろうかとアパートの敷地内に隠しておいた靴を履き、後ろも見ずに駆け出した。あれに捕まったら最後だと、いくら葛井でも分かっている。
 必死で逃げて、港の倉庫街まで着いたとき、もう大丈夫かしらと振り向いたところを後ろから殴られた。驚いている葛井が理解するよりも先に二度三度蹴られ、漸く犯人を知ったとき寒気がした。
「逃げるのが上手いようだけど、鬼ごっこで俺に敵う素人がいるかよ。馬鹿が」
 そうして靴の裏で散々嬲られたあと、止めを刺されて今に至る。男の笑顔に、絶望と同じものを見た。
「お前はやり過ぎたんだよ。もう少し前に気付いてやめておきゃあよかったのによ」
 三十代半ばといったところか。若いときはさぞもてたに違いない。今もその野生的な魅力は色濃く残っており、男として色々負けた心地になる。その顔が皮肉気に歪み、葛井の顔をためつすがめつした。
「この額じゃなけりゃ外見売ればなんとか返せただろうになあ」
 その時、遠くでサイレンの音がした。そのことで一瞬男の気が外に移り、葛井は弾けるように躯を起こしロックを外した。半分転がりながら車外に出て、口に貼られたテープを剥がす。
 縛られたままの手で走るのは厳しかったが、そんなことを考えている余裕はない。右も左も分からなくなるほど走り、隠れる場所を見つけて一息吐いた。殴られた腹が、酷使された肺が痛んだ。
「・・・っは、くは、ちょ・・・マジ洒落になんねえよ。なんなんだよ、あいつ」
 目を見ただけで相手が猛獣だと分かる。普通にのらりくらりと生きてきた自分に敵う相手ではないのだと。
 膝を抱えて丸くなる。今更ながら、自分のしてきた行為と考えが浅はかであったと後悔した。
「どうしよう・・・」
 どうしようもないことは分かっていたが、そう呟くしかない。
 じゃり、と足音がして、肩が跳ね上がった。更に体を縮め、呼吸すらも止める。
「向こうへ・・・行ってくれ・・・」
 小刻みに震えてくる。泣きたい気分で目を閉じていると、やがて足音は遠くに消えていった。強張った筋肉から力を抜き、細く息を吐き出す。
「安心するにゃあ、まだ早くねえか?」
「っひ!」
 横から聞こえた声に驚いて見ると、大きな影が向かってくるところだった。それが手のひらだと知ったのは掴まれてからで、視界を覆われた瞬間近くの壁に押し付けられた。響くほどの痛みに嗚咽が漏れ、涙が滲む。
「ぐぅ・・・いってぇ・・・」
「てめぇが逃げるからだろ。・・・ったく、お前の体はもう商品なんだ。殴らせるな」
「商品?」
 ずるずると引きずられながらそんなことを言われ、葛井は思わず訊き返した。
 男はすぐには答えず、今度はベルトの残りで座席にくくられた。バンザイをした状態で身動きが取れなくなり、扉を閉める男を睨みつける。男は飄々とした顔でそれを流し、葛井の服を捲りその腹に浮かぶ痣を強く押した。葛井が小さく呻き、顔を歪めた。
「ここな、この下。お前の内臓は裏のルートで高く売られることになってんだよ」
「な・・・っ」
 葛井の目が見開かれる。
「だから言ったろ? もう少し安けりゃ、外見で片が付いたって。もう手遅れなんだよ」
 内容の割に淡々と言う様が恐ろしい。足元から這い寄る絶望が、葛井の全身を支配した。
「・・・い、いやだ! なんで、俺がそんな目に・・・!」
「自業自得だって。自分の身の丈も知らないからこうなったんだ」
 男が扉を閉めて運転席に回る。煙草に火を点けようとして、大人しい葛井の様子に気が付いた。
「観念したか?」
「・・・たくない」
「あ?」
「死にたくない・・・見逃して、くれよ」
 顔面を蒼白にして、男を見る。しかしその表情に変化を見られず、軽く鼻で笑われただけだった。
「見逃せだあ? 甘いこと言ってんなよ。元々はてめぇが」
「なんでもするから!」
 葛井の顔が必死の形相になる。座席がぎしりと鳴り、男は溜め息を吐いた。
「あのなぁ・・・」
 面倒臭そうに頭を掻く男は無視することに決めたのか、煙草を咥えて車外へ出た。バタンと無情に閉められた空間の中で、葛井の焦燥が募っていく。
 気楽に捉え過ぎていた。借金で殺されるなんて、ドラマや漫画の中だけの話だと思っていたのに。
 目頭が熱くなり、鼻がツンとした。堪えたが、もう止めようがない。ぽろぽろと涙を零しながら、葛井は情けない気持ちで一杯になった。
「・・・なんだお前。泣いてんのか」
「うるせぇ」
 煙草の匂いを纏わせて戻ってきた男に笑われ、葛井は顔を背けた。
 仕方ないのか。
 諦めかけた葛井の上に、男の影が乗った。びくりとして顔を向けると、まじまじと見られ落ち着かなくなる。
「・・・な、んだよ。人の泣き顔見て、楽しいか」
 皮肉ったつもりだったのに、男はにやりと笑って首肯した。
「ああ、楽しいな。・・・少し考えが変わった」
「は? ・・・あぁ?」
 顎を掴まれ、突然唇を塞がれた。ぬるりとしたものに口を開かされる感触にぞくりとして、思わず歯を立てる。途端に血の味が口腔にぱっと広がり、男の顔が離れた。つまらなそうに見下ろしてから、顔をはたかれた。目をぱちくりしている間に髪を引かれ、ガクガクと揺すられる。
「あ、う・・・痛、ぁ」
「俺も痛ぇよ、クソが。キスのときに歯立てるんのがお前の礼儀か? あ?」
 そのまま座席に叩き付けるように離され、さっきとは反対の顔を殴られた。痛みと恐怖に、涙が滲む。
「はは! いい顔だな。そそるよ、お前」
「・・・変態!」
「おかげで女とも続かなくてな。金で買った奴にはこんなことできないし」
 言いながら腹の痣をぐりぐりと指で潰し、歪む顔を間近で眺め、再び顔を寄せた。
「今度は歯を立てんなよ」
 釘を刺され、葛井は渋々口を開けた。それでも男の唇というのが嫌で舌で抵抗するも、逆に絡めとられ蹂躙されてしまう。ぐちゅぐちゅといいように弄られ、葛井の息はすぐに上がっていく。
「あ、ふ・・・」
 溜まる唾液が口端から垂れ、漸く解放されたというのに全身に力が入らなかった。悔しさに睨み付けると、男は喉の奥で笑う。
「そういう顔もいいな。お前、女慣れしてないだろ」
「・・・っば、ばかにするな!」
 図星だった。
 中学高校と女子には殆ど相手にされなかったし、その後は出会いすらなかった。一応経験がない訳ではなかったが、大抵の女が外見に騙されたなどと言って怒っていた。
 無言でいたことが肯定に変わったのか、男はケラケラと笑い出した。
「前言撤回、お前にホスト業は無理だよ。俺の下で喘いでるくらいが適当だな」
「なんでそんなことを・・・っ」
「嫌か? 内臓を売るのと、どっちが嫌なんだ?」
 その言葉に、葛井は口を閉じた。男が満足そうに笑い、胸を撫で回す。
「精々可愛く喘げよ。気に入ったら、肩代わりしてやってもいい」
「え・・・」
「つまらなかったら、即病院に連れて行く」
 ジ、とファスナーを下ろされ、下半身を剥き出しにされる。
「流石に縮んでるな。だが今日はなんの準備もしてないんでね」
 くにゃりと手で揉み込み、性急に扱きあげる。人に触られることに慣れていないそこは簡単に熱を持ち、あっと言う間に射精感が訪れた。
「あっ嫌だ! イキたく、な・・・ぁ・・・!」
 ビクンと腰が跳ね、大量の精液を男の手に吐き出した。ぶるりと身を震わせ、潤んだ目で男を睨む。
「早いな」
 くすりと笑われ、頭に血が昇る。蹴り上げてやろうかと思って動かした足からズボンが抜かれ、男が肩を押さえ込む。
「足を開け」
 細めた目で言われ、葛井はゆっくりと開いた。何をされるか分かっているから、筋肉が軋む。
 少し開いたそこにさっき出したものを塗られ、反射的に足を閉じそうになるのを必死で耐えた。
「賢明だな。そのまま力を抜いてろよ」
 おざなりに濡らされたそこに太い指が入り込み、葛井は唇を咬んだ。未知の感覚に、歯が細かく震えた。
「・・・キツいな。もう少し緩められるだろ?」
 ぺちりと太股を叩かれたが、無理だった。その強張った表情に溜め息を吐き、男は中をくじるのに意識を向けた。
 随分と時間をかけて解される内、気持ち悪いとしか思えなかった抽出に内側の肉が反応するのを感じ始めた。男もそれは見逃さなかったようで、一瞬の隙を衝いて指を二本に増やす。その太さに葛井は眉を寄せたが痛がる素振りは見せず、男は口角を上げた。
「大人しいな。気持ちいいのか?」
 ぶんと首を振って否定するが、立ち上がりかけているのは自分でも分かっていた。悔しさに目を閉じると、男は楽しそうに笑った。
 暫く無言で後ろを弄られ、指が三本入る頃になって葛井は己の体の変化を無視できなくなっていた。広げられ、擦られる感じが堪らない。上気した顔ではふはふと呼吸していると、男が指を抜いた。
「もう大丈夫だろ」
 前をくつろげ、男は自分のを二、三度擦りあげてから押し付けた。その熱さと大きさに、葛井の体温が一気に下がった。
「む、無理だって! んなの、入る訳・・・っ」
「充分解してやっただろうが。大体逆らえると・・・」
 舌打ちして見ると、葛井は真っ青な顔で唇を震わせていた。男が溜め息を吐く。
「や、やっぱり嫌だ・・・マジ、恐ぇ」
「・・・今更だ」
「そんな・・・! あ! ぅあ・・・っ」
 めり、と肉を割られるようだった。熱くて太いものに挿されている。痛さに、ボロボロと涙が零れた。
「・・・締め付け過ぎだ。俺が痛い」
「無理、痛い・・・吐く・・・」
 悲愴なくらい泣き出した葛井を見下ろして、男はやれやれと頭を掻いた。
「まだ半分も入ってないんだぞ・・・」
 そう言って葛井の手の拘束を解くと、その腕を引いて首に回し少し腰を浮かせた。優しく抱き締めるようにして、その背中をあやすように叩く。
「ゆっくり息を吐きな。辛かったら首でも咬んでおけ」
 痛みの所為か子供のようになった葛井は縋るように抱き付いて、言われるまま男の硬い皮膚に歯を立てた。それと同時に残りを一気に進められ、葛井は喉の奥で悲鳴を上げた。歯が皮を破るかというくらい強く立てられ、男も眉を顰める。
「・・・よし、入った。痛いか? よく我慢したな」
 幼い子にされるように頭を撫でられ、葛井はしゃくり上げた。滲んだ脂汗が気持ち悪かったが、それ以上に尻が燃えるようだ。
「動くぞ」
「ん、ぅ・・・っ」
 男が動くたび引き攣るような痛みが走り、葛井はむせび泣いた。前もすっかり小さくなっていて、哀れに思った男が優しく摘む。ひくりと喉を鳴らして、葛井は身を硬くした。
「っあ」
 揺するのに合わせて前を弄られ、苦痛に違うものが混じり出す。
「やだ、触んな・・・」
「痛いのは嫌なんだろう?」
 動きにくいのか、男は葛井をシートに倒して膝の裏を持ち上げた。ぐっと深くまで挿入され、葛井は首に回した手に力を入れた。
「なんだ、お前。可愛いな」
「何、言っ・・・あ、っやめ、擦ん・・・」
 ぬちぬちと先走りを伸ばされ、切なさに熱い吐息が漏れた。
「声、殺すなよ。快感には素直な方が俺は好みだな」
「ん、うるせ・・・ぇ、あ、はっ・・・ひんっ」
 亀頭の先を指で潰されるように扱かれ、目の前が真っ白になる。ガクガクと頭が揺れ、限界が近いことに葛井は焦った。
「あっや、嘘・・・やだや・・・ぁ、も、だめぇ・・・!」
 身をぎゅっと縮めて、葛井は男の手の中で果てた。男も少し遅れて射精し、そのどろりと広がる感触に犯された現実が突き刺さる。
「う、く・・・」
 ぽろぽろと泣き出す葛井の腹や肛門をタオルで拭いてやり、男が離れる。
「泣くんじゃねぇよ。せっかく命拾いしたってのに」
「・・・え?」
 葛井の問いに男は答えず、男は携帯でどこかに連絡を入れた。内容は、葛井に返済のあてがあるらしいというもので。
 通話を切ると、何がなんだか分からないという顔の葛井を見て、男が笑った。
「これでお前の身柄はおれのものになった訳だ。きっちり返しやがれ」
「え、あんた」
「そういや自己紹介がまだだったか。舟木大河。今日からてめぇの飼い主だ」
 喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか。よく分からなくて、葛井は変な顔で笑うしかなかった。




続。