9. 酷い喉の渇きに、深い水底に沈んでいたような眠りから浮上した。恐ろしく頭が痛い。 隣にいる筈の兄に水をもらおうと手を掛けたら、まだ早い時間だろうに手は空を掻いた。不思議に思って目を向けると、今度は自分の家のものではないシーツの色に驚いた。クエスチョンマークがいくつも頭に浮かぶ。 よく見ると、いや、よく見なくても、ここは兄と住む家の一室ではなかった。あの家も広いが、この家はもっと広い。落ち着いた色合いの調度品に囲まれた鎮座するベッドの上で、春樹は兎に角戸惑っていた。 「・・・どこだ、ここ」 昨夜の居酒屋からこっち、記憶がない。しかし自分が静かに寝ていたということは、知人の家に間違いないだろう。 それに、と春樹は自分にかかる毛布を引き寄せた。 微かに香るこの匂いは、恐らく奴のものだ。深く吸うと、ほこりと胸が温まる。 その予感を頼りに春樹は痛む頭を押さえて部屋を出て、廊下を辿りリビングらしき部屋の扉を開けた。 カーテンの隙間から昇りかけの朝日が差し込む部屋。その部屋のソファで、御門仁成が寝ていた。予想していた姿に安堵する。なんでここにいるのかは分からないが、また迷惑をかけたことに違いない。のろのろと近付いて、ソファの傍にへたり込んだ。 「・・・奇麗な顔」 伏した睫毛は長くて、撫でたらきっと気持ちいいだろうと思う。鼻梁も通っていて、唇の形すら美しい。こうも顔の整った男と度々キスをしていたのかと思うと、急に恥ずかしくなってきた。思い出しただけで、頬が熱く火照る。 勝手に甦る唇の感触を消そうと首を振ったら、髪がぱさぱさと揺れ、その際立った微かな音に御門が身じろいだ。 起こしてしまったと恐縮する春樹の見ている前で長い睫毛が震え、そしてゆっくりと瞼が開かれる。その濡れた黒い瞳が春樹を捉え、ふわりと笑った。 「春樹・・・?」 寝起きで少し嗄れた声で初めて名前を呼ばれ、春樹の心臓は跳ね上がった。 「早いな・・・まだ寝てて、いいんだぞ」 いつもより低い、いつもと違う口調に、慈しむような眼差し。そのどれもにドキドキして、上手く反応できない。 そんな春樹の様子に気付かないまま、御門は手を伸ばして頭に乗せてきた。 「気持ち悪いとかないか? 何か飲みたければ、冷蔵庫にミネラルウォーターも・・・」 「俺、帰る・・・!」 はじけるように立ち上がり、服を調えながらドタバタと部屋を出て行った。その騒ぎと玄関の開閉する音で漸く覚醒した御門が、目を丸くして首を傾げる。 「・・・きーちゃん?」 暫くぼんやりと頭を掻いて、御門は自分のしでかした失敗に気付きまずいことになったという風に口元を押さえた。 部屋を飛び出して数十メートルを適当に走り、その後新聞配達の人に駅の場所を聞きそこに向かった。まだ始発は出ておらず、あと数分はホームで待つ必要があった。 一人でベンチに座っていると、どうしてもさっきの御門が思い出されては赤面した。あんな声、知らない。 少しすると電車がやってきて、発射時間まで暫く待つようにとアナウンスが流れた。とりあえず入っていようと腰を上げたら、ホームに御門が現れた。 「き、きーちゃん、」 ホームから離れかけた足を戻し、御門と向き合う。走ってきたのか、息が切れていた。 「ごめんなさい。驚かせた・・・わよね?」 「あれ、素なの?」 感じていた疑問を口にすると、少しだけ躊躇いを見せたものの首肯した。 「じゃあ、なんでいつもはあんな・・・あ、いい。やっぱ言わなくていい」 「きーちゃ、」 手を晒してそう否定する春樹が目を合わせないのを見て、御門が焦ったように全身する。それを、春樹は一歩退くことで留めた。 「今聞いても絶対理解できないから、いい。混乱、してる」 御門の豹変もそうだが、それよりも今重大なのは顔も見られない気恥ずかしさだ。さっきから心臓が煩くて、息も苦しかった。 御門は何か言いたそうだったが、ひとまずといった感じに頷いてくれた。同時に、発車のメロディが流れる。 「・・・じゃ、また大学でね」 「・・・ん」 次会うまでにこのドキドキは治まってくれるのだろうか。結局まともに顔を見ることもできないまま、春樹を乗せた電車はホームを滑り出た。 少しの頭痛を感じたまま大学に行くと、珍しく二日酔いに唸る大野がいた。話しかけるなというオーラが目に見えるようで、友人の誰もが腫れ物を触るように扱っているのがおかしかった。 静かに前の席に座ると、ぴくりと大野が顔を上げた。そして春樹だと気付くと、眉間をぐりぐりと揉みながら半身をもたげた。 「昨日は・・・ごめんな? お前があんなに弱いなんてさ」 「いや、俺も知らなかったし。大野は? どうしたの?」 青を通り越して白い顔を気遣って言ったのに、大野は目を逸らし憎々しげに舌打ちした。そして何事かを口の中で呟き、なんでもないと返す。 「ちょっと、飲みすぎただけだよ」 腹でも下したのか、動くのも辛いようだ。ちょっとどころではないような気もしたが、春樹は一応納得する素振りを見せた。あの後、残った伊部と何かあったのかもしれない。伊部も、酒の類には強そうだ。 「それより、お前の話だよ」 「何?」 突然矛先を変えられて、春樹は前に戻しかけた体をまた後ろに向けた。 「昨日の続き。お前、もし御門さんが、」 大野の台詞は、春樹の手に塞がれて中途半端なものになった。 「なほり?」 「今は、その名前、出さないで・・・っ」 珍しく真っ赤になって頼むから、大野は目をぱちくりさせて頷いた。 その返事にほっとして手を離した春樹をしげしげと見て、呟く。 「可愛いのな、お前って」 これは御門さんも放っておかないか、と大野は嘯く。 春樹の方は、まだ自分の心の変化に頭が付いていかないようで、赤い顔をぱたぱたと押さえては首を傾げていた。 その日一日中、春樹はビクビクしながら過ごしていた。 御門のことは極力考えたくないのに、なまじ有名人だから名前を聞かない方が難しい。兄と二人で食堂にいるときも落ち着かなかったし、わざわざゼミ室を避けてまで寝ようとしたのに、御門の部屋で目覚めたことを思い出して赤面する。 兄でさえ訝しむほど、春樹は挙動不審になっていた。 色々と自己嫌悪に陥りながら、春樹は一人で電車に乗り込んだ。ゼミ室には寄りにくかったので、早く帰りたかったのだ。 ちょうどサラリーマンの帰宅時間にぶつかったらしく、ラッシュほどではなかったが少しでも動けば肩がぶつかるような混み具合。これぐらいならまだ我慢できるかと思っていたが、残り半分もないというところで乗客はどわっと増えた。掴んでいた吊り革から手が離れ、壁に追いやられる。手を潰すような体勢で苦しかったが、どうやっても動けなかった。 暫く細い息を吐いて我慢していたが、尻をまさぐる手に気付きぎくりとした。気のせいかとも思ったが、その手は明らかに尻たぶを掴み揉みしだいてくる。肉で隠れた部分がそうされるたび勝手に開閉されるようで気持ち悪い。無防備なそこに空気が触れ、妙な感触に息を飲んだ。 「君・・・」 突然耳元にかけられた声に、目を見開いた。 「この路線じゃ有名なプッシーちゃんだよ。いつもいるボディガードは、どうした?」 ボディガード? そんなのいない。身じろぐと、ぴっちりと躯を押し付けられ更に動けなくなった。これでは、誰かに気付いてもらうのも難しいだろう。 「やめ・・・」 「身持ち固そうなのに敏感な子がいるって聞いて、ずっと機会を窺ってたのさ。君も楽しめよ」 男の膝に足を割られ、開いた先に指でも手でもない硬いものを押し当てられた。その正体が分かってしまい、吐き気がする。その状態のまま腰を動かされたときには、悔しさで涙が滲んできた。 「う、やだ・・・なんで、俺ばっか・・・」 「さあね。でも君はかなりそそる躯をしているよ。みんな、匂いにでもつられるように寄って来るんだろう」 太股の辺りを撫でられて、全身が硬く緊張した。嫌だ。もう、嫌だ。 プツン、と前のボタンが外され、ファスナーの下ろされる気配もする。無力な自分が情けなくて泣き出したら、背後でガツンという音がした。それとほぼ同時に電車が止まり、手を引かれ車両を飛び出す。 「あんた、伊部・・・」 「いいから来い!」 ぐいっと引かれ、春樹はホームを走らされた。並んでいた男女に眉を顰められたが、謝る余裕なんてある訳がない。出てすぐのトイレの個室に押し込まれ、電車が出るのを待ってから伊部に叩かれた。 「このだぁほ! 何大人しくやられてんだよ!」 「あ、あんたに関係な・・・」 「それが恩人に対する言葉か。いいから前直せ」 言われ、慌ててファスナーを上げる。ボタンもつけようとしたが、突然指先が震えだし上手くいかない。 「あ、れ・・・」 寒くもないのに歯までかちかちと音を立て始め、伊部も驚いたようだ。春樹の肩に手を置き、その顔を覗き込む。 「平気か? 真っ青だぞ・・・」 「う、うるさ・・・」 気丈に言い返すが、体が震えるのは止められない。さっき感じた恐怖が、終わったことでまた襲ってきたようだ。 「も、大丈夫ですから・・・どっか行ってくださいよ」 「強がってる場合かよ。ここ、俺の最寄り駅なんだ。寄ってけ」 「いい、いいですから・・・」 「お姫さん、あんた鏡見てみろよ。こんな状態で返せる訳ねえだろ。あとで御門でも兄貴でも呼んでやる」 肩を叩かれて顔を上げると、何か困ったような笑いを浮かべている。心配はしてくれているようなので、思わず頷いた。 「じゃ、行くか。先出るぞ」 春樹を個室に残して外に出た伊部は、がしがしと頭を掻いた。 続。 |