8.

 御門のところへ行くのが再び習慣になってきた頃、春樹は大野たちと飲みに行くことになった。
 夏威に止められているので酒を飲むつもりはないが、友達とそういうところに行くのは好きだ。大学から電車で二、三駅離れた場所にある居酒屋で、食べたり飲んだりしながら他愛もないことで騒ぐ。酔えないけど、この雰囲気を楽しみたいから時々は誘いに乗るようにしている。何より、春樹は自分を誘ってくれることが嬉しかった。
「なんでかは分からないけど、高校までの友達は誰も俺のこと誘ってくれなかったんだよ。やっぱ飲めない奴は駄目なのかな?」
 話のついでにそう言ったら、ほろ酔いの連中にそれは分からないなあと笑われた。分かってはいたが話にならない。メンバーの中で、唯一酔っていないのは大野くらいか。その大野は、ほぼ泥酔といった感じの一人に肩を抱かれゆらゆらしている。
「でさあ、こいつってばまた男にナンパされてんだぜ? 俺笑っちゃったなー」
「お前が遅刻なんかして待たせるからだろ! お前とは二度と待ち合わせしないからな」
 そんなあと騒ぐ友人を押しのけて、大野は本日何杯目になるか分からないグラスを一息で空にした。
 大野のピッチは飲まない春樹から見ても早い。かぱかぱ飲む割に酔わないのは羨ましくて、烏龍茶を飲みながら春樹はちらちらとその様子を見ていた。
「ん? 名取、どうかした?」
 視線に気付いた大野が机を挟んでやってきて、春樹の横に座った。そして店員に水と酒を頼み、つまみの焼き鳥を手に取る。
「いや、俺・・・酒って飲んだことないからさ。ちょっと気になるというか」
「飲んだことないの? さっきの話、お前の酒癖が悪いのかと思ってたけど」
 うう、と口籠る。確かに、飲んだことはない。それなのに夏威は決め付けているのだ。お前は家系的に酒癖が悪いから飲むんじゃない、と。
「飲んでみるか?」
 今しがた来たばかりのグラスを渡され、春樹はその氷がカランと鳴るのを眺めた。
 ライチをベースにしたというその酒は殆ど無色で、一見するだけではソーダ水にしか見えない。
 一口くらいなら平気だろうか。
 飲んでみたい好奇心が兄の忠告を揺るがしたが、春樹は頭を一振りしてその興味を無理やり殺いだ。やはり、兄の命令じみた忠告には逆らえない。
 グラスを置くと、大野に笑われた。
「名取は兄貴の言うことが絶対なのな。御門さんが妬くんじゃねえ?」
「なんでそこであの人が出てくるんだ?」
 再び烏龍茶に手を伸ばしながら首を傾げると、大野はまた笑った。
「なんでも何も、お前と御門さんって、つまり、恋人同士・・・とか言う・・・んだろ?」
 口にものをふくむ前でよかったと思いつつ、春樹は伸ばした手を戻し苦笑する。
「夏兄もそうだけど、なんで俺とあの人を付き合わせたがるかなあ? 俺たち、そういうんじゃないし」
「違うのか? でも、お前らって傍から見れば付き合ってるって言うんだと思うけど」
 ずいと寄った眼鏡の奥の瞳にきょろりと見られたが、春樹は肩を竦め嘆息するだけで。
「ないない。それに付き合ってとか言われてないのに、どうやって付き合うのさ」
「・・・名取、それって」
 大野が何かを言いかけた口を噤み、不機嫌そうな顔になった。何事かと振り向いた先に顔があって、驚く。
「伊部、さん」
「よーっすお姫さん。俺も混ぜてっ」
 うんともいやとも言わないでいるうちに伊部は隣に座り、勝手に何やら注文をし始めた。面食らって大野を見るが、こちらはもう諦め気味のようで。付き合ってやってよ、と耳打ちされ、まあいいかと頷いた。
「お姫さんってばなかなか来てくれないからさ。翼に訊いて、今日のこと教えてもらっちゃったんだ」
「本気で来るとは思ってませんでしたけどね」
 にへら、と笑う伊部の参入を、他の友人たちはなんとも思っていないようだった。というか、ピッチの早い大野に付き合わされている所為で回りが速いらしく、みんな既に出来上がっている。
「伊部さんは・・・四年なんですか?」
「ん? そう、御門オージらと同じ学科さ」
 それは初耳だった。その思いが顔に出たのか、伊部が嘲るように笑う。
「何、お姫さん。やっぱり気になる? ん?」
「そりゃ、知人ですから」
「知人・・・ねえ。ただの知人に、あのオージが執着するとは思えないけどなあ」
 含みのある言い方に、春樹は少し苛っとした。王子という呼称も、なんとなく悪口だと分かる。なぜだか分からないが、御門を悪く言われるのはいい気分じゃない。
「・・・よく知りもしないことを、尤もらしく言わないでください」
「あ、もしかして怒った? でもさ、俺は三年ちょいでお姫さんはまだ一ヶ月そこらでしょ? どっちのがよく知ってると思う?」
 外れてはいない指摘に、言葉が詰まる。こういう時に限って大野は違う奴の介抱なんかしていて、助け舟も望めない。
 ぐっとただ睨み付けると、冗談だよと笑われた。
「お姫さんってば単純だねえ。そういうとこ、付け込まれるよ」
 くすくすと笑われ、少し恥ずかしくなった。もう無視したい気持ちで俯き、殆ど空になったグラスを弄んだ。
「ほんとごめんって。ほら、これあげるから」
 そう言って伊部が差し出したグラスには、よく冷えた烏龍茶が入っていて。緊張と怒りで乾いた喉に一気に流し込んだ。
「・・・あれ?」
 急に全身が熱くなり、脳にも空気が行き届かないような錯覚に陥った。
 天井が回る。そう思うや否やぐるりと世界が反転するようになって、春樹はそのまま後ろに倒れた。
「っておい! お姫さん?」
 頭が座敷に付く寸前で支えた伊部が、目を丸くする。騒ぎに、大野も寄ってきた。
「名取? おいあんた、一体何やって・・・」
「何って、飲ませただけだよ。ウーロンハイ」
 掲げられたグラスを見て、大野が大業に溜め息を吐く。
「名取は、酒に弱いんだすよ」
「え、そうなの?」
「どうしましょう・・・」
 家は知らないし、勝手に連れて行く訳にもいかない。起こそうにも、反応はひたすら鈍かった。
 そんな思案をする大野の横で伊部は春樹の携帯を取り出し、何やら操作を始めた。
「・・・どこにかけるんすか?」
「名取助教授だよ。兄貴だろ、確か?」
「はあ・・・」
「本当はオージを呼びたいところなんだけどねえ」
 にやにやと笑いながら、発信音に鼻歌なんかを被せている。
 大野は、少しだけ嫌な胸騒ぎを感じていた。


 結局は伊部の思うとおりになった。
 夏威から連絡を受けた御門は食事を放り投げて家を飛び出し、タクシーでその居酒屋へと乗りつけた。
 今日は友達と飲みに行くというから放課後の時間も諦めたのに、こんな形で会いに行くとは思ってもいなかった。酒に弱いなんて、聞いてない。
「実は俺もそこまで弱いとは思ってなかったんだよ。ただ、ウチは家系的に悪酔いするから止めてただけで・・・」
 そんなことを言いながら電話口の夏威は慌しそうだった。ついている教授の学会が近いとかで、その準備に追われているのだ。
 店に入ると、入り口付近で待っていた大野に中へと通された。
「飲めないって聞いてたからソフトドリンクだけ飲ませてたんですけど、間違えてウーロンハイを・・・」
「・・・伊部」
 話の途中で嫌な光景が目に入り、思わずその名を口にした。眠っている春樹を肩に寄りかからせ、御門を見つけるとわざとらしく笑ってみせる。苛立ちが、炎のように胸を燻る。
「よう、御門。随分早いじゃんか」
「・・・アンタは、この前から随分突っかかってくるじゃない」
「そうか? 俺は、お姫さんと遊びたいだけだぜ?」
 そう言って春樹の頭を引き寄せるのを見て、御門は反射的にそれを引き剥がした。伊部はそうするのが分かっていたようで、簡単に手を離す。
「怒んなよ。あんたらしくもない」
「大野くん、鞄持ってくれる?」
「あ、はい!」
「無視するなよ」
 抱き上げようとした御門の腕を掴み、にやりと笑う。
「そんなにお姫さんが大事か?」
「・・・馬鹿なこと言ってると、無視だけじゃ済まないわよ」
 腕を振り払い、ぐにゃりと眠る春樹を抱え店の外に出て行く。それを見送りながら、伊部は嫌な感じの笑みになる。
「・・・あんた、何がしたいんです?」
 暫くして戻ってきた大野に言われ、伊部はおどけた風に肩を竦めた。
「別に何も。でもあいつ、ちょっと人間っぽくないだろ? そういう奴って、からかいたくなるじゃん」
 けたけたと笑い、春樹が残したウーロンハイを飲み干す。
「さ、飲み直そうぜ。まだまだイケるだろ?」
 周りは殆ど潰れていたが、大野は渋々頷いた。面白いものを見つけた時、伊部は何をしでかすか分からない。かくいう大野もその被害者の一人なのだが、先天性の前向きさで気にしないよう努めている。
 それより今は、伊部が春樹に何をする気なのかだけでも探らなくては。
 乗せられているような気もしたが、挑まない訳にもいかなかった。


「・・・ええ、分かったわ。今日はウチに泊まらせる。・・・うん、うん。大丈夫よ」
 まだ忙しそうな夏威への報告を終え、ベッドで無防備に眠る春樹を見下ろす。
 ゼミ室のソファで寝ている時よりもリラックスしているようで、気持ちよさそうな顔で時々瞼を動かした。
「・・・子供みたいね」
 ベッドの縁に座り、柔らかい髪を梳く。気持ちいいのか、微かに口端が上がった。
 伊部に言われるほど、自分は独占欲をむき出しにしているのだろうか。恐らくは、当たっている。兄の夏威であれ、ましてや伊部なんかが春樹に触れるだけで苛々してしまう。自分でも笑いたくなるほどの独占欲。
 今もこうして眠る春樹のことを、無理やりにでも自分のものにしてしまいたくてうずうずしている。キスは許すくせにその行為を分かっていない様子がいじらしくて堪らない。己の中にこんな凶暴な欲求が渦巻いているなんて、知らなかった。
「う、ん・・・」
「きーちゃん?」
 起きるのかと思ったが、そうではないようだ。開けた首にじわりと汗が浮いており、暑いのかと薄手のシャツを剥いだ。悪いとは思ったがジーパンの前もくつろげ、タオルでも濡らしてこようかと立ち上がった時、くんと服を引かれる感じに動きを止めた。
 振り向けば、焦点の定まらない目が見上げている。
「きー・・・」
「行っちゃ、やだ」
 ドクンと、心臓が跳ねた。
 酔っている所為で幼心化しているのだろうか。少し舌足らずな声が、甘く御門を呼ぶ。
「そばに、いて」
 ぐらぐらした。服を摘んだ手を引き剥がし、ベッドへ縫うように押し付ける。
「きーちゃん、やめて」
「・・・?」
 なんだか分かっていない風な春樹に顔を近づけ、苦しそうに言う。喉が渇いて、張り付きそうだ。暴れるみたいな欲求が、熱のように躯を浮かす。
「キス、するの?」
 子供のような問いに、御門は慌てて体を離した。それを春樹もゆったりと追い、顔を寄せる。
「ん、」
 戸惑う御門の口を己のそれで塞ぎ、ただ合わせたまま目を閉じている。その長い睫毛を見ながら、御門は手を上下させ、色々な欲望に耐えていた。吸われる唇を引き結んでいるのは、ぎりぎりの理性が成したことだ。
「ぷはっ」
 数十秒は重ねてから離し、ペロリと唇を舐めながら顔を引いた。
「気持ちい?」
 首を傾げて問われ、御門は手で口を押さえ真っ赤になった。こんな中学生みたいなキスに赤面するなんて。
 驚愕のまま頷くと、酔いで仄かに赤い顔がくにゃりと笑う。
「俺もー」
 自制心を総動員して、抱き締めかけた手を肩に置いた。
 この子は酔っている。これは、無意識下の行動なんだ。
 呪文のように頭の中で繰り返して、ベッドに背中から倒した。
「さ、寝なさい。明日は早いから」
「うーん。あんたは?」
 目を擦りながら訊かれて、苦笑した。
「シャワー浴びてから、寝るわ」
「一緒に、ね?」
 念を押すようにそう言ってから、春樹は漸く目を閉じた。その呼吸がゆったりと定期的なものになるのを待って、御門はベッドから降りた。
 重々しい溜め息を吐いて、もう一度苦笑いする。
「酒癖が悪いって・・・悪すぎよ、なっちゃん」
 これは本当に飲ませられない。夏威の懸念は、当たっていたのだ。
「・・・もしかして、なっちゃんも?」
 はたと思い、それに直面したかもしれない浅月を思った。
「不憫だわ・・・」
 同情の笑いを浮かべ、うだるような熱を冷ますためにと浴室へ向かう。冷たいシャワーを浴びれば、少しはましになるだろうか。
 さっきまで柔らかいもので塞がれていた唇に触れてから、御門は自嘲気味に笑った。





続。