7.

「昨日の今日だというのに、貴様は何をしているんだ!」
 一呼吸置いて怒鳴ってから、ソファで寝ている春樹を見やり、夏威は一つ咳払いをした。そして声のボリュームを幾分か落とし、御門と浅月にことのなりましを問うた。
 急な過呼吸で気を失った春樹は、簡単な応急措置ですぐ落ち着いた。その後も暫く目を覚まさないのはどうやらただの寝不足であると分かり、いつもの場所にその身を置いたのだ。顔色は普段よりは白いものの、倒れた当初よりは随分いい。そんな中息を切らせやってきた夏威の第一声が、あれだ。
 とりあえずそう説明はしたが、それ以上は何も言えない。弁明も何も、二人には原因が分からなかった。
 しかし夏威には何かしら検討が付くようで、ぎりぎりと歯咬みしている。
「あのさ、夏威先輩・・・」
 沈黙を裂く浅月の呼びかけに、夏威の肩がびくりと跳ねた。それを誤魔化すように顔を背けたが、そんなことで誤魔化せる訳もない。浅月は一瞬だけ悲しそうに睫毛を伏せ、追及はせず続けた。
「僕たちは話をしていただけなんだ。きーちゃんは聞いていただけで・・・」
「その内容に、ハルがプレッシャーを感じるものでもあったんだろ・・・」
 吐き捨てるような夏威の言葉に一番反応したのは、御門だった。じとりと夏威を睨むように見つめ、声を低くする。
「何、そのプレッシャーって」
 夏威は小さく舌打ちした。恐らく言うつもりはなかったのだろう。眉を寄せて、お前には関係ないと切り捨てようとした。
「関係なくないわ。・・・昨日も、ああなりかけた。夢を見たとか、言っていたけど・・・」
 明らかな苛立ちを含んだ目が、御門を見据えた。
「お前・・・寝ているハルを一人にしたのか?」
「・・・ええ」
 ひやりと、夏威の怒りで部屋の温度が下がったように感じられた。それほどの怒気が、夏威から湧いていた。
「最低だな。することだけはさっさとして、ハルのことを気遣いもしなかったのか。あ?」
「気遣ってるわよ」
「じゃあなんで一人になんかできる? ハルはお前に言った筈だ! 一人では眠れないと!」
 ツカツカと歩み寄り、その胸元に人差し指を突きつけまくし立てる。
「俺はお前のことは信用していたんだぞ・・・だからここに来るのだって許したし、そいつのことだって、目を瞑ろうと・・・。なのに、」
「だから知っておきたいのよ。もう絶対、苦しませたくないの」
「その必要はない」
 下から、掬うように見上げる。
「こんなことが二回もあるような場所に、俺がハルを近付けるとでも思ってんのか?」
「・・・異常だよ」
 皮肉な笑いを浮かべた夏威に、黙っていた浅月が声を上げた。
「いくら兄弟だからって、何をそんな必死に・・・」
「必死なんだよ!」
 切羽詰った様子に、浅月が少し身を引いた。
「お前らに分かるか? 一人では眠れない恐怖が。それを知っていて、それなのに何もできない無力感が!」
 二人が黙るのを承知で言ったのか、最後の方はかなり自嘲気味だ。乾いた笑いを振りまいて、春樹の眠るソファに近付いた。
「・・・俺はハルを助けられない。一番近くにいたのに、今も、昔も・・・!」
 悔しげに唇を咬む夏威を見て、浅月も変な笑いをした。
「それって、夏威先輩が俺を頑なに拒絶する理由に繋がってる?」
「な・・・!」
「思い出したんだ、きーちゃんが倒れたときの話題。ちょうど、そんな話をしていたときだよ」
 浅月が、夏威の方に少しだけ歩を進めた。その分だけ夏威も下がり、浅月は悲しげに眉を寄せた。
「僕は辛い。ただ男ってことだけが理由なら、そこまで避けることないじゃないですか」
 悲痛な言葉に、夏威も御門も俯いた。
「言ってください。僕を本気で拒むなら、その理由くらい知っておきたい」
 とうとうと言っているようで、その言葉は夏威の胸にちくちくと刺さった。御門の視線も感じられて、落ち着かない。
 言葉にできないまま視線を彷徨わせ、それが春樹の方を見たとき見開かれた。薄く目を開けて、こちらを窺っている。
「ハル・・・!」
 呼びかければ身を起こそうとしてよろめくので、夏威が駆け寄りそれを支えた。
「ハル、ハル・・・大丈夫か? 気持ち悪かったり・・・」
「夏兄、言ってもいいよ」
「なんだって?」
「俺のことを想ってくれてるのは分かるよ。でも、浅月さんが真剣なのも分かる。理由もなしに断られ続けるのは、きっと辛いよ」
 何か言い挿した夏威の肩越しに、浅月を見る。そして御門に視線を移し、何故か乾いている喉を鳴らした。
「俺、襲われたことがあるんだ。近所のおじさんに、小さい頃」
 御門が息を飲み、浅月が目を見開き、夏威は泣きそうに顔を歪めた。
 それらを順々に見て、春樹が笑う。
「未遂だけどね」


 夢の始まりは、いつも同じ天井。
 青を基調とした壁紙を背に浮かぶ、大小様々な色とりどりの飛行機たち。
 まるでドラマに出てくる裕福な家の子供部屋のようであったが、夢の中の春樹の心が躍ったことはない。何故、自分はここにいる。それが分からない。分からないけれど、ただただ恐ろしかった。
 ベッドを降りれば、床にひしめくのは人形たち。それらに足を取られながらもなんとか廊下に出るのもいつも同じで、その廊下がひんやりと、そしてじとりと湿っているのもいつもと同じことだ。
 これらは全て現実に起こっていることをなぞって進んでいる。ただ一つ違うのは、あの時は現れた兄が出てこないことか。
「谷岡のおじさんは、家から少し離れたところに住んでた。優しくて面白いことから子供たちには人気があって、俺も懐いていたような気がする」
 でもその谷岡を恐いと思うようになったのは、幼稚園に上がる頃だった。何かが変わった訳ではなかった。ただ、目つきが恐ろしい。二人になりたくなくて、いつからか兄の後を付いて回るようになった。
 当時の夏威にはそんな春樹が疎ましく感じることもあったようだ。だがそんなことに気付きもしない春樹はただただ兄を慕い、そして懐いた。
「なんでだかは覚えてないけど、あの日俺は夏兄の後を付いてなかった。一人で歩いているところで谷岡と遭遇して、気付いたらその部屋で寝ていたって訳」
 後で聞いた話だが、その部屋は谷岡が春樹の為に前々から用意していたものだったらしい。
 元々童子趣味のあったという谷岡に、春樹がどう映っていたのかなんて想像したくもない。しかし、目を付けられていたことだけは確かで、春樹が一人になる瞬間を待っていたのだ。
 目覚めた春樹が階下に降りると、待っていた谷岡はそこで春樹の写真を撮った。谷岡の用意した服に次々と着替えさせられ、品を変え、ポーズを変え。
 幼い春樹は、ただ恐ろしかった。
 何をされているのかは理解できなかったが、しかしこれがただのモデルごっこであるとも思えない。何より、始終笑顔の谷岡だ、恐かった。
 泣きながら、それを嬉しそうに見つめる谷岡に従った。
 ヒラヒラのスカートを穿かされ、それを捲るよう指示されていたときに夏威が入ってきた。何事かを叫び、持っていたバットで谷岡を殴りつけた。
「夏兄の顔を見た瞬間、世界が回って俺は気を失った。その後目が覚めたのは病院のベッドの上で、また知らない天井だったことに少し怯えた」
 話さなければという思いが殊のほか強かったのか、そこまで淀みなく話すことができた。しかし今になって突然寒気が走る。
 身を抱いて俯く春樹に夏威が手を伸ばしかけたが、寸前で引っ込めると一層悲壮な表情になり部屋を飛び出した。その後を、一瞬迷いを見せた 浅月が追う。
 残された御門が、春樹の肩に手を置く。それを見上げて、春樹がぎこちなく笑顔を作った。
「夏兄は、今でも自分を責めてるんだ・・・俺が襲われたのは、誰の所為でもないのに」
 その笑顔が痛そうに見えて、御門はソファに腰掛け春樹を抱きしめた。頭、背中と撫で、最後に緩く腕で包む。
「辛いことを・・・話させてしまった?」
「・・・・・・っ」
 大丈夫。
 そう言いたかったのに、唇は震え眦からは涙が零れた。ひくりとしゃくり上げ、御門の肩に縋り付く。
「一人で寝ると、いつも恐かった・・・起きたら、あの部屋なんじゃないかって・・・!」
 室内に誰かいれば落ち着いたのは、その人さえいれば助けてくれると安心できたから。いつかの夏威のように、窓から入ってきてくれるだろうと。
 ぽんぽんと背中を叩かれながら泣くだけ泣いて、そうしたら幾分か落ち着いてきた。ぐしゅりと鼻を啜って、御門を見上げた。
「そんな顔しないでちょうだい。こんな話の後だってのに、キスしたくなるでしょ」
 目が合った途端そんなことを言われ、春樹はおかしそうに笑った。
「いいよ、して?」
 その言葉に、更に困ったのは御門の方だ。口を何度か動かして、目を背けた。
「嫌じゃ、ないの・・・? 結局はアタシも、その男と同じなのよ?」
「あんたとあいつは、違うよ」
 はにかんで、春樹が笑う。
「あいつのことは今でもうなされるぐらい嫌だったけど、あんたとのキスは思い出すと嬉し、」
 言葉を飲むように、優しく唇を吸われた。目を閉じて、その柔らかな感触を楽しむ。
 こうしていると本当に落ち着く。夏威に守られながら寝ている時よりも、遥かに深いところが。
「ん、ん・・・」
 啄ばむように、合わせては離れるだけのキスは春樹の胸を熱くさせた。心の中心から湯が湧くように、じんわりと。
「なっちゃんに見られたら、今度こそ殴られるかしらね」
 唇を合わせる合間に御門がそう呟くと、春樹も苦笑いした。
「夏兄は、俺が男にトラウマあるんだと思い込んでるから。でも俺、慣れてるし」
「慣れてる?」
 聞き捨てられない台詞に、御門は顔を話して春樹を見た。無邪気に笑った顔が、頷く。
「前にも言ったけど、キスがじゃないよ。男に言い寄られるのがってこと。痴漢だって日常茶飯事だしさ」
 でも最近は少し減ったんだあと嬉しそうな春樹に、御門は肩を落とした。
「じゃあ、もしかしてあなた・・・」
 恐ろしい答えを聞くのが嫌で質問を口にするのを躊躇っていると、廊下の奥から小気味よい張り手の音が聞こえた。
「あ、夏兄だ」
 いそいそと立ち上がり、毛布を畳む。それを背もたれに掛けたのとほぼ同時に、勢いよく扉が開かれた。
「帰るぞ!」
 少し息の切れた夏威に呼ばれ、春樹は駆け寄った。
「ちょ、きーちゃ・・・」
「それじゃあまた明日」
 にこにこと笑って、春樹は部屋を出た。
 珍しいし可愛くて堪らないのだが、御門は素直に喜べない。つまり春樹は、男が男を好きになる気持ちは分かるが、それはつまり別に自分のことを好きな訳でもないということではないのか。
 そうこう考えているうちに二人の足音は遠ざかり、代わりに浅月が頬を腫らして戻ってきた。
「いてて・・・夏威先輩、本当に容赦ないんだから」
 それでもどこか嬉しそうな浅月は、御門の隣に座り、一息吐いた。
「・・・凄い話だったね」
「そうね」
 驚く内容の割に、春樹のダメージは薄れているようなのがよかった。今日、御門が受けたダメージのほうはデカそうだが。
 少し泣きたいような気分で自嘲していると、浅月が真剣な顔で話しかけてきた。
「きーちゃんは、覚えてないだけらしいよ」
「・・・何を?」
 さっきより嫌な予感に、身構える。
「写真を撮られただけじゃ、ないってこと」
 御門は愕然とした。しかしそれなら一つの違和感に合点が付く。春樹と夏威の間にある、同性愛に対する嫌悪感の度合いの差についてだ。
「・・・なっちゃんは、見てたのね?」
 浅月は頷く。頷くが、その先の言葉は続かない。唇を引き結んで、じっと黙っている。
「敬心」
「待って。言うよ、言うけど・・・」
「違う。言わなくてもいいって・・・」
「夏威先輩が仁成くんにも言ってくれって言ったんだ! 聞いてよ!」
 語気を荒げ、そのあと深く呼吸を繰り返してから一息で話した。
 春樹が気を失った後、まだ意識のあった谷岡に後ろから殴られたこと、その後夏威が見ている前で春樹にしていたこと。
 それは谷岡とやらの人間性を疑うような内容で、聞きながら御門の顔はどんどん険しくなっていった。
 話の内容としては数分間もなかったが、衝撃が強すぎて暫く何も言えないでいた。その沈黙を、浅月の溜め息が破る。
「僕は・・・きーちゃんが知らないなら知らないで、それでいいと思う」
 御門が、黙って頷く。
「痴漢のことは、夏威先輩は知らないみたい。それも、もう心配ないしね」
「あなたのおかげでね」
 顔を見合わせ、くすりと笑う。
 実は浅月の過去について、話していないことがまだあった。そのことでできた人脈が春樹の通学中その身辺警護をしているのだが、当人はそのことを知らない。知る必要もないだろう。
「これも・・・言わなくていいこと、よね」
「そうだね」
「でもあなた、その話を聞くだけで、なんで殴られてるのよ」
 御門の質問に、浅月は小さく笑った。
「だって、辛そうな夏威先輩の顔って、そそるんだもん」
 それは少し前まで御門がよく知る笑顔で、ここ半年は全く見ていなかったもの。
 苦笑いして、指摘する。
「あんた、素が出てるわよ」
「仁成くんと違って、隠すのが下手なんだよ」
 夜に向かって落ちていく太陽の光だけが、二人の何かを含んだ笑いを照らしていた。


 電車で二人で揺られながら、春樹は兄の横顔を盗み見ていた。
 怒っているようだが、時々その険しさが緩む。それに気付いて頭を振るも、視線はどこか遠い。
 こっちに来てから兄の知らない顔ばかり見ることができて嬉しい。そうさせているらしい浅月を応援したいと思うのは、春樹は自然だと思っていた。
「浅月さんと付き合うの、夏兄?」
 率直に訊いたら、夏威は座席から落ちそうなくらい驚いていた。そして聞こえる筈ないのに周りを見渡し、春樹に小声で怒鳴る。
「き、気持ちの悪いことを言うな! お、男と付き合うだとか、キスするだとか、おぞましい・・・!」
「なんで? 誰としたって気持ちいいと思うけど」
 正直に思ったことを言っただけなのに、夏威は信じられないという顔で固まってしまった。
「夏兄?」
「は、ハルは・・・あれだ。御門と、付き合っているのか?」
「ううん」
 話の矛先を変えてやるつもりの質問だったが、その答えに夏威はのけぞった。
「だっておま、キスしてるじゃないか!」
「えー? でも俺、男に興味ないし。キスは、してもいいと思うけど・・・」
「ハル、お前・・・」
 抜けているとは思っていたが、まさかここまでとは。さっきまで憎たらしくて堪らなかった御門が、急に哀れに思えてきた。胸の前で合掌して、ご愁傷様と呟いた。
 それを見て、春樹が首を傾げる。
「変な夏兄」
 変なのはお前だ、と思ったが、馬鹿な子ほど可愛いのは自然の理。
 御門に懐いているのは気に喰わないが、惚れている自覚がないのは嬉しい。
 暫く黙っていてやろうと、浅月への怒りを御門に摩り替えた。
 キスなんて好きでもなきゃ気持ち悪くてできないものだと、夏威は知っているから。





続。