6. ゼミ室に浅月はいなかった。 御門曰く、自分の口ではうまく説明できないから、とのこと。恐らく当事者の話では身内として気分のいいものではないだろうと気を回したのだろう。春樹も、心の隅で小さく安堵していた。 連れてこられたものの未だ御門の顔をまともに見ることはできず、ソファで縮こまっていたら目の前にコーヒーが出された。いつもなら余り飲まないそれを、春樹は小さな礼を添えて口にした。潤しておかないと、緊張で喉が張り付いてしまいそうだったからだ。 「・・・カップ、ごめんなさい」 ふわりと香るそれを一口飲むと幾分か落ち着いて、食道を通り胃に染み込むのを想像してから謝ると、向かいに座ろうとしていた御門が首を振った。 「気にしないで。それより怪我はない?」 「うん、平気」 ぎこちないにもほどがある。 お互いがお互いの出方を窺っているから、切り出すタイミングが分からない。妙な雰囲気に飲まれているともいえた。 耐え難くてちらりと目だけで盗み見たら、御門も困った顔をしていた。春樹の視線に気付き、苦笑いする。 「昨日は・・・ごめんなさいね」 「え?」 「キス。アナタが可愛かったから、ついしちゃっただけなのよ。・・・もう、しないから」 二度も同じことを言われて、春樹は眉を顰めた。透かすように目を細め、カップをわざとうるさく置いた。 「嘘だ」 「嘘じゃないわよ。アタシって、元々こういう人間なの・・・」 「俺は、痛かった」 言葉を遮るように言うと、御門は首を傾げた。 「昨日も、今も。あんたに嘘吐かせてるのが俺なのかと思うと、ここが痛い」 胸の真ん中辺りを押さえて俯くと、御門が息を飲む気配が伝わってきた。 苦しかった。 自分一人だけが悪いものだと思わせて、その咎を一人で背負おうとしているのが丸分かりで、そうさせているのは自分なのかと思い至り、辛かった。 「俺、そんなに子供じゃない。夏兄と喧嘩したって、構わない」 だって兄弟だから。離れるなんて、ないんだから。 「あんたとは、離れたらそこまでだよ。ここにもう来れないのかと思ったら、恐かった。寂し、かった」 御門に嘘を吐かせたまま、傷付いていると思われたまま疎遠になるなんて、嫌だった。 「勝手に、俺に取っての善悪を決めないでよ。俺を、何も分からない奴だなんて思わないでよ」 「きーちゃん・・・」 伸びてきた手が頬に触れる。それがぬるりと滑ったことで、漸く自分は泣いているのだと気付いた。 悲しい訳でもないのに、さらさらと涙は流れて御門の指を濡らしていく。 触れた先から御門の感情が流れ込むみたいで、胸がじんとした。 ふと、机が邪魔臭いと思った。 これがあると、キスしてもらえない。 そう思って机の表面を凝視したが、そんなことで勝手に動く筈もなく。残念に思っていたら、上半身だけ机を越えた御門にキスされた。 顎を掬われ、上から食むようなキス。物足りなくて唇を割れば、すぐに応えてくれた。 御門にキスされると安心する。交じり合う吐息の温度が不安を溶かしていくようで。 口の中を好き勝手に舐め回されてぼやっとする。キスだけでこんなになることを、自分は今までの彼女に教えてあげられただろうか。 そんな考えも甘く溶け崩れ、熱い舌が唇を舐めて離れたときには、くったりと力が抜けてしまっていた。ソファにとろりと座り込み、瞼をしぱしぱさせる。 「なんか、反則・・・」 「ん?」 向かいに座りなおした御門の表情はいつもの余裕のありそうな笑顔に戻っていて、少し悔しい。唇を袖で拭いながらチラと見れば、にこりと笑みを返される。 その笑顔にいっと歯を向けて、照れ隠しに話を元に戻した。 「早く話してよ。本題はそれでしょ」 「・・・そ、ね」 笑いながら睫毛を伏せて、御門は膝の上で指を組んだ。 「アタシと紅子・・・そして敬心は、なっちゃん・・・アナタのお兄さんの、サポートをしていたわ」 「あの二人も?」 大野には御門だけのようなことを聞いていたので訊き返すと、御門は得心したように頷いた。 「学長に指名されたのはアタシだけよ。多くて悪いこともないし、後から誘ったの。それに・・・」 そこで御門は一瞬間を置いた。そして言いにくそうに。 「敬心が、やりたいと言ったから」 「浅月さんが?」 「ええ。アタシはいい傾向だと思ったわ。今でこそあんなだけど、以前の敬心は今からじゃ想像もつかないような生活だったから」 御門と浅月の間に交友が生まれたのは、二人が高校二年になった頃だった。 そうは言っても二人の通っていた高校は違い、通学路が重なっていたという訳でもない。いわゆる二丁目デビューが、二人の出会いも作り上げたのだ。 お互い趣味や好みは異なるものの気は凄く合い、逢ったその日に意気投合した。 二人は相手に干渉しないまま、しかし数年来の親友のような仲であったと周りも称するほどだった。場所が場所だけに友情ではない関係を疑われたこともあったが、それは絶対にないと確信があった。 御門も浅月も、互いの中に己のそれと似た闇を見ていた。 傷の舐めあいであったと言われても反論はしないだろう。しかし、確かに救われた部分はあったのだ。御門にしても、浅月にしても。 だが浅月の性癖を抑えることは御門には不可能だった。 浅月は特定の相手を作らない。そして、誰であろうと躯を許す。それこそ人道に外れるような人間まで相手にするので、御門はその度に諌め心を痛めた。 自分に浅月は救えない。 そう御門が確信したのは意外と早く、暫くはただ見ているだけにしようと思ったのもその頃のことだ。 そして、大学に進学する時期となった。 私生活の話は全くしなかった二人が同じ大学に入ったのは当人たちも驚く偶然で、二人ともその事実を大学の入学式の、更にその後のオリエンテーションで知ることとなる。 その時ややあって知り合いとなった紅子とつるんで二年目。 三人とも色々な意味で有名になりかけていた頃、御門に学長から声がかかった。名取夏威の補助をしてみないか、と。 「敬心はその話が出る前からなっちゃんのことを知っていた。廊下で遭ったとか講義の時見学していたとか、それくらいだけど。人に興味なんてなかった敬心のその態度が、アタシは嬉しかった」 御門はそこで笑ったが、すぐに痛そうな顔をした。 「アナタには悪いけど、なっちゃんと上手くいけば敬心も変わるんじゃないかって思う気持ちはあった。本気で嫌がるようなら止めようとも、ね」 その後四人は二年の間にかなり親密な仲になったという。 実験や研究は揃って頭を悩ませたし、遊びに行くのも大抵このメンバーだった。ただでさえ少ない年の差は、すぐに気にもならなくなったという。 聞きながら、春樹は内心首をかしげていた。 夏威と生活を別にしていたのは、その二年間だけだ。とはいえ長期休暇に夏威は必ず帰ってきていたし、連絡だってしょっちゅう取り合っていた。 それなのに、御門たちの話を一回も聞いたことがないというのはどういうことなのだろうか。仲のいい学生がいるということすら、春樹は知らない。 そう言うと、御門はおかしそうに笑った。 「学生ってことはともかく、きっと聞いている筈よ。普通の人としてね」 「普通?」 「なっちゃんはアタシのことを信頼も尊敬もしてくれていたわ。でも、この口調だけはどうしても許せなかったみたいなのよね」 手の甲を頬に当て、シナを作る。その仕草に小さく噴出すと、御門もくすくすと笑った。 「とにかく、アタシたちは仲良くやっていたわ。それこそ、学内でも有名なくらい」 春樹は想像した。 夏威と、御門と、浅月、そして紅子。四人が笑いながらキャンパス内を歩いたのは、さぞ絵になったことだろう。時々御門が夏威を怒らせたりもするのだろうが、それでも笑いは絶えないのだ。過去の想像に、春樹は少し羨んだ。 「あれはなっちゃんの助教授としての進路が決まった日のことだったわ。いつものように、四人で飲もうってことになって」 当時、夏威の家は御門の沿線とは逆の方にあった。そこは、浅月と同じ方向だったのだという。 「酔うのはいつも紅子となっちゃんだったから、アタシは紅子を、敬心はなっちゃんを・・・そう、いつものように担当して分かれたのよ」 いつも通り御門はほろ酔いで、いつも通りみんあいい気持ちで帰って行った。 そしていつも通りくると思っていた朝は、こなかった。 御門の前に現れた浅月の顔は赤く腫れており、夏威は大学に来ない。心配になって掛けた電話も切られる一方で、やがてかからなくなった。 「敬心に聞いても何も答えてくれないし、なっちゃんに至ってはアタシや紅子まで無視する始末。それでも、敬心の気持ちは知っていたから・・・何かあったんだとは、検討がついていたわ」 きっと何か言ったのだ。いや、したのかもしれない。とにかく、二年間で築いた関係を一度で壊してしまうような、何かを。 「夏兄が引越したのって・・・」 「大部分はアナタの為で間違いないわ。随分前から嬉しそうに物件を見て回っていたもの。でも、あんなに離れたのは・・・」 「僕の所為、だよね」 いつの間にか薄暗くも感じるほどになっていた室内に、第三の人物が参入した。 「浅月さん・・・」 「ごめんねきーちゃん、黙ってて。でも、夏威先輩との約束だからさ」 電気を点けてから、カーテンを閉める。さっきより明るくなった筈なのに、どこか翳りがあった。寒くもないのに、震える気もした。 「きーちゃんはいいよね。なんの理由もなく夏威先輩といられるんだから。・・・僕は、理由が欲しかった。先輩を繋ぎとめる、理由が」 軽くて明るいイメージの浅月は、そこにはいなかった。 兄が男に好かれていることよりも、こんなに真っ直ぐな愛情の方に面食らう。これが人を好きになるということなら、自分は今まで何をしていたのだろう。人を好きになる浅月が、好かれる夏威が羨ましい。 「・・・でも、こんなに拒絶されるなんてね。きーちゃんのおかげでまた顔は見られるようになったのに、仁成くんのばか」 おどけた風に言っているが、声は少し震えていた。御門もそれに気付いているらしく、控えめに笑うだけで。 春樹はそんな二人を見て、心が痛むのを感じていた。 御門の所為などではない。全ての根源は、この自分だ。なのにそれすら言えなくて、春樹は自己嫌悪に更に苦しむこととなった。胸が締め付けられるようで、息も苦しくなる。 「・・・っは、」 ヤバい、と思ったときは既に遅く、体は呼吸の仕方を忘れていた。壊れたエアコンみたいに吸ったり吐いたりを繰り返す所為で肺の辺りがずきりと痛む。 「きーちゃん?」 ぐらりと揺れた視界に、御門が見えた。遠のく意識の向こうで、浅月が携帯を手に取る。 「だ、め・・・」 ひゅうひゅうと変な呼吸を繰り返す喉から、それだけ搾り出した。 夏兄は呼ばないで。 ぷつんと途切れた意識の底で、嫌な記憶が鎌首をもたげる気がした。 続。 |