5. 昔から男女ともにかなりモテた。 ちやほやされているだけかと思っていたが、どうも違う。幾度となく連れ去られそうになったともあり、そんな春樹に夏威が付き添うようになったのは、ある意味当然といえた。 抜きん出た美少年ということはない。そういう意味でなら、夏威の方が幼い頃から目立っていた。目鼻立ちのはっきりした容貌、屈託がなくすこしマセた話し方。どれを取っても兄の夏威の方が勝っていて、神童とも呼ばれていた。 それなのに、春樹はよくよく他人に好かれた。いい意味でも、悪い意味でも。 なぜだか人を惹き付ける。それなのに、当の本人は至って普通の凡人であると信じて止まず、それが周りをやきもきさせることもあった。 少しは危機感を持って欲しい。そうすれば、あんなことも起こらなかったかもしれないのに。 本人に自覚がないから、そこをよくつけこまれかけては、持ち前の天然で難を逃れていた。おかげで中高と続いた痴漢の被害もそれほど大きなものにはならなかったし、家族の誰にもバレなかった。それなりに彼女もできたし、友人にも恵まれた。 これには、やはり夏威の尽力も大きかった。少しでも危ないと思った人物には夏威の方から圧力を掛けてくれたし、その異常とも思える弟想いな兄を友人たちは一目置いて見ていた。そんな兄の配下で何か起きようものなら、自分たちもただではおかないかもしれない。そういう強迫観念があったのかもしれないが、とにかく彼らも春樹の保護に一躍かっていた。春樹の周りは、平穏だった。 夏威が春樹を大事に想うように、春樹は夏威に絶対の信頼を置いていた。 だから、逆らうことはない。逆らいたくはない。 一人では広すぎるベッドの上で目覚め、春樹は妙にすっきりした頭で色々考えていた。 久しぶりに見たあの日の夢、御門とのキス、兄の怒声、兄の暴力。 もう起きなくてはならない時刻は過ぎているのに、兄のいるリビングには行きにくくてゴロゴロしていた。しかし、またラッシュに巻き込まれるのも面倒だしこれ以上避けていても何も解決はしないと、春樹は決心してその身を起こした。同時に、寝室の扉が開く。 「・・・朝食、できたぞ」 「ありがと、夏兄」 喧嘩した訳でもないのに、なんだかぎこちない。親類にキスシーンを見られたこともあるが、何より兄の態度がおかしかった。昨日の話題になることを、恐れているような節がある。 それを感じ取っていたから、春樹も敢えて口にはしなかった。また、戻るだけだ。兄と自分、お互いだけの生活に。 苦い珈琲を口にふくんで、それが喉元をちりりと焼くように降りていくのを感じながら、春樹は夏威にバレないよう溜め息を落とした。 「陰っっっ気臭いわねえ!」 昼過ぎにゼミ室に現れた紅子が、開口一番にそう言った。 紅子がそう思うのは無理もない。実験のためとはいえカーテンの閉め切った室内で、御門はソファの上で屍のように寝そべっているし、浅月は自分のノートパソコンに齧りついて一心不乱にキーを叩いている。こういうことをしているとき、二人はこの上なく落ち込んでいるのだと知っている紅子ではあったが、流石に二人同時というのはキツい。その意味も込めての一声だったが、二人は相変わらず自分の世界で落ちている。呆れ果てて溜め息も出ないと、紅子はカーテンを開け放った。 「ほらほら、実験しないなら換気! 今日のノルマはちゃんとこなしたんでしょうね? 後で教授に怒られたって知らないからね」 カーテンを開けた所為で容赦なく降り注ぐ眩しい光に目を細めながら、御門が低く唸った。 「うるさいわねえ。こんな時間に来る紅子に言われたくないわよ」 「同感、仁成くん。たまに来たと思ったら、研究成果だけ奪ってくんだから・・・」 ピキリ、と紅子のこめかみが鳴った。 「あんたらねえ・・・誰のおかげでこの部屋自由に使えてると思ってんのよ・・・」 「それは・・・紅子ね。紅子が教授をうまく操作してくれるからよ」 「そうよ! もう少し感謝くらい・・・」 「でも、四年になってから紅子サボってばかりじゃない」 ピキピキ、と紅子の額が変な音を立てた。 「いいのかしら、そんなこと言って? あんたの大好きなきーちゃんにあることないこと吹き込んじゃうかもしれないわよお?」 「好きにすれば」 「え?」 予想外の返しに言葉を失う紅子に、御門はひらひらと手を振った。 「だから、好きにしなさいよ。どうせもう来ないんだし」 「え? え? 何、何したのよあんた・・・」 「キス」 紅子の肩が、ガクンと落ちる。 「仁成・・・あんた・・・」 ぶるぶると震えながら指を差し、呟く。 「ホモ、だったんだ・・・」 「ゲイよ。ていうか紅子、アナタ四年も一緒にいて気付かなかったの?」 そっちに驚くわ、と呆れ顔で言われ、紅子は勢いよく浅月を指差した。 「だ、だって! 男に興味あるのって敬心じゃなかったの?!」 「紅子ちゃん、僕はバイだから男だけの仁成くんとはちょっと違うよ」 「そんな細かいことは聞いてないわよー!」 詐欺だわ! ペテンよ! とわあわあと喚いて止まらない紅子を一瞥し、まあ害もないかと御門は無視することに決めたようだ。ソファに深く座りなおし、思いを馳せる。 傷ついた顔をしていた。 当たり前だ。あんなキスをしておいて、遊びでしたと宣言したようなもの。 「嫌われちゃったかしらね・・・」 小さく呟いたその声が聞こえたのかは分からないが、紅子を宥めていた浅月がソファの後ろでコーヒーを淹れ始めた。まだぶつぶつ言っている紅子を見て肩を竦め、御門に話しかける。 「仁成くんなんて、かなり分かりやすいのにね」 「・・・そうよ。ノーマルな人が、こんな喋り方するなんてまずないわよ」 「趣味だと・・・思ってたのよ」 「まあそれも外れてはいないんだけどね」 くすくすと笑い、浅月はコーヒーを注いだカップを持ち紅子のところに戻る。それを受け取り、深い溜め息を吐く紅子。 「来て早々で悪いけど、少し出るわ。頭痛い」 ふらふらとした足取りの紅子が出て行くと、途端に室内は静かになった。午後の講義も始まっているから、キャンパス全体も静かだ。 作業に戻った浅月がノートパソコンを操る音さえ大きく聞こえる。 「でも、驚いた。意外と堪え性なかったんだねえ」 にやにやと笑いながら言われ、御門は少し不機嫌そうになった。 「だってあの子ガタガタで・・・」 芯は強そうに見えたのに、少しの衝撃で簡単に壊れてしまった。脆くて、不安定で。見ていると支えたくなるほど危うくて。 初めから興味が湧いていた。どちらかといえば平凡そうなタイプなのに、妙に惹かれるところがある。ボケたところも可愛くて、つい囲ってみたくなった。 そしてすぐ、夢中になっている自分に気付く。 最初のキスから昨日のキスまで。挨拶だと言われたのが嫌でムキになっていただけな筈なのに、途中から合わせるだけじゃ物足りなくなっていた。どさくさに紛れたようにした昨日のキスは、想像していた以上に甘く芳しいものだった。 昨日少し席を外した後、うなされている春樹を抱き締めたのは、殆ど無意識だった。 不謹慎だが、腕の中で震える体が愛しくて。できるならこのまま食べてしまいたいと、本気で思っていた。 目の前で手を握ったり開いたりしながら、重い溜め息を吐く。 「逃げられちゃったなあ・・・」 パタンとパソコンを閉じ、浅月が呆れたように笑う。 「仁成くん、駆け引きは得意なほうだったのにね」 「・・・ね」 兄の夏威を取らせるために酷いことを言った。もう来ることもないだろう。 自嘲気味に笑い、ソファに居直る。 「にしても、敬心。アンタも何かしたでしょう。なっちゃんの様子、変だったわよ」 わざと茶化すように言ったつもりだったのに、浅月の顔は珍しく曇った。そして皮肉な笑いを頬に浮かべ、呟く。 「壁に押し付けて、キスしただけだよ」 がちゃん、と大きな音がするまで、手にしていたコップを落としたことに気付かなかった。落としてからも、その事実がうまく飲み込めない。今聞いた浅月の言葉だけが、ぐるぐる回っている。 「き・・・ちゃん?」 名前を呼ばれ、ビクリとする。 御門が立ち上がるのを認めた瞬間、踵を返して走り出した。何度か呼ばれたが、立ち止まれない。止まりたくない。 とりあえず一度話がしたくて、大野に代返を頼んで講義を抜けたのはよかったものの、ゼミ棟をうろうろするだけで時間が過ぎてしまった。 そんな時難しい顔をした紅子に遭い、飲み干したカップを押し付けられた。いい口実ができた、と思えればいい。しかし、これで帰る訳にも行かなくなった。 意を決して辿り着いた扉は開けっ放しで、奥に御門と浅月が見えた。二人いるなら話易いかも、と近付いた時に聞こえたのは、兄の名前。続いて、衝撃的な浅月の言葉。一瞬、時間が止まったとすら思った。 「お、大野!」 走っている内にチャイムが鳴り、ぱらぱら出てくる人の間に大野を見つけた。まだ高校生にも見える小柄な姿が、こちらを向く。 「あ、名取。用は済ん・・・」 「大野! か、かくまって!」 「は?」 大野を含め、周りにいた友人も変な顔になった。 「お願い・・・」 捨てられた子犬のような目に縋られて、大野の心が揺れた。 「とりあえず、こっちに・・・」 人に紛れながら進み、抜けたところで後ろを見れば遠くに御門が見えた。きょろきょろと見渡した後、違う方向に走っていく。なんだか酷いことをしているように思えたが、今は話す勇気が湧かなかった。 「ごめん、水しかなかった」 連れて行かれた先はサークル棟の一室で、入り口には読み研とあった。なんの略か春樹には分からなかったが、部屋中にある膨大な量の本から、読書系のサークルなのは分かった。とは言え日差しは入り放題だし、置き方も乱雑で統一性のかけらもない。本を大事にする文芸部とは趣旨が違うらしい。 「ここな、もうサークルとしては機能してないんだよ。本も卒業生とか在学生が勝手に置いていったものらしくて、被ってるのも多いし。溜まり場・・・みたいになってんだ」 入り口から奥まで殆どが本に埋まっている。唯一残されたスペースには長机が二つ並んでいて、手前には形も大きさもバラバラなパイプ椅子が置かれていた。奥にはまあまともなソファも見えたが、誰かが本を頭に乗せて寝ている。白衣が見えたから、理学系の学生だろうか。 埃臭さと古い本特有の甘いような紙の匂いがして、春樹はなんとなく気持ちが落ち着いた。 座るように促されて、とりあえず座れそうな椅子を選んで腰を下ろした。 「大野は・・・なんでここ知ってるんだ?」 特に選ぶ訳でもなく本を一冊取り出した大野が、椅子に座りソファで眠る男を顎で指した。 「そこの、寝てる人。その人にナンパされたから」 「ふうん」 ここは変な人ばかりだなあと思って頷いて水を一口含むと、小さく吹くように笑われた。 「お前、やっぱ変だな。さっきみたいに取り乱すこともあれば、今みたいなのには驚かないし。あの噂、マジなの?」 「噂?」 「御門さんとお前が、デキてるって」 笑いを含みながら言われて、春樹はばっと顔を赤くした。その様子に、大野がまた笑う。 「可愛いな、名取」 見かけは大野のほうが断然可愛いのに。さっきだって、大野ならナンパされてもおかしくないと思ったから。 春樹はそう思ったが、言ったらどうせ怒るので黙り込んだ。 「とにかくここならいつまでいたって平気だからさ。好きにしてなよ」 「そうそう、可愛い子は大歓迎だし」 突然掛けられた声に驚くと、寝ているとばかり思っていた人物が体を起こしたところで。 長めのストレートは毛先だけ緩く内側を向いている他、寝癖一つない。濃そうなイメージから、白衣を着ていなければ丸っきりホストだ。 「あ、ホントに可愛いや。翼、この可愛子ちゃん誰?」 「名取春樹。俺の大事な友人なんで」 「へえ、そう。俺は伊部貴司。よろしくなー」 机越しに握手を求められたので手を伸ばすと、予想を外れ肘の裏側を掴んだ手に引き寄せられる。慌ててバランスを取ろうとしたがやや遅く、傾きを利用され頬にキスされた。放心しているまま手を離され椅子に落ちるように座る。横で、大野の溜め息が聞こえた。 「あんた、節操ないですよ。大丈夫か、名取? この人誰にでもこうなんだよ」 「酷いな翼。可愛い子なら誰でも、だよ」 「酷いのはあんただ」 二人の掛け合いを見ながら、本当にホストみたいな人だと、春樹はそう思って袖で頬を拭った。パイプ椅子の背に、体重を掛ける。 「ホント動じないね、君。悪い人には気をつけなよ?」 「悪い人はあんたでしょ。名取は御門さんのお気に入りなんですからね。自粛してください」 「え? さっきのマジなの?」 伊部はわざとらしく目を丸くして驚き、不躾に春樹を見た。 「ふうん・・・じゃあ、もう王子様のお手つき?」 「おう・・・? おて、?」 「名取に変なこと吹き込まないでください。名取もいちいち反応しなくていいよ」 本を読みながら伊部を窘め、大野は少し不機嫌そうだ。しかし春樹はおかげで御門とのことを思い出す羽目になり、気分が重くなった。 「もう・・・お気に入りでも、ない」 「え?」 大野と伊部の声が重なる。少し気まずそうにしたのは大野だけで、伊部は何か聞きたそうにしていた。それに気付きはしたが、春樹は机に伏して目を閉じた。 昨日からうまく眠れない。兄の横でも、胸がざわついてうるさかった。 「な、名取・・・?」 心配しているらしい大野を振り仰ぐこともできず、春樹は塞ぎこんだ。 「なと、」 「なんか訳ありみたいだね、お姫さん」 「・・・別に、」 否定しようとしたら、机を叩くように置かれる手があった。びっくりして振り向くと、そこに息を切らせた御門が立っていた。 「見つけた」 「・・・あ、」 「王子・・・」 「なんで、ここが」 三人がそれぞれに別のことを呟いたが、御門は大野の方だけ向いてにこりと微笑んだ。少し恐い笑みに、大野は身が竦む思いがした。 「大野くん、アナタは自分が目立つことをもう少し自覚することね。割と簡単に見つかったわよ」 そして伊部には目もくれず、春樹の手を引いて立たせた。春樹は一瞬迷うように手を引いたが、御門の強い視線がそれを許さない。 「話を、させてほしいの」 ゆっくり、低く言われて、春樹はためらいがちに頷いた。そのまま手を引かれ、本の山を抜けていく。 「お姫さん!」 出際、伊部に声を掛けられた。変な名称で呼ぶのは止めて欲しいと思いながら振り向くと、手を挙げてゆらゆらさせている。 「また来なよ。歓迎するぜ」 答える前に、春樹は部屋から連れ出された。残された大野が、おろおろする。 「どうやら本気みたいだね、王子様は」 悪そうに笑み、伊部は大野がさっきまで読んでいた本を奪った。 「・・・変な気起こさないでくださいよ」 「分かってるよ」 本を被り、また横になる。 大野は呆れた風な溜め息を一つ吐いたが、何も言わず他の本を手に取った。 「大丈夫かな、あいつ」 元々返答など期待していなかった独り言は、伊部の寝息ともつかない呼吸に掻き消えた。 続。 |