4. 「おはよう、ハル」 「・・・おはよ、夏兄」 少し遅れてベッドから出てくる弟の髪は、柔らかい割にはすぐ癖がついた。それを笑うと弟はいつも怒るが、夏威は笑わずにはいられない。 「早く顔洗って来いよ。今日は一緒に出るんだろ?」 洗面所を指すと、むくれながらも春樹はそれに従った。じゃばじゃばと水の音が聞こえて、暫くすると無音になる。顔を拭きながら、また眠ったのだろう。 弟の春樹との二人暮らしが始まって、一ヶ月が過ぎようとしていた。 二年前までは祖父母と暮らしていて、こっちの大学院に移ってから二年間は一人で暮らしていた。その間、弟のことばかり心配してきたような気がする。春樹は、あの日からこっち一人で寝られないという一種のトラウマが残っている。 二年とはいえ離れるのはかなりためらった。しかし、春樹が行ってもいいと言ってくれたから。夏威は、それで弟と一時離れる決心をしたのだ。 だが、それを失敗だったと感じたのは、すぐのこと。 夏の長期休暇で一度戻ったとき、春樹は驚くほど憔悴していた。いくら家の中に誰かいようとも、結局は自分の傍でしか安眠できないのだと、そのとき悟らずにおれなかった。 兄として、弟を守るのは当たり前だと夏威は感じている。それは今も昔も変わらないことで、できるならいつまでもこうしていたいとすら思っている。 この脅迫観念のような意識は、あの日春樹を守りきれなかった自分への戒めだからだ。あの日の記憶は、春樹だけではなく夏威をも苛んでいた。 洗面所からガタゴトと音が聞こえて、崩れるように春樹が出てきた。転ぶのかと見ていた先で春樹は体勢を立て直し、ふらふらと机に付いた。その前にコーヒーを出してやれば、無意識下でそれに砂糖を入れる。二杯三杯と入れ、ちびちびと飲んだ。 「あま・・・」 「当たり前だ、馬鹿」 笑うと、春樹もそれに笑い返した。漸く頭が働いてきたといったところか。 「最近は起きられるようになってきたな。こっち来てすぐは大変だった」 目覚ましが何度も鳴っては、寝室から呻き声が聞こえる。やがてどちらも聞こえなくなるのだが、そのときには夏威は出かけてしまう。その後大学の昼休みまで、春樹の詳細は分からなくなる。 春樹がコーヒーを飲んでいる間に頭の跳ねを直してやりながらそんなことを言うと、むくれた顔で振り仰いできた。 「それ、誰かに言ってないよね・・・」 「言ってないよ」 勿体ないし。 夏威は春樹を弟として猫可愛がりしている。好きで好きで、堪らないのだ。 くすくすと笑いながらそんなことを言うと、春樹はふうと溜め息をついた。安心したのか、肩の力も抜けている。 「・・・なんだ? 知られたくない相手でもできたのか? 好きな子か?」 「な・・・! 違うよ!」 「照れるなよ。ハルってば、いつも俺にバレるまで言わないもんなあ。今までの子も、家に連れてはこなかったし・・・」 「それは・・・」 赤くなって俯く春樹の頭をぽんと叩いて、キッチンに朝食を取りに行く。 春樹の彼女はいつも決まって気の強いタイプだった。ああいうのが好きだとは思わないので、いつも押し切られるようにして付き合っていたのだろう。それが分かっていたから、つい意地悪を言いたくなってしまう。春樹にはもっといい子と付き合って欲しいと、いつも思っていた。 「で? ハルは誰に知られたくないんだ?」 二人分の朝食を並べながら聞いたら、うんざりした顔で見てきた。外ではここまで顔が変わらないので、夏威は少し優越感を覚えている。 「だからさあ、違うんだって・・・ただ、これ以上あの人に笑われる話題は作りたくないというか・・・」 「あの人って・・・まさか御門か?」 「あ、」 言ってからしまったと思ったのだろう。夏威が御門を嫌っていると、春樹は思い込んでいるからだ。 春樹が御門に懐いているのは、夏威にとって少し嫌なものではあった。 御門のことは信用している。しかし、受け付けないところがあるのも否定できない。生理的に、何か嫌だ。 「な、夏兄・・・?」 「何ビビってんだよ。仲良くするなとは言ってないだろ」 「じゃあさ・・・」 春樹は最近、よくこういう顔をする。聞きたくても声にできない。質問の形にするのをためらうような仕草に、夏威は少しだけ苛々した。 「いいから早く喰え。置いてくぞ」 「うん・・・」 また悲しませた。そう感じたが、取り繕うこともできない。 春樹にまたあんな思いはさせられない。 御門がそうだと決まった訳ではないが、あいつといる以上それも保障されないだろう。 砂糖を入れないコーヒーはいつもより苦い気がして、夏威は眉をしかめた。 「それで、今日はお兄さんとお昼食べなかったのね?」 御門に問われて、春樹は小さく頷いた。 ここに来ていることが気まずさの原因であったのに、春樹にはここしか兄から逃げる場所を知らない。ここにいれば、夏威は余程でない限りやってはこないからだ。 「まあアタシはきーちゃんといられて嬉しいけどね。・・・食べる?」 差し出されたのは色とりどりの具材が入ったサンドウィッチで、春樹は一つ手に取った。 「奇麗だね。もらったの?」 「ブブー、外れ。御門仁成お手製よん」 「え?! あんたこんなこともできんの?」 「軽いわ」 ふふんと笑われて、春樹は素直に感心した。その顔を見て、御門も嬉しそうになる。 「可愛いわね、きーちゃん」 「は?」 サンドウィッチを口に挟んだまま、春樹は御門をうざそうに見上げた。その顔も、御門には可愛く見える。 「好きよ、きーちゃん」 ちゅっと頬にキスをして、御門は立ち上がった。 「さて、午後の研究も頑張ろうかしらねー」 伸びをしながら去っていく後姿を見ながら、春樹はもごもごと口を動かした。 「・・・だから、なんで」 全く理解できない。自分なんかからかっても、面白くないと思うのだが。 キスも、最近おかしい。挨拶だと分かっているのに、時々胸がざわつく。今までどの彼女としたときも、こんな気持ちにならなかったのに。 「病気かな・・・」 サンドウィッチを飲み込んでから、春樹はブランケットに包まった。 今日は午後からの講義はない。ぬくぬくと心地よい空気の中で目を閉じて、春樹は気持ちよく眠りに滑り落ちた。 夢を見た。 久しく見ていなかったから、油断したのだろう。いつもならそれと気付いた瞬間に目覚めることができていたのに、今日は気付かないままずるずると夢は進行していく。 夢の始まりは、いつも知らない部屋で目覚めるところからだ。目を開けば高い天井に、大小様々な玩具の飛行機が浮いていて、自分の体は幼い頃のものに戻っている。記憶も意識もぼんやりしていてうまくものが考えられない。それでもこの部屋を出なければと本能が叫ぶので、ベッドを降りる。 降りた先には、足の踏み場がないほど敷き詰められたぬいぐるみたち。春樹の心は、ざわざわと嫌な感触が這った。 部屋から出た廊下の空気はどろりと重く感じられて、吸い込むと生臭い匂いがした。 その重い空気の中を無理やりに進むと、遠くに下へと続く階段が見えた。そこに着けばここから出られるような気がして向かうのに、足は思うように動かない。 這うように階段に着き、下を覗き込んだところで漸くこれはあの夢だと気が付いた。そうなると小さかった手も足も今の自分のものに戻り、それなのに目覚めることだけ出来ない。ここまで来たら、最後まで見るしかないのだ。 嫌だ嫌だ嫌だ。 強く、強く叫ぶのに、喉からは空気ばかりが出て声になってくれない。春樹の叫びは夢の中に霧散して、足はがくがくと階下へ向かっていく。 かちり、奥歯が鳴る。 足が、階段を降りきった。 突然目の前に現れる扉。その扉を、開いて。 もの凄い重圧と、劈くような子供の悲鳴に見舞われ、意識は無理やり夢から剥がされる。 「・・・ちゃん、きーちゃん!」 「あ、はっ・・・?!」 沈みきっていた体が急に浮上するような覚醒で目を開けると、視界に狼狽した御門の顔が入ってきた。ソファに横たわったまま上半身だけ上げられていて、痛いくらい強く肩を抱かれていた。 「は、離し・・・」 ひゅ、と空気を吸い込み、その後うまく吐き出せなくなった。息苦しさがあの家の重たい空気を思い起こさせて、春樹の意識は一気に夢の中へと引き戻した。混乱して、手足をばたつかせる。 「い、や」 「きーちゃん?」 「いやだ! 離して、はな・・・夏兄! 夏に・・・っ」 ぼろぼろと、涙腺が壊れたのかというくらい涙が溢れては流れた。空気だけがどんどん肺に飛び込み、苦しさに意識が朦朧とする。 春樹は夏威を呼び続けた。うろたえる御門の目が、きゅっと細められる。 「やだやだやだ! 夏に、助けて・・・」 不意に、言葉が途切れた。御門が、その唇を塞いだからだ。 目を見開いて全身を硬直させた春樹の唇を割り開き歯列を縫い、舌を口腔へ侵入させる。ぬるりと上顎をなぞられて、体が粟立つみたいに震えた。 「ふ、ん・・・」 胸を押したが、後頭部に添えられた手がそれ以上の力で春樹を引き寄せる。舌を絡ませ軽く吸い上げ、甘咬みされる。ビリビリと電気みたいな刺激が、春樹の頭をぼんやりと濁らせた。だらりと、抵抗していた腕が落ちる。 無理やり制限されたことにより、乱れた呼吸が次第に落ち着いていった。強く引き寄せるだけだった手が優しく髪を撫で、耳の裏をじっくりとなぞる。そうやってまさぐられながら唇を解放されると、かくんと頭が落ちた。潤んだ目が、とろりと御門を捉える。 「落ち着いた?」 濡れた唇を親指で拭われながら囁くように訊かれ、春樹は小さく頷いた。御門は安堵して微笑み、もう一度唇を寄せて頬を伝う涙を掬い取る。ざわりと、産毛が逆立った。 「・・・ごめんなさい。少し用があって、部屋を空けてしまったの」 謝る御門の言葉で、春樹は漸く合点が付いた。あの夢は、春樹が一人になるときばかりやってくる。 「俺こそ、ごめん。ああなると、訳分かんなくなるんだ」 子供のように喚いたことが恥ずかしくて目を伏せると、また頭を撫でられた。そうされると、不思議と安らいだ気分になる。 「・・・あんたって、変だよな」 「ん?」 「オカマかと思えば、妙に男らしいとこも見せるし。この間みたいに取り乱すこともあれば、こうして落ち着き払ってもみせる」 一緒にいると、兄とは違う形で落ち着く。深い部分が、温かい湯で満たされるような。 「それに、キスとか・・・」 「ああ、ごめんなさい。なんか他に思いつかなくて・・・嫌だった?」 ふるふると、春樹は首を振った。そして伏せた目を上げ、また逸らして言い淀んだ。 「気持ちくて、びっくりした・・・」 言った途端に自分の言葉が急に恥ずかしいものに思えて、慌てて逃げようとしたら肩に回された腕がそれを阻んだ。真剣に見つめられ、緊張が走る。 「・・・な、に」 「だって、さっきのキスは挨拶じゃないもの」 いつもより低く聞こえる声に囁かれ、小さく胸が痛んだ。 「知っているかしら? キスが、なんで愛情表現に使われるか」 無知を首を横に振ることで示すと、にっこり微笑んだ御門が親指で唇を軽く押し潰してきた。 「食べてしまいたいほど、愛しいってこと」 ズキリと、肺の真ん中が痛いほど軋んだ。細めた目が、真摯に自分に向けられている。 今、自分は馬鹿みたいに赤面しているんじゃないだろうか。男相手に、しかもカマ口調の男相手に、自分の鼓動は何故こうもうるさく鳴るのだろうか。春樹は、息を飲んだ。 「じゃ・・・あんたは、俺を喰いたいってこと?」 ぐるぐるした頭がひねり出したのは、そんな間の抜けた質問。それに対しくすりと笑った御門の唇が額に当てられ、躯がびくりと跳ねた。 「そうね・・・いっそ食べちゃっても、いいかもしれない」 また唇が寄せられて、春樹は誘われるように目を閉じた。心臓が鳴りすぎて、何かで押さえてもらわなければ口から飛び出してしまいそう。 ゆっくりと唇を舐められ、促されるまま薄く開ける。熱い舌の侵入に体が震えた。浮遊感に似た陶酔に、溺れていく。 「ん、ん・・・」 気持ちいい。脳が溶け出してしまうんじゃないだろうか。 必死でついていくだけのキスに夢中になっていた所為で、いつもなら気付いていた足音を聞き逃した。 扉の開く音で見開いたに映ったのは、驚愕した兄の顔。そしてそれは、次の瞬間には怒りの色に染まっていた。 「てめ・・・御門! お前、人の弟に何を・・・っ」 そのまま殴りかかりそうで、春樹は飛び起きるとその前に立ちはだかった。 「どけ! 春樹、邪魔をするな!」 「や・・・嫌だ!」 「ハル、お前自分が何されたのか分かっているのか?」 「俺が!」 声を荒げたものの、次に続けるべき言葉が分からなかった。頼んだ訳でも、誘った訳でもない。ただ、もう一度してもいいと思っただけで。 ばっと顔が赤くなり、その熱さに自分で驚いた。よく分からない恥ずかしさに眩暈がする。 「きーちゃんは悪くないわよ」 冷水のような声に振り向くと、御門が髪を掻き上げながら薄く笑っていた。人形のような瞳が、二人を交互に見据える。 「アタシがうまいこと言ってキスしただけよ。きーちゃんは勘違いしてるだけ」 「ちが、」 「違うことないわ。きーちゃんはアタシのこと好きじゃないでしょ?」 そう言われて、言葉に詰まった。さっきも思ったが、好きという感情はなんだ。彼女にせがまれてしたキスの違和感とは違うんだと思う。じゃあ、本当に好きな相手に、自分は何を感じるんだ。 黙っていると、御門は見たこともない顔で嘲り、両手を広げた。 「ほら、ね? アタシはこういう奴なの。隙さえあれば友人の弟にだって手を出すわよ」 胸がズキリとした。 それが顔に出ていたのだろう。夏威は春樹の隙をついて御門に詰め寄ると、その胸倉を掴んだ。 「夏に、」 「やっぱりな。結局はお前もあいつと同類だった訳か。見誤ったよ」 苦々しく言い放ち、その躯をソファに落とす。 「帰るぞ」 「夏兄、あいつって・・・?」 「帰るんだ」 「夏兄!」 春樹の顔は見ず手だけ引いて、無理やりに部屋を出ようとする。慌てて鞄を拾う際見た御門は、寂しそうな目をしていた。しかしそれと目が合ったかと思うと、すぐにその寂しさは隠れいつもの茶化した笑顔に戻った。口が、何か言葉を紡いだ。 「え? 何・・・」 目の前で、扉が大きな音を立てて閉まった。もう殆ど人のいない研究棟は、ひっそりとした静寂を保つ。 「な、夏兄・・・速い、よ」 急いで取った鞄をなんとか肩に掛けながら訴えると、突然足を止めた夏威に振り向きざま頬を打たれた。じんとした痛みに呆然と立ち尽くし、退こうとした体を抱きすくめられる。強く、骨が軋むほどに。 「ごめんな、ハル。俺がもっと注意していればよかったんだ・・・」 「夏に、痛い・・・」 「ごめん。・・・ごめん」 力を入れられて、春樹は大人しく体を委ねた。夏威は、今でもあの日のことで自分を責めているのだ。そしてそれを思い出させたのは、他の誰でもない、自分。 春樹は泣いているのかと思われるくらい震える兄の背中に手を回し、目を閉じた。 続。 |