3.

 御門たちのゼミ室はその棟の上寄りにあり、日当たりは良好とまではいかなかったが、西日が斜めに差し込む部屋だった。
 実験器具で溢れる研究スペースとしっかり分けられた区画には座り心地のよさそうなソファセットが一式あり、その後ろに悠然と立つ棚には珈琲や紅茶の類が色々と揃っている。ソーサーなどもなんだか機能性が高そうで、春樹は中に入る前に暫し見惚れた。こんな場所で、寝てもいいのだろうかと。
 ぽかんとしている春樹に気付いたのは御門で、というより部屋には他に人はおらず、手招きされて入る際少し安堵した。ドキドキと初めての場所に入る興奮を抑えながら御門の前まで行くと、不思議な顔をして迎えられた。何ごとかと首を傾げれば、少し残念そうな溜め息を吐かれる。
「来ないかと・・・思ってたんだけどね」
 そう言われたが、ますます分からない。
 春樹にとってこの申し入れは嬉しいことであったし、断るとしたら御門たちの方なのではないだろうか。
 そう伝えると、御門はなんだか複雑な表情になった。よく変わる顔の筋肉が、少し羨ましい。
「アタシ達が嫌がることはまずないわよ・・・でも、」
 そこで言葉を切り、顔を息が触れるのではないかというくらい近付けてきた。
「もしかして・・・慣れてるの?」
 そんな距離でも瞬き一つしない春樹に焦れて御門が訊いたとき、漸くなんのことを言われているのか検討がついた。ああと手を叩き、上目遣いに目を動かす。
「昨日の、こと?」
「そう、キス」
 はぐらかしたのにその単語を言われ、少したじろいだ。ぐるりと部屋を見渡し、視線は外したまま首を振る。
「慣れてなんか・・・ただ、忘れてただけっていうか・・・」
「わ、忘れ・・・」
「い、色々あって。それに、挨拶なのかなって」
「は?」
 耳を疑うような言葉に御門は僅かに身を引いたが、どうやら本気らしいと分かり体勢を整えた。
「ほら、あんたってこういう喋り方だし。キスとか、よくしてそうなイメージがあるっていうか・・・」
 言い訳になると饒舌になるのは、臆病だからだろうか。誰かに嫌われることが、好かれることが、恐い。
 前に出した両手をぱたぱたと振って御託を並べていたら、御門は腰に手を当てて大業な溜め息を吐いた。呆れているというよりは愕然という表記の似合うその溜め息に眉を下げて不器用に笑うと、拗ねた風に唇を尖らせた御門と目が合った。
「じゃあ、挨拶でいいわ」
 言い捨て、頭を抱えるようにして額に唇を押し付けた。次は瞼に。そして、頬の一番隆起したところへ。
 くすぐったがって目を細めると、前髪を避けられ目をしっかり合わされた。
「今は、挨拶でも」
「え? どうい・・・」
「はろー仁成くん! あ、噂のきーちゃんじゃないの! 何さこんなとこで突っ立って」
「・・・敬心」
 ん? と小首を傾げるのは、ここのメンバーの一人、浅月だ。小さめの目をくるりと動かし、春樹を下から覗き込むようにする。
「やっぱり、いつもと違うタイプだよねえ、仁成く・・・」
「アンタ、うるさい」
 ぺしんと叩かれ、浅月はムっと頬を膨らませた。
「何さ。意地悪いんだから」
「黙りなさい。・・・ごめんなさいね、うるさくて」
 二人の様子に気を取られていた春樹は、急に矛先を向けられて慌てて首を振った。
「いや、俺は・・・」
「まあゆっくりしていきなさいよ。はい、ここはきーちゃんの場所」
 肩を押され座らされたのは、ソファセットの中でも長いもので。ふかふかのそれに内心凄く喜んでいたら、浅月が何かを投げてよこした。
 うまく受け取れなかったそれはまふっと春樹の顔に当たり、ぼそりと膝に落ちた。肌触りのよいブランケットは、触れるだけで温かかった。
「これ・・・いいの?」
「どうぞどうぞ」
 二人に言われ、それを顔に押し当てる。ふかっとして、気持ちいい。
「嬉しい・・・ありがとうございます」
 無防備に笑われて、御門も浅月も目を丸くした。そんなことには気付いていない春樹は持ってきた鞄の形を整え簡易枕にすると、羊を数えることもなく一瞬で眠りに落ちた。浅月が、小さく噴出す。
「か、可愛いね・・・」
「でしょ? サイコーなのよ」
 近寄りたい衝動を抑えているのか、御門はやけに喉を上下させている。そんな様子に笑い、浅月はもう一度春樹を見た。
「・・・夏威先輩とは、似てないね」
「そうね。・・・今日から、迎えに来るわよ」
 浅月はビクリと肩を揺らし、御門を振り仰いだ。
 その切羽詰ったような顔を見て、御門が呆れを含ませた笑顔を浮かべた。
「何驚いてんのよ。嬉しいでしょ?」
「俺は・・・ね」
 暗くなった表情を隠すように俯き、浅月は自分の研究ブースに向かった。その後姿に、御門は溜め息を漏らす。
「全く、何があったんだか」
 何も知らない春樹だけが、すやすやと気持ちよさそうな寝息を立てていた。


 暫くは平和に過ぎた。
 痴漢は時々されたが、以前ほどの頻度ではなくなったし、しかも時々親切な人がその間に割り込んだりもしてくれた。兄とよく出るようにもなったし、帰りはいつでも一緒だ。睡眠不足を感じることも、なくなっていた。
 しかし未だに分からないのは兄の態度で、夏威は春樹を迎えに来る際誰とも会話を交わそうとはしない。唯一自分から声を掛けるのは御門くらいのもので、それも誰某教授がなんだとか学生のレポートがどうとかいう事務的なものばかりだった。
 浅月と紅子には、自分からコンタクトを取らない。浅月に至っては、話しかけられるのを恐れているようだった。春樹から見れば御門のほうが夏威の常識に咬み合わないキャラクターのようであったから、社交的で人懐こい浅月を避ける理由が分からない。
 そんなことを思いながらブランケットに包まって浅月を見ていたら、何故か照れたような笑いで窘められた。
「ね、そんな目で見ないでくれるかな・・・なんか恥ずかしいんだけど」
 あと小一時間もすれば夏威が迎えにくる時間だ。最近は夏威が来る前に帰宅していた浅月だが、今夜はゼミ論発表の途中報告が近いとかで少し忙しいようだった。その資料綴じを、予定より早く目の覚めた春樹が手伝っている、という状況だ。御門は、少し前からどこかへ行ってしまっていた。
「だからさきーちゃん、こんなとこ仁成くんに見られたら誤解される訳で・・・」
「誤解って?」
「ほら、仁成くんってばきーちゃんに入れ込んでるし」
「違うよ。あの人は、珍しいだけさ」
 何日か一緒に過ごしてみて、御門の功績や人望の凄さは春樹にもよく分かった。
 しかし、同時に自分がどれだけ御門を知らなかったのかが浮き彫りになる。発見した法則も、名前ですら知らなかった春樹を、御門のシンパと言われている奴らは妬むような視線を送ってきた。中には中学生のような嫌がらせをするような輩もいて、その度に御門は怒っていたが当の本人は至って無関心を装っている。気にしない。自分が知らないのは、本当のことだから。
 そうやってたじろがないところや、本当に自分を知らなかったのかという驚きなんかが、御門は楽しいようだった。時々春樹が聞いてきた新しい情報の確認を取りに詰め寄ると、御門はいつもくつくつと笑いを堪えるような動作をした。それが、春樹を時々ムっとさせる。
「俺は、夏兄の後を追うってことしか考えてなかったからさ。知らないのは当然だし、それを笑うのはさあ・・・」
 キスだってそうだ。
 春樹にだって女の子との経験はある。セックスだって、してみた。しかしどちらもそれほど感慨深いものではなく、御門としている挨拶代わりのキスにもさほど何も思い入れはない。なのに、執拗にそれに意味を付けたがるのは、春樹が何も知らないと笑われているようで。
 余りにもムカついたので今日は咬みつくように自分からしてみたら、最初は驚いていたものの笑い飛ばされてしまった。口を押さえていつまでも小刻みに笑い続ける御門を無視して、眠りに就いた。
「可愛くて堪らないんだと思うな、僕は。仁成くんは、誰かのことを笑ったりしないもの」
「でも・・・」
「それにしても、きーちゃんはいいね」
「え?」
「夏威先輩の後を追うってのは?」
 話を逸らされた気がしたが、春樹は問われたことに応えることにした。ブランケットを掲げて、苦笑いする。
「人の気配がないと眠れないとは、言いましたよね? だからこうしてここにいるんですけど・・・やっぱ一番は夏兄の傍で」
 ブラコンだと笑われそうだったが、正直に話した。
 兄が帰るまではまんじりともできないこと。今も同じ部屋で寝ていること。時々、眠るまで頭を撫でてもらっていること。
 春樹自身変な話だとは思っていたが、聞いている浅月も不思議な表情になっていた。照れて顔を上げていなかった春樹は、浅月が暗い色を顔に出した一瞬を見逃した。
「そう・・・仲が、いいんだね」
 急に声のトーンが落ちた気がして顔を上げると、いつの間にか浅月は資料をまとめ終え立ち上がっていた。
「手伝ってくれてありがとう。じゃあ、もう帰るね。二人によろしく」
 笑った顔なのに、泣いてるみたいだと思った。
 春樹は何か言い挿して、そして何も言えないことに思い至り口を閉ざした。浅月が何を思っているかなんて、分からないのに。
「あさ、」
「じゃあね」
 扉を開けたところに御門が戻ってきて、挨拶もそこそこに浅月は逃げるようにその場を後にした。御門も、首を傾げている。
「何かあったの?」
「よく・・・分からない」
 会話の始終を話すと、御門は口に手を当ててヤバいといった顔をした。
「それは・・・ちょっとマズったわね」
「何が? やっぱ、俺って変な奴って思われた?」
「そうじゃなくて・・・」
 御門は言葉を選んでいたようだが、やがてそれよりも重大なことに気が付いたというように顔を上げた。そして春樹の肩を掴み、ガクガクと揺らす。
「まさ、まさか、なっちゃんともキ、キス・・・してたり?」
「しないよ。同じベッドで寝てはいるけど」
 というか、名取家にベッドは一つしかない。そう言うと、御門は頭を抱えて悶絶した。
「うら、羨ましい! 兄弟だからって、そんなこと・・・っ」
「なんだよ、お前も夏兄と寝たいのか? 人気あるな、夏兄って」
「なんでそうなるのよ!」
「え?」
 違うのか。春樹は御門が取り乱す理由が分からなくて頭を掻いたが、真剣に考え始める前に夏威が顔を出した。ソファに座りもせず変な声を上げて部屋をうろつく御門に一瞥をくれてから、春樹に手を伸ばす。
「待たせたな。今日は何が食べたい?」
「んーと、魚」
「素材じゃなくてメニューを言えよ・・・」
 勝手に和やかな雰囲気を作る二人を恨めしそうに見ながら、御門が叫んだ。
「ああもう! アタシの前で新婚みたいな会話をしないでちょうだい!」
 夏威がその態度に明らかな侮蔑の視線を、春樹は全く分からないという視線をぶつけた。
「阿呆め。兄弟で新婚も何もあるか」
「そうだよ。変な人だなあ」
 変なのはあんたらだ。
 御門が嫉妬に狂ってしまった所為で、結局春樹は浅月の態度の変化も、御門の本心もろくに考えられないまま部屋を出た。





続。