2. その日、名取春樹はいつものように昼休みを兄の夏威と過ごすことができなかった。 それはつまり貴重な睡眠時間が減るということになるのだが、友人の誘いを断る訳にもいかない。というか、その誘いはどちらかというと脅迫寄りで、乗らざるを得なかっただけに過ぎないのだが。 「で、でさ! 名取と御門さんって、どんな関係なんだよ?!」 講義の終わった教室で、男ばかり数人が近くに座り顔を突き合わせている中で、さっきから押し付けあうようにしていた最初の一声を漸く一人が発した。 話はこうである。昨日学食でいつものように兄と二人で食事をしているのを見つけた一人の友人が、話しかけようと近くに行こうとしていた時に、御門が春樹に話しかけた。春樹に取っては一応顔見知りなのでどうともない事実だったのだが、ここに集まる連中にしてみれば大きな事件だったらしい。よく分からないので紙パック入りのコーヒーを吸いつつ首を傾げると、不満だったらしく何人かが妙な呻き声のようなものを上げた。 「お前さ、本当に分かってない訳? あの、あの御門さんに話しかけられるのって、というか名前まで覚えられてるなんて、相当凄いことなんだぜ?」 「何、あの人そんなに記憶力ないとか?」 「ちげーよ! 普通の人じゃまず印象にすら残らないって話!」 意気込んで言われても分からないものは分からない。憮然として買ってきたパンを齧ると、また何人かが溜め息を漏らした。 「勿体ない・・・なんだってこんな天然くんがあの人の目に留まったんだか・・・」 流石にムっとした。 兄に抜けていると言われることはよくあるが、それは肉親ゆえの言葉だと思っている。まだそれほど仲良くもない友人に言われるのとは訳が違う。こんなことを言われるハメになった諸悪の根源を思い浮かべ、春樹はぶすっとして言った。 「そんなに言うけどさ、どれだけ有名なんだよ、あのオカ・・・」 最後まで言う前に、口に誰かのお弁当に入っていたエビフライを突っ込まれた。何事かとは思ったが、口に入れられたので反射的に咀嚼する。旨い。 機嫌を損ねていたことなど忘れ飲み込むと、それを待っていたかのように小声でまくしたてられた。 「この、馬鹿! もし御門様シンパがいたらどうしてくれんだよ!」 「お前はお気に入りかもしんないけどさあ、俺らは一般人な訳! 殺されたくないの!」 「次言ったら殴る!・・・いや、なんか奢らせるからな!」 四方から叱咤されて、流石の春樹も閉口した。まわりには数えるほどの人、しかも結構離れた位置にしかいないのにとも思ったが、黙っていた。 その隣で、唯一黙って食事を終えた大野翼が、やれやれと肩を竦めた。童顔を隠すための黒フレーム眼鏡のブリッジを押し上げ、全体を見回す。 「お前らさ、名取が混乱してるだろ。騒ぐ前に教えてやれよ」 大野は幼い顔に小柄な身長と、ぱっと見はまだまだ高校生でも通用しそうな外見をしているが、このグループではブレーン的な役割を果たしている。一番真面目でもあるし、頭もいい。中高と生徒会長に抜擢されたというが、それも疑いなく頷ける。それほど彼の言葉にはどこか従わせる力を感じたし、年の割りに大人びても見えた。春樹に一番最初に声を掛けたのも大野なのだが、その時から春樹はこの小さな青年を気に入っていた。まあ、小さいと言ったら殴られたのでもう二度と言わないと誓ってはいるのだが。 その大野に助け舟を出され、春樹は簡単に乗り込んだ。周りの連中も同じ考えのようで、教えてやれと言われたのに誰一人として何も言い出さない。焦れた大野が後頭部を掻き話し出すのは、すぐのことだった。 「俺も人伝の内容しか知らないからな」 曰く、彼らはあと一人女の人を足して成る理学部四年のスリートップとして有名なのだそうだ。ゼミも一緒で、三年目の最初の頃には既に就職先や院入りが決定していたという。 中でも際立つのがさっきから幾度となく名前の出ている御門仁成その人で、本人の異様さも目立つが、それ以上に彼の研究やその成果は世界でも注目されるほど。多くの大手企業や研究所が、彼のことを喉から手が出るほど望んでいるらしい。 「・・・嘘だろ」 自分も夏威という秀才の傍で育ったが、そんなに秀でた人を見たのは今までに一度もない。というより、兄より優秀な人なんて知らない。にわかに信じられない内容なのに、やけに喉が渇くのは静か過ぎる雰囲気の所為だろうか。それとも、御門の中に何か尋常ではないものを感じ取っているためなのか。 少し放心気味の春樹を見ながら、大野は更に続ける。 「嘘なものか。それに、さっき名取が言いかけた呼称だけどな、」 「自分で言ってたぞ?」 「・・・凄いなお前」 大野や周りの連中の驚きについていけない。パンも完食したことだし、さっさと寝たい気分でもあった。 「とにかく、あの人自身に聞かれるのは全く問題ないんだよ。ただ、これだけ有名だと熱狂的なファンも付く訳よ。こいつらが怯えてるのは、その報復」 「ふうん・・・」 興味のなさそうな返事をした春樹に憤慨し、周りの連中は頼んでもいないのに口々に残りの二人についても説明してくれた。 女性が橘紅子。美人だが気が強いのと抜けた性格で、モテるのに彼氏はできないという人。しかし頭のレベルは最高な上回転速度も速く、口喧嘩になれば誰も敵わないという。しかも、家はヤクザという噂のおまけ付き。 もう一人が浅月敬心で、三人の中では一番地味に見える彼も全体からは一目置かれていると言う。噂に過ぎないが、この大学内にあるパソコンのセキュリティを見直したのは彼だとかで、そういった面では三人の中でも随一を行くんだとか。 とにかく有名な三人だというのが分かったのでそろそろ寝ようかと思ったのに、時計はもう次の講義が始まる時間を指していた。 げっそりした気分で目を擦る春樹に、大野が付け足しのように言った。 「ちゃんと知りたいのならさ、お兄さんに聞いてみろよ。あの人が院にいた二年間、御門さんはヘルプに付いてたんだぜ」 一人で電車に乗るのは、入学式の朝以来だった。あれ以降は大体友人と帰ったし、時に帰宅の遅くなる兄に合わせて夜中でガラガラの車両に乗ったりするからだ。 そのおかげなのか、あれから一切痴漢に遭っていない。多少触られることはあるにしろ、前みたいに大胆な輩はいなくなった。漸く外見通り平凡な通学を遅れると、春樹は嬉しく思っていた。 しかし友人と帰る時には一つの問題もあった。眠れないのだ。 春樹はある事情があって人の気配のないところでは寝ることができない。肉親ならば、同じ家の中まで。知人なら同じ部屋の中にいてくれないと、眠ることができない。それも、知人はよっぽど信頼している相手でない限り無理だった。 兄を追って都会まで出てきたのもこれが理由である。 二年間は祖父母で我慢していたとはいえ結局熟睡できたためしはなく、仕方なしに学校で眠っても疲れは取れない。今では夏威と一緒に寝ることができるとはいえ彼の帰宅は遅い。そんな訳で春樹の取った妥協策は小まめに睡眠を摂るというもので、長い昼休みなんかは兄といるようにしていたのだが、今日は思いもかけない事態でそれも叶わなかった。しかもそんな日に限って空き講も休講もなく、春樹は最後の手段であった電車内での睡眠を実行しようとしていた。 ここは他人ばかりだが、逆にその他人同士が見張り合ってお互いに気を張っている。そういう中の方が落ち着く春樹にとっては、電車はまあいい睡眠の場であったのだ。 既にホームに止まっていた電車に乗り込み、座席の端に座りうつらうつらしていたら、耳にあの独特の声が聞こえてきた。 「あ、きーちゃん。また会ったわねえ」 「・・・ども、」 御門が入るとほぼ同時にドアが閉まり、電車は金属の軋む音をさせながらじりじりと走り出した。隣に座る御門が、春樹の顔を覗き込む。 「昨日までは全く会わなかったのに、なんか嬉しいわ」 「・・・俺が入るって、分かってたんだ」 「ま、ね。なっちゃんの最愛の弟が来るってのは、彼の口から聞いていたし」 にこにこと話す口元を見ながら、まずいなと思った。 根が真面目なのか、それとも夏威の教育の賜物か。春樹は講義中に居眠りをすることをよしとしない傾向にあった。であるから本日も一日中ぎっちりと入っていた講義を隅から隅まで聞き逃すことのないよう目を開け続けていたから、今更になって眠気に見舞われた。しかも、御門は出会いが出会いだけに信頼もある。適当な相槌を打ちながらも、春樹は己の瞼がとろとろと落ちていくのがよく分かった。 「そういえば。きーちゃん、あなたまだ痴漢には遭うのかしら?」 「え・・・うん。露骨なのは減ったけど、触られるのは、まだ・・・」 「まだ? ・・・あいつら、口ほど遣えないのね・・・」 御門の言葉が脳を滑り理解不能になってくる。耳は音をただ拾うのに、理解する部分がぐずぐずと心地よい眠りに溶け崩れようとしている所為だ。 聞かなくては。こんなところで寝る訳には、いかない。 そう思えば思うほど頭は重く鈍くなり、御門の顔が霞んだなと自覚したすぐあと、脳は一切の情報をフェードアウトした。 機械的な音声のアナウンスに目を開けると、横になった状態で頭を撫でられている感触があった。辺りはもうすっかり暗くなっていて、自分が何故こんなところで目覚めたのかがさっぱり分からない。 何か手がかりをと起き上がろうとしたときにその姿を見つけ、一気に状況を理解する。そこには、穏やかに笑う御門の顔があった。 「おはよう・・・ってのは変ね。どう? 起きられそう?」 また頭を優しく撫でられ、その時漸く自分の頭が乗っているのは御門の膝だということに気が付いた。弾けるように身を起こし、後頭部の髪の乱れを気にしながら目をぱちくりさせると、御門はまたくすくすと空気を漏らすみたいに笑った。 「大丈夫よ、寝癖なんてないから」 「じゃなくて、俺、え? なんで・・・」 うろたえる春樹を見て優しく微笑むと、御門は読んでいた文庫本をぱたんと閉じた。 「ここは私の最寄り駅。家に連れていってもよかったんだけど、お兄さんに連絡したら迎えにきてくれるそうだから。暫くここにいたのよ」 一人にはできないしねと言われ、春樹はぶんぶんと首を振った。 時計を見れば、既に九時を過ぎている。電車に揺られていた時間を差し引いても二時間以上は膝を借りていた計算になり、春樹は申し訳なさで頭がいっぱいになった。なんにしても寝すぎだ。兄といたって、電車内でこんなにくつろいだことはなかったのに。 冷や汗が噴出すほどの自己嫌悪で黙ってしまった名取の頬を、御門は輪郭をなぞるように撫でた。くすぐったいような仕草に、息が詰まる。 「あ、の・・・?」 「えい」 緊張に耐え切れなくて春樹が声を発すると、おどけた顔で頬をつねられた。痛くはないが顔が歪む。行動が理解できなくて再び黙ると、御門は微笑んだ。 「気に病むことないわよ。アタシは好きでやったんだから」 きゅっと、胸の辺りが縮むような気がした。目の前の男は、口調は変なのに妙に癒される。傍にいたいと、兄以外の相手では初めて思った。 なんだか気恥ずかしくなり目を逸らす春樹の頬から手を離し、御門はまた本を開いた。さりげない気遣いに、また胸が痛くなる。甘いものを食べ過ぎた時のような、焼け付く痛み。ただ、それは痛いだけではなく。 「・・・帰らない、のか?」 「なっちゃんが来るまではいてあげる。危ないからね」 「危ないって、女の子じゃないんだから・・・」 「お兄さんに心配かけたくないなら、言う事聞きなさい」 子供に言いつけるように言われ、春樹は言葉を飲んだ。それを了解と見たのか、御門がにこりと笑う。 御門が再び本に目を落としてしまったので視線を揺らせば、ここは自分の利用する駅の隣だった。余りにも近いことに驚いたが、言い出して帰るのも気まずい。夏威が来ることだけを、今か今かと待ち続けた。 そうやってやきもきしながら沈黙が嫌で手遊びしていると、御門が不意に口を開いた。 「変なこと訊くけど、もしかして余り眠れていないのかしら?」 「え?」 「凄いよく寝ていたから。疲れているというよりは、ずっと寝不足だった、みたいで」 気の所為だったら、と謝る動作を首を横に振ることで制した。間違ってはいない、と。 御門に詮索する気持ちはないようだったが、迷惑をかけた以上秘密にしているのも忍びない。ぽつりぽつりと、春樹は自分の癖というよりは体質のようになってしまったことを話した。 御門は驚いていたようだが、疑っている風でもない。きちんと聞いてくれることが嬉しかった。 「原因とか・・・あるの?」 「あ、まあ一応は」 それは流石に言いにくい。そう思って口ごもると、察してくれたらしく御門は軽く手を振った。顔を線路に戻し、春樹が起きてから三本目の電車を見送る。 「じゃあ・・・ウチに来る?」 「え?」 「ウチと言ってもゼミ室のことだけどね。ウチは教授も滅多に来ないし、お兄さんが迎えに来るまでいたらいいわ」 他のメンバーについて説明され、知っているとも言い出せず頷いていたら、いつの間にか行くことが決まっていた。 「朝も大体八時にはいるから、講義がない時なんかも来ていいわよ。あるものは好きに使っていいし・・・」 「っちょ、ちょっと待って・・・!」 ぺらぺら話す御門の襟元を掴んで止めさせると、不思議そうな顔をされた。しかし、理解できないのは春樹のほうである。親切で言ってくれるのは分かるが、何故。まだ会って僅かしか経っていないのに、こんなに良くしてもらう謂れはない。 そう思って恭しく辞したのに、御門はまた奇麗に微笑むだけで。 「だから、人の親切は素直に受け取りなさい。それに、私にもメリットはあるのよ」 「メリット?」 「そう、メリット」 ホームのアナウンスと被り、よく聞き取れない。聞き取ろうと耳を傾けたが、今度は車輪の止まる音が煩くて全くの無音と等しくなる。 リズムのある金属音と、レールが軋む時に発する悲鳴のような音。それらが治まって漸く人の声が聞き取れるようになった時、御門の唇は触れそうな位置まで近付いていて。 「・・・たとえば、こういうこと、よ」 ちゅ、と掠めるようにキスされた。 余りにも唐突過ぎて、何がどうこうという感想も湧かない。ただ、この人は近くで見ても奇麗な顔をしているな、とだけ思った。 電車の扉が開き人がわらわらと降りてくると、御門は呆けた春樹の頭上越しに目を凝らし、そしてすいと立ち上がった。 「お迎えよ」 「・・・え? ちょ、待って・・・」 「春樹!」 次々と降りてくる人の波に抗うことなく流れていく御門を追おうとしたら、背後から名前を叫ばれた。手も引かれ振り向くと、心配顔の夏威が息を切らし立っていた。 「た、倒れたって・・・」 「倒れた? まさか、寝ちゃっただけだよ」 慌てて首を振って訂正すると、夏威は重そうな息を吐いた。 「そ、か。あの野郎、適当なこと言いやがって・・・」 忙しい兄にしては帰りが早い。何か大袈裟に言ったのだろうが、春樹は少し嬉しかった。 「・・・帰るか。夕飯、今日は俺が作るよ」 「でも、俺が当番だし・・・」 「いいから」 手を引かれ、反対側のホームへ続く階段へと向かう。いい年して兄弟で手を繋ぐのもどうかと思ったが、人も少ないのでいいかと思った。夜風が、冷たくて気持ちいい。 「・・・あいつはどうした?」 「あいつ?」 「御門だよ。あの変な男」 「あ、うん。夏兄見つけたら帰った」 「そうか」 兄の表情は見えなかった。しかし、怒っているようでもない。妙にピリピリしていて、兄らしくない。 「嫌いなの?」 反対側のホームに立って数分、思い切って訊いてみた。繋いだ手が一瞬強く握られて痛かったが、離されはしない。やっぱり訊いてはいけないことだったのかと後悔した時、電車が到着した。 「・・・友達が、あの人は夏兄のサポートだったって教えてくれたよ」 乗り込んでからも沈黙はそのままで、耐え切れなくて切り出した話題にも夏威は無反応だった。その沈黙は駅を出て家路に付いてからも続き、あと少しで家が見えるというところで唐突に夏威のほうが破った。 「御門は、嫌いじゃない」 その後も何か言うのかと思ったが、夏威はそれ以上口を開かなかった。 訳が分からないが、言いたくないなら聞き出したくない。春樹は残念な気持ちを押し隠し、繋いだ手に少し力を入れた。 続。 |