13.

 連れて行かれたのは、大学とは反対方向に進んだ先にある古びた公園のトイレだった。
 アンモニアの匂いが漂う不衛生な場所に顔を顰めたが、促されるように背中を押され春樹は渋々個室に入る。床は黒ずんでいて、そこに染み付いたような悪臭はつんと鼻に付き、春樹は吐きたいような気持ちをどうにかして押さえ込んだ。
 逃げたい。それは歩いている最中ずっと思っていたことだが、春樹は自分のいる場所が全く把握できていなかった。
 男に案内されるまま通った道は細く入り組んでいた上に、かなり時間をかけてぐるぐると同じ場所を回されていたような気がする。大学からは離れているような気がしたが、それ以外に場所を特定する術はなかった。今となっては、それは本当に皆無だ。
「長かったなあ・・・君を知ったのは四月のことだったが、すぐに訳の分からない護衛が付いていたからねえ」
「護衛・・・?」
「知らないのかい? まあそんなことはどうでもいい。早いとこ済ませてしまおうか」
 くつくつと嫌な感じに笑う男に肩を押され、がくりと腰が落ちた。蓋のない洋式の便器に座り、背中を反らせる。
「今更逃げようなんて思わないことだな。君の友達の顔も、しっかり覚えたことだし」
「本当に、これで最後?」
「ああ、残念だけど約束だしね。私はそういうことは守るさ」
 顎を持たれ、口付けしようとする動作に身が震えた。嫌悪に目を逸らした春樹に気付き、男が唇を歪めて笑う。
「誰かに操立てでもしているのか? そんなもの、すぐに忘れる」
 そう言ったかと思うと、男は鞄の中から小さな瓶を取り出した。その口を開け、春樹の鼻に近付ける。
「吸いな。もっと強く」
 抵抗したが、口を塞がれてはどうにもならなかった。アルコールにも似た刺激臭が鼻から一気に気管に入り込み、目の前がちかちかと明滅した。ぐるり、天井が回るみたいになる。
「な、に・・・」
「気持ちよくなる薬さ。君だって楽しい方がいいだろう?」
「い、」
 嫌だという気持ちが、思い浮かんですぐにぐずぐずと崩れた。視界がうろうろと定まらず、男に言われるままシャツをたくし上げる。自分の体が、自分のものでないように感じられた。
「くく、奇麗な肌だ。漸くむしゃぶりつける」
 はだけた胸をべろりと舐め上げられ、悪寒と一緒に妙な焦燥感が沸いた。恐い。
 ガチガチと歯を鳴らす様子に、男がにやりと笑う。春樹の顔を間近で眺めながら、胸の突起を指の腹で潰すように転がした。
「やだ・・・っ」
「感じ初めているんだろう? 解放した方が楽だと思うがな」
 男の声が遠くに聞こえた。体の反応が鈍い。頭の中が、溶けるみたいだ。
「や、夏にぃ・・・」
 嫌がる頭とは裏腹に、撫で回される体は熱を持ったようにどんよりと重く、抵抗しようと上げた手は男の肩に弱く乗せられるだけだった。腰から下に全く力が入らない。呼吸が乱れ、苦しくなる。
「そうそう、大人しくしていろよ。その方が楽だ」
 再び押し当てられた舌の感触に、春樹はびくんと全身をしならせた。なんだ、なんか、おかしい。
「あ、ああ・・・」
 天井が回る。色の区別すら曖昧になり、風景がブレた。
「・・・っき、ぃあああぁあ!」
 突然だった。
 無理やり頭の中に映像を押し込まれるような、記憶の奔流に頭が割れそうになる。硬直したように伸びた腕で男の躯を押し返し、ばたばたと足を動かす。
 飛行機が、ぬいぐるみが、谷岡の顔が、ガラスが、兄が、兄が? 兄はあのときどうした?
「いや、いやだあぁぁぁぁっ!」
「んな、いきなりなんだ! くそ、大人しくしていろと・・・」
 口に何か布の塊を押し込まれた。それでも春樹は暴れるのをやめなかった。
 手をメチャクチャに動かし、目はもう男なんて映していないようだった。虚空を眺め、ぶんぶんと首を振る。
「んんん! んーっ!」
「静かにしろ!」
 男の手が首に食い込み、春樹はいよいよ混乱した。なんでここに谷岡がいるんだ。
 明滅する視界で、記憶の中にしかいないはずの谷岡が笑った。その後ろには、倒れる幼い躯が見えた。
 助けて助けて助けて。塞がれた口で必死に呼ぶのは兄の名前。夏威が来てくれる。いつだって夏威は春樹のヒーローだったんだ。
 ああでも。
 あのときなつにいはたおれていたんじゃなかったのか。
 ビクンと全身が強張り、見開いた目がぐるりと上を向いた。男の苛立った怒声など、もう聞こえない。聞こえるのは、あの男の下品な笑いだけだ。
 ああ春樹くん。君はなんて可愛いんだ。春樹くん春樹くん、君はもう僕のものだ。僕のものなんだよねえ春樹くん春樹くんはるきくんはるきくんはるきくんはる、
「きーちゃん!」
 バチンと、突然視界が開けたみたいに。そこに映るのは、もう何度目になるか分からない心配顔の御門だ。
「みか、」
 開けた口から、泡を含んだ唾液が大量に溢れた。それを追うように胃液も食道を昇り、ぼたぼたと色々嘔吐する。それが邪魔をして、言いたいことが言葉にならない。
「きーちゃん、きーちゃんしっかりして・・・」
「や、」
 やめろよ。汚れるだろ。
 言葉の変わりにぶちゅりと溶解した何かを吐き出して、春樹はがくりと頭を落とした。力の抜けたその躯を抱えたまま、背後で倒れる男を睨み付ける。壊れた個室の扉の向こうで腰を付く男は、その顔を恐怖に染めた。
「アンタ・・・」
「やめろ御門!」
 男の前に夏威が身を割り込ませる。
「どいてよなっちゃん。アタシはそいつを殺したいのよ」
「そんなの俺も同じだ! でもお前には、それより大事なことがあるだろ!」
 言われて腕の中の春樹を見た。春樹の手は、強く御門の服を掴んで離そうとしなかった。


 あんな悲鳴を、大野は今まで聞いたことがなかった。
 御門に話した途端目の前で繰り広げられた捜索劇も信じられなかったが、人間の口からあんな声が出るなんて更に信じられなかった。というより、信じたくなかった。その声の主が自分の友人だから、なおさら。
 ぶるりと震えた肩を、横から軽く抱かれた。それが伊部のものだと気付き、払いたかったができなかった。その腕も、小さく震えていたからだ。
「伊部・・・」
「来なければ、よかったな」
 くたびれた男が連行された後、トイレから出てきた春樹の姿は目を覆いたくなるようなものだった。御門に抱かれたその体躯は何故かとても小さく見えて、その痛々しさに胸が締め付けられた。
「俺の所為だ」
「・・・それは違うだろ」
「俺が、もっと早く気付いてやればよかったんだ」
 泣くかな。
 そう思った伊部が何か言うより先に、大野は腕を振り払い踵を返した。つかつかと帰ろうとするその腕を掴んで、振り向かせた顔は意外にも泣いてはおらず。残念そうに肩を竦めた伊部を、大野は下から掬うように睨んだ。
「なんだよ」
「いや。泣いてるなら、慰めてやろうかなって」
 伊部の言葉に大野は目を丸くし、そして怒ったように顔を赤くした。
「ば、バカじゃねえの? 大体こんなときに何言ってんだよ、心配すんのは俺じゃなくて名取だろ」
「そうなんだけど・・・お前も放っておけないし」
「いいから、離せよ。名取に会わす顔がない」
「おいおい・・・」
「大野くん!」
 伊部と押し問答しているうちに春樹を車に運び入れた御門が、二人に気付いて駆け寄ってきた。後ろから、夏威と浅月も歩いてくる。
「今日はありがとう。あなたがいてくれて、よかった」
「いや、俺は何も・・・」
「知るのが遅かったら、もっと大変なことになっていたわ。だから、ありがとう」
 そんなこと言われると困る。そう思って俯いた大野の頭を、伊部がわしわしと撫でる。
「気にしてんなよ翼ー。お前、そんな陰気臭い顔お姫さんに見せる気か?」
「え、でも・・・」
「そうだな。春樹も無事だったし、また大学で会うときそんなんじゃあいつのが気にするだろ」
 兄だという名取助教授に言われ、苦笑する。春樹の周りは、本当に派手だ。
「それじゃあ帰りましょうか。きーちゃんも送らなきゃいけないし・・・」
「お前んちに泊めてやってくれ。俺はこの後用事があるから」
 夏威の言葉に、大野を除いた一同が動きを止めた。あおのブラコンが、こんなときに弟より優先するものがあるなんて。
「な、なっちゃん・・・あなた熱でもあるんじゃないの?」
「アホか。行くぞ浅月、手伝え」
「え? あ、はい・・・っ」
 さっさと離れていく二人を見ながら、残された三人は首を傾げた。





続。