12.

「本当によかったのか? 付き合ってもらって」
 電車に揺られながら、大野が本日三度目になる同じ質問をしたから、春樹は苦笑いした。
「いいって言ってるだろ。なんでそんなに気にするんだよ?」
 だってさあ、と大野は吊り革に両手をかけて溜め息を吐いた。
 大野が気にしているのは、恐らく出かける直前にかかってきた御門からの電話だ。特に約束があった訳ではないし、優先する理由はない。それに大野との約束のほうが先だったこともあり、名取は迷った末にその電話に出なかったのだ。
 正直な本音を言えば、この間逃げるように帰ってしまったことが気まずかったのだ。御門は気にしていないだろうが、春樹の中にはまだ少しわだかまりがある。その原因が自分でも分からないことが、嫌だった。きっと訊かれたら答えられない。
「大事な用だったらまたかかってきただろうし、それもないから気にするなよ。な?」
 色々言って宥めてきたが、大野はなかなか気が晴れなかった。そんなに気にすることないのにと思うのだが、やはり大野にも何か思うところはあるのだろう。とはいえもう予定だった用事も済んだことだし、帰りの電車の中でまだ言われるのは疲れた。
 しかし漸く、名取がそう言うなら、と納得を見せた。
 その渋々と言った様子に、春樹は小さく笑う。それを怪訝に思ったのか、大野が下から覗き込む。
「だってさ、約束のある友達と何もない友達なら、約束のあるほうを優先するだろ? 俺たちが付き合ってるならともかくさあ・・・」
「そう、それだよ」
「うん?」
「前に言いかけて、結局訊けなかったんだよ」
 いつのことだと訊けば、大野は飲み会の時だと言った。そんな前の話題覚えている筈もないので、春樹は首を傾げる。
「あれさ。御門さんと付き合う付き合ってないの話。あの後訊こうにもお前が御門さんの名前出すとおかしくなるからさあ」
 すっかり忘れてた、という大野の横顔を見て、春樹は見つからないように唾を飲み込んだ。
 別に、大丈夫になった訳ではない。今だっていないことは分かっているのに、つい目が車両内を泳いでしまった。いつもの電車とは反対方向に向かった帰りなのだから、絶対に乗り合わせてはいない。
 そんな動揺を悟られないよう自然な風を装って吊り革を掴みなおし、続きを促す。
「あの時からさ、なんか違和感あったんだよ。名取、御門さんが男だから付き合う筈がないとは、一言も言わなかったじゃん」
「え?」
「御門さんも、そういや伊部さんもだけどさ、名取の周りがそういう所為なのか分からないけど、普通は男同士だから付き合わないとか返すだろ? なのにお前は、告白とかがないから付き合わないって言ったんだ」
「言った、かな?」
 何を言われているのかが分からなくて、それでも喉の奥が乾いてドキドキした。何を、何を言われようとしているんだろう。
「言ったんだよ。でさ、俺思ったんだ。つまり名取はもし御門さんに告白なりなんなりされれば、受け入れる気はあるってことだよな?」
「は」
 思考が言われたことを理解して処理する前に、車輪が軋みながらホームに入り、開いた扉からどわっと人が雪崩れ込んだ。吊り革から手を離し二人して扉側に非難した。
「ん・・・多いな、人」
「う、うん・・・」
 大野のほうはうまいこと座席と扉の角になっているところに入り込めたようだが、春樹はすっかり扉と人とに挟まれてしまった。お互い顔だけが見える状態で苦笑し合い、周りのことを考えて口を噤んだとき、妙な感触に頭が冷えた。
 背中に当たる扉にぴったりと寄り添い、ちらりと周りを窺う。その中の一人、正面にいたサラリーマン風の男が、春樹の視線に気付いてにやりとした。
 顔を近付けて、囁かれる。
「また、会ったね」
 ざわざわと、全身の毛が逆立つのを感じた。まさか、と叫びそうになり、思わず助けを求めるように大野に視線を送ってしまった。
「友達?」
 小さく訊かれ、しまったと思う。慌てて首を振るが、もう遅い。男はくつくつと笑って、躊躇うことなく春樹の性器をやんわりと揉んだ。
「やめ・・・っ」
「しぃ、静かに。お友達に気付かれてもいいのか?」
 ん? と言われ、血の気が引いた。
 幸い大野は足元に置いた紙袋が気になるらしく、下を見たままああでもないこうでもないと思案していた。このまま我慢すればバレないで済む。春樹は歯を喰いしばり、意を決した。
「物分りがいいね。そういう子は嫌いじゃないよ」
 にやりと笑う口元は、端が少し切れていた。もしかしたらこの間伊部が撃退したのと同じ男かもしれない。それを分かったところで、どうにもできはしないのだが。
 硬く唇を引き結んだ春樹の様子をとっくりと眺め、男は器用にパンツのファスナーを下ろした。周りにバレないようにとゆっくり下ろされる感覚に、身の毛がよだつ。ぐるりと胃が動くような気がして、このまま吐ければどんなにましと思った。
「少し足を開いて。そう、そうだ」
 少し開けた部分から忍ばされた手に下着の上からそこを摘ままれ、春樹は喉の奥で悲鳴を上げた。しかし大野を思い出し、必死で押し殺す。それを楽しそうに眺め、男は五指を使い布越しにその形をなぞって楽しんだ。
 気持ち悪くて堪らない。それなのに、自分でも余り触ることのないところへの刺激は簡単に春樹を追い上げ、大きくなったそれを確かめるように撫でまわされ羞恥で赤くなった。
「本当、美味しそうな体をしている。パートナーはいないのかい? 勿体ないことだ」
 訳の分からないことを呟きながら、男の指が春樹の玉を持ち上げた。ころりと転がされて、息を飲む。
「君、降りないか?」
 ただ時間が過ぎることばかり願っていた春樹に、その言葉は寝耳に水だった。
「いつもこの次で乗ってくるよね? そこで降りるなら、お友達も疑ったりしないんじゃないのかな?」
 にやにや笑いながらの言葉に、春樹は青ざめて首を振った。男が、つまらなそうに肩を竦める。
「それならいいんだ。君のお友達にでも相手してもらうからさ」
 かり、と先端を爪で掻かれ、春樹は泣きそうになった。
「何、今日付き合ってくれたら私ももう君に手を出さないと約束してもいいよ。沿線を変えたって構わない」
 ただ一度その身を蹂躙したいだけなんだ、と言う顔は、平凡そうな男を酷く恐ろしいものに見せた。かちかちと、奥歯が鳴った。
「お、の・・・」
「ん?」
 眼鏡の奥の大きな目が、ぱちりと春樹を映す。
「お、俺・・・やっぱあの人のところに寄ってこようと思う」
「え? もう大分遅いぞ?」
「け、研究室に、いるから」
 喋る間にもぐにぐにと先端を揉まれ、息が詰まる。そんな春樹を知っているくせに、男はすっかり他人のふりだ。悔しさや怒りで、目の前が真っ赤になる。
 何も知らない大野がふうと息を吐き、笑う。
「そうしてくれた方が俺も気が楽だけどな。一緒に行こうか?」
「い、いい! 大野は、先、帰ってて・・・」
 もう泣きそうだ。真っ赤になっている春樹を大野は不思議そうに見上げたが、何かを納得して頷いた。
 その数十秒後に電車は止まり、男は素早く春樹の前を直すと回りに気取られないよう手を引いて乱暴に連れ出した。春樹の足が一瞬もつれ、その拍子に大野を振り返る。大野と、一瞬だけ目が合った。
「・・・名取?」
 プシュ、と扉が閉まりかけ、大野は慌てて荷物を拾い人を掻き分けた。
「名取!」
 人と扉に挟まれながらもホームに降り立ち、左右を見渡すがもう春樹の姿はなかった。ずれた眼鏡を直しながら、小さく舌打ちする。
「あいつ・・・」
 胸がざわつく。何か、とても落ち着かなかった。
 迷っている暇はない。大野は地獄の苦行のように重い紙袋を持ち、駆け出した。もう人のはけた階段をよたよたと走り、先を急ぐ。
「おう、翼!」
 階段の途中で言われ、足を止めようとしたら荷物が振り子のように動きバランスを崩した。そのまま階段の残り数段を、どたどたと転げ落ちた。
「おいおい、大丈夫か?」
 目の前で起きた事故に、声を掛けた張本人である伊部が驚いて目を丸くした。階段脇のエスカレーターの手摺りに手をかけ、ひょいと飛び越えてから助けに向かう。
 謝りながら抱き起こそうとして、その小柄な体躯にかけた手を大野の手が掴んだ。どこか必死な形相で、見上げられる。
「名取は?!」
「は?」
「だから、名取! すれ違わなかったかって、訊いてるんだ!」
 普段もよく怒鳴られているが、それとは様子が違う。伊部は眉を寄せ、肩を掴むと軽く揺すった。
「少し落ち着けよ。お前、今日はお姫さんと一緒だったんだろ?」
 荒れた息を飲み込んで、大野が頷く。
「そうだよ。あんたのおつかいに付き合ってもらったんだ」
 ぶちまけてしまった大量の本を苦々しく見ながら言う。伊部も、苦笑して礼を述べた。
「悪かったよ。俺も忙しいんだ」
「それは別にいいんです。今は、名取が・・・」
 いつもと違い素直な言葉に大野は顔を背けて、さっきの春樹の様子を話した。話すにつれ、伊部の顔色が変わってくる。
「顔が赤かったから、御門さんの話がそんなに気になってるのかと思ってた。でも途中から変に息殺したりするし、それに・・・」
 おかしいと感じたのは、春樹がつんのめった時。あの時春樹の目は大野のそれを捉え、揺れたのだ。助けて、とでも言うように。
「まずいな・・・」
 この駅から大学まで向かうには、暫くは一本しか方法はない。薄暗いとはいえ、自分が春樹を見落とすなんて考えられなかった。ぎり、と奥歯を咬み、大野を立たせる。
「御門に知らせよう」
 そう言って淡々と本を広い集める伊部に、大野が首を傾げる。大野にも、御門に会いに行くというのが嘘だといううことぐらい分かっているのだ。
「いいから早く拾え」
「で、でも! 早く捜したほうが・・・」
「見つけたいならなおさらなんだよ!」
 珍しく厳しい表情で言われ、大野はびくりと肩を揺らした。その反応に、伊部がしまったという顔をする。
「悪い、きちんと説明してやる暇はない。でも、俺らが闇雲に捜すより、あいつに一旦話をしたほうが絶対早い」
「なん、で?」
 御門の凄さは大野も分かっているつもりだ。しかし、こんなときにそんな凄い力を出すというのがにわかに信じられない。
「いいから、奴に任せよう。あいつの情報量と人脈は、ハンパねえんだよ」
 本当は浅月のなのだが、伊部はそれは言わずに大野を急かした。
「間に合ってくれよ・・・」
 伊部の呟きに、大野も神妙な顔で頷いた。





続。