11.

「全く、お前に学習能力はないのか?」
 一日ぶりとなる自宅のベッドで、酔いの残響による軽い頭痛を抱える春樹は、兄の夏威に怒鳴られしゅんとなった。まだそう遅い時間ではないにしろ、家庭によっては就寝しているものもいるだろう。そうと分かってはいても抑えきれない怒りを、夏威は感じていた。
「昨日の今日だぞ? なんだって飲む前に気付かないんだ」
「だ、だって・・・」
「だってじゃない! 大体あれほど酒には注意しろと・・・」
「ま、まあまあ」
 立ったまま肩をいからせている夏威の後ろで、剣幕に負けて黙っていた御門が漸く助け舟を出した。
「コーヒーにコーヒーリキュール混ぜられたんですもの。飲み慣れてないきーちゃんにそれを見破れってのは・・・」
「貴様は黙っていろ」
 ばしっと言われ、御門は後ずさった。
 この部屋にはベッドサイドのテーブルと備え付けのクロゼット以外に家具はない。なので何かにぶつかる心配はないのだが、下がるとなるとどうしても注意が後ろに逸れる。その隙に、ずいと詰め寄られた。
「大体なあ、何ちゃっかり居座ってんだ、お前。ハルさえ連れてくれば用なしなんだから、さっさと帰れ」
「な、夏兄・・・それはいくらなんでも」
 余りの言い草に春樹が声を出すと、夏威は不機嫌も露に向き直った。
「ハル」
 その低い声に、春樹は肩を跳ねさせる。踵を返して、今度はずかずかとベッド際に歩み寄った。
「ハルはこいつの味方なのか? もう兄貴は必要ないのか?」
「そ、そういう訳じゃあ・・・」
 春樹が慌ててしどろもどろになる様子を暫く見て、夏威はにっこりと笑った。その頭をわしわしと撫で、両手で抱え込む。
「可愛いなあ、ハルは。・・・ん、説教終わり。気分はどうだ?」
「へ、平気」
「よし。・・・んじゃ、御門」
 振り向きながら外に出るよう顎で促し、そのまま一緒に部屋を出る。玄関も出てその向かいにある手摺りに寄りかかってから、煙草を取り出した。
「いるか?」
「・・・なら、一本だけ」
「二本もやるか」
 顔を突き合わせて火を点け、夜闇に紫煙をくゆらせる。一、二度深く吸い込んで、夏威は不敵に笑った。
「なんだ、随分様になってるじゃないか」
「なっちゃんこそ。吸わないものだと思っていたわ」
「ハルが嫌いなんだよ」
 手摺りに両肘を乗せ、少し湿った夜風を感じるように目を細めた。八階建てのマンションは、ほぼ満室の筈なのに馬鹿みたいに静かだった。
「きーちゃんが主体なのね」
 隣に寄りかかる御門に言われ、夏威はそちらを軽く睨んだ」
「悪いか? 大事で、可愛い弟なんだよ」
 その挑発的な物言いに、御門はゆるりと笑って首を横に振った。
「アタシも、妹がいるから」
「・・・妹と言い張る弟じゃないだろうな」
「ち、違うわよ! 大体アタシだって・・・」
「ああ、演技なんだったか? 普通にできるなら俺の前ではそうしてろ」
「・・・染み付いちゃって」
 照れて笑う御門に、夏威は明らかな不信の目を向けた。
「わ、分かった、分かりました! これでいいですか?」
「なんだ、やっぱり嘘か」
 つまらなそうに言われ、御門はやけくそな気分で煙草をふかした。赤い光がチリチリと進み、灰が闇に落ちていく。
「そうやってる理由、刃傷沙汰云々だけじゃねえだろ」
「う、まあ。自分を偽るのには丁度よかったというか」
「ふうん。別に興味はないんだけどな」
 けたけたと笑われ、御門は溜め息を吐いた。
 弟に惚れている以上、その保護者的存在である兄に頭が上がらないのは当然だ。しかも、少し前までは完璧に否定されていたし。
 この状況が、もどかしくもあり楽しくもあった。自棄のように御門も笑い、切り出した。
「で、なんです? 何か言うために連れ出したんでしょう?」
 吸い込んだ煙を細くだしてから携帯灰皿に吸い差しを捨てると、夏威は笑いを消した。
「春樹の話、全部知ったんだよな?」
「あ、はい」
 靴の裏で火を揉み消し、差し出された灰皿に御門も煙草を捨てた。
「思い出してはいないし、多分思い出すこともないと思ってる。けど、な」
 手摺りになっている鉄柵を掴み、夏威は痛みを堪えるような表情になる。
「もし思い出したらと思うと、俺は恐い。一人じゃ、きっと支えきれない」
「なつ、い先輩・・・」
「不本意だからな。けどお前なら、ハルも信頼してるし・・・嫌がることも、しないだろうし」
 怒っているのか頼んでいるのか分からない。それでも夏威の本心は汲み取り、御門は弱く笑った。
「約束する。きっと、守るって」
 その笑顔がなんとなくムカついて、夏威は歯軋りするほどのジレンマを押し留めて言うべきことは言ったと踵を返した。
「あ、ちょっと待って!」
 早く戻らせろという夏威の目にたじろいだが、御門は唾を飲んで我慢した。
「きーちゃんは・・・春樹は、俺のことなんて?」
 ドアノブに片手は乗せたまま上半身だけ向けて、夏威は冷めた視線を寄越す。
「んなこと知るか。俺は口説くことについて認めたつもりはない」
「そんな・・・」
 愕然とする御門を残して部屋に戻り、わざと大きな音を立てて施錠した。それでも暫く人の気配はしていたが、やがて重そうな足音とともにそれも遠ざかっていった。
 それを確認してから、意地悪く笑う。
「簡単に教えてなんかやるか、ボケ」
 大事な弟なのだ。放課後を一緒に過ごせるだけで我慢しろ。
「それにどうせ、ハルは・・・」
 口にしかけた事実に苛立ち、夏威は浴室に向かう。煙草の匂いを消さなくては春樹と同じベッドに上がれない。
 その後寝るために春樹のいる寝室に戻ると、その気配に春樹がごろりと寝返りを打った。
「どうした、眠れないのか?」
「う、ん・・・夏に、」
 両手を伸ばして呼ばれたので、まだ少し濡れた髪が触れないように気を付けながら横に入り込んだ。指を絡ませれば、子供のように喜びはにかんだ。
「俺、変じゃなかった?」
「何故?」
 訊くと、恥ずかしそうな顔をしてシーツに頬を擦りつけた。
「ドキドキ、するから」
 可愛いが、そうさせているのが御門かと思うと無性に腹が立つ。しかしそんなことは億尾も見せず、夏威は春樹の頭を撫でた。そうすると、猫のように目を細めて擦り寄ってくる。
「あの人がいると、ドキドキする。俺、変なのかな?」
「変なもんか。きっと酒が残ってるんだ」
「そう、かな・・・」
 そうだよと、春樹がよく分かっていないのをいい事に適当なことを言う。
 目を閉じるまで暫く撫で、髪を乾かすため夏威は一旦ベッドを降りた。
「・・・ほんっと、ムカつく」
 部屋のドアを音を立てないように閉めながら、夏威はここにはいない御門に吐き捨ててから洗面台に向かった。


 翌朝になっても、春樹はまだ胸が重いような気がしていた。
 それが気になって腹は空かないのに、夏威に言われて口にすれば意外と入る。変な二日酔いだなと首を傾げながら登校すると、教室に入る寸前で大野に下から縋りつかれた。
「な、な、な名取! お前、無事か・・・っ?」
「何が? ああ、あれ? あれだったら伊部さんが、」
「うあぁ! あいつ、やっぱりなんかしたのかよ?! すまねぇ名取・・・俺が気付いていれば・・・」
「何言ってんの? 伊部さんが助けてくれたんだけど」
 真実を言っただけなのに、大野はきょとんとした。掴んでいた服を離し、本気かと春樹の顔を覗き込む。
「それ・・・なんの話だ?」
「え? 痴漢の話じゃないの?」
 それはそれで驚いたようで、大野は大きく一歩下がった。そして目を閉じてゆっくり首を振ると、なかったらいいんだと安心したように呟いた。
「あの人、変なこと言ってたからさ。ちょっと心配してたんだ」
 安堵した風に笑い、大野は春樹を連れ立って教室に戻った。深く椅子に座った大野の傍に座り、春樹はその顔をとくと眺め、言う。
「大野って、伊部さんのこと好きだよね」
 小さな声で言ったつもりだったのに、大野だけでなく周りの人間もぎしりと固まった。その後暫く沈黙が続き、何か他の話題に変えようというぎこちない空気の中で大野は立ち上がり春樹の襟元を掴んだ。わなわなと唇を震わせ、こめかみもひくついている。
「おい、名取? 天然なのもいいが、こういう勘違いは・・・」
「えー? でも俺、こういうの外したことない、」
 がばっと口を押さえられて、春樹は目を丸くした。その視界に、赤くなって怒りを堪える大野の顔が映った。
「じゃあ、これが記念すべき第一発目の外れだ!」
 言い切ると大野はその怒りをなかったことのように鎮め、春樹の襟を解放した。春樹はそんな様子に目をぱちくりさせ、机にぴたりと頬を付けた。
 大野がなんで怒るのか分からない。人を好きになるのが、恥ずかしいのだろうか。
「俺・・・分かんないし」
 今度はちゃんと小さく呟けた。誰にも聞かれることのなかった言葉を、胸中で反芻する。
 好きの気持ちは、なんなのか。
 そう思ったとき、脳内に御門の顔が浮かび上がった。ドキリとして、顔に手を当てる。
「あ、れ・・・?」
 なんか熱いような気がする。昨日といい今といい、御門を思うとドキドキする。
 春樹は誰も見ていないと分かりながらも、なんだか恥ずかしくなって内心で叫びたいような衝動に襲われた。


 放課後、春樹はいつかのようにゼミ室の前を右往左往していた。入りたい。でも、逃げたい。よく分からないジレンマに、春樹は眉を寄せた。
 やっぱり帰ろう。そう思って踵を返したら、誰かとぶつかった。
「いたっ」
「っと、危ねえな。・・・なんだ、お姫さんじゃねえの」
「伊部、さん?」
 春樹の視線は伊部の頬に釘付けになった。そこに、大きな湿布が貼り付いていたからだ。しかも、唇の端はうっすらと血が滲んでいる。
「そ、それ・・・どうし、」
「はは、そんなに見つめんなって。入るんだろ?」
「え? あ、入らな・・・」
 否定も空しく、腕を引かれ中に連れ込まれてしまった。なんだか久しぶりのように感じる、薬品の匂い。それに胸がきゅっとなっている間に引っ張られ、ソファに落とされる。結局、入ってしまった。
「きーちゃん、と、伊部?」
 紅子が実験器具を持ったまま目を丸くしている。そりゃ関係ないもんなと思っていたが、どうやら違うようで。
「あ、あんた・・・何のこのこと・・・」
「あー大丈夫紅子ちゃん。伊部くんは今日僕に用事だから」
「はあ?」
 ノートパソコンを持った浅月もソファに座り、三人で顔を突き合わせる。春樹も、紅子同様状況が掴めないでいた。
「あ、きーちゃんは寝ててもいいよ。つまらない話だから」
 そう言って渡されたブランケットを、春樹は広げる。
「御門は?」
 伊部の問い掛けに、春樹の肩がピクンと揺れた。部屋を見渡し、その動揺を見ていた人がいないことにホッとする。
「仁成くんは先生のところ。予算の話し合いだって」
 会うとドキドキして嫌なのに、いないとなると妙に暗い気分になった。受け取ったブランケットを被り、不貞寝するように丸くなる。
「じゃあ・・・寝ます」
「うん、おやすみー」
 どんな時でも、目を閉じれば眠くなる。
 これはある種春樹の特技であるが、今ほどそれをありがたく思ったことはない。じわりと岩に染み広がるように脳を侵食していく眠気が、考える力を削いでくれる。沈み込むような眠りに落ちながら、春樹は久々に安らいだ。


 それなのに目を覚ましたとき最初に見えたのは御門の顔で、春樹は起き抜けに叫びそうになった。咄嗟に口を押さえて、覗き込む御門の目を見る。
「あ、の・・・?」
「そろそろ、なっちゃんが来るわよ」
 そう言いながらにっこり笑われて、春樹は胸が痛くなった。撫でられれば、触れたとこから熱くなる。
 自分はおかしくなってしまった。兄の言う、酔いの所為なんかじゃない。絶対違う。
 黙って固まる春樹に首を傾げ、御門は手を離した。その手を春樹の目が追うが、それに気付く前に御門はくるりと背を向けた。
「あ・・・アタシも帰る用意しようかしら」
「あ、待っ」
 思わず半身を上げた所為で、毛布がばさりと音を立てて落ちた。手が、御門の服を掴んでいる。
「き、ちゃん・・・?」
「あう、俺・・・」
 ぱっと手を離すが、取り繕いようもない。ソファの上をずり下がり不器用に笑ったら、背もたれに付いた手で挟まれた。それらをちらちらと見て、一瞬だけ御門を見て視線を逸らそうとしたら、片手が顎を取り前を向かされる。
「キス、してもいい?」
「あ、いや・・・」
 ドクドクと耳の近くで鳴っているのかと思うほど心臓がうるさくて、春樹はそれが御門に聞こえはしないかと動転した。これ以上近付かれると、非常に困る。
 返事もできずに固まっていたら、扉の向こうから近付く足音が聞こえた。それを耳にした途端、御門を引き剥がして扉に駆け寄る。目の前で扉が開き、驚く夏威と目が合った。
「は、ハル・・・っ?」
「か、帰ろう!」
 呆然とする夏威の腕を引き、ばたばたと逃げるように走っていく。残された御門は、ただぽかんとするばかりだ。
「なんなのかしらね、全く」
 それでも嫌な拒絶ではない所為か、御門は髪を掻き揚げながら少し嬉しそうに笑った。





続。