10.

 嫌っていた人に親切にされるとなんだか居心地が悪い。正直伊部のことはまだ嫌いだと思っている。しかし助けてもらったのにいつまでも嫌な顔をしている訳にもいかない。渋々とついて行った伊部のアパートは、一人暮らしには順当な部屋だった。
「コーヒーしかないけど」
「あ、大丈夫です」
「んな緊張すんなよ。まだこの間のこと根に持ってんのか?」
 図星を射され、春樹は目を泳がせた。その反応にけらけらと笑い、伊部はコーヒーを飲んだ。
「あれは冗談だって。好きな子って、苛めたくなるじゃん」
 あんたは小学生か。そう突っ込んでやりたかったが、もう一つの疑問の方が大きかった。伊部のからかいを多く含んだ目をきょとんと見つめ、口にする。
「伊部さんが好きなのは、俺じゃないでしょう?」
 真っ直ぐな視線に、伊部は居直った。
「・・・なんで、そう思う訳?」
「俺、そういうのは割りと分かるんです。昔から、人の好意には注意を払って見てたんで」
 これは、二度とあんなことにならないよう得た術だ。自分に向けられている好意が普通のものなのか、違うものなのか。そうやって注視している内に、自分に向けられるもの以外にも敏感になったというか。春樹の勘は、ほぼ完璧に的中する。
「伊部さんは俺のこと好きじゃないよ。それに、あの人のことだって言ってるほど嫌いじゃない。違う?」
 この間の意趣返しとばかりに自信満々な態度で言われ、伊部は少し身じろいだ。そして唇を歪めるように笑い、春樹をじとりと見る。
「な、に言ってんだよ。俺は、御門が大嫌いなんだぜ」
「俺はあの人って言っただけですよ?」
 そこで春樹は初めて笑い、伊部の視線をまともに受けた。その余裕の態度に、伊部は諸手を挙げて観念する。
「参った。ただの天然じゃなかったんだね、お姫さん」
「天然でもないですけど」
 にこりと笑ってコーヒーを飲み、春樹はその笑顔のままふらりと意識を失った。
 伊部は後ろに倒れていくその体をさほど慌てもせず片手で押さえ、カップも難なく手に取った。腕の中ですやすやと眠る春樹を眺め、下唇をついと尖らせた。
「御門に嫌がらせする理由がなくなっちまったじゃねえか、この天然姫が」
 今日伊部が春樹を助けたのは、本当に気まぐれだった。しかも、気付いた当初は放っておくつもりだったのだ。
 自分は御門仁成を嫌いである。本当にそうだったのか、それとも思い込みたかったのかは今となってはよく分からない。何かしら恨みたいだけだったのかもしれない。
 しかし今、それすらも打ち砕かれた。伊部に、御門を恨む理由なんて本当はこれっぽちもないのだ。そう、奇しくも春樹の言う通りだ。
 御門の余裕ぶった顔が焦るところを見たかったのは本当だ。だから、お気に入りの春樹が痴漢に遭って傷付いたらどうなるのだろうと興味が湧いた。
 だが。
 春樹が、本当に辛そうだったから。痴漢なんかに、傷付けさせたくなどなかった。
 大人しく付いて来た春樹に、苦笑する。
「あんたの所為だぜ、全く」
 尊敬していた。男として、科学者として。
 その気持ちがブレ始めたのはいつからだっただろう。
 コーヒーに仕込んだリキュールの効果で昏々と眠り続ける春樹の頬を小突いて、その身をベッドに運ぶ。見た目以上に軽いその体は、少しでも力を入れれば折れてしまいそうだった。
「・・・ん」
「あ、起きた?」
 伊部の言葉にこれといった反応はなく、ただ声が漏れただけのようだった。苦笑いして、その服をまさぐる。
「あったあった。・・・王子様の番号はっと」
 勝手に取り出した携帯をカコカコと操作し、アドレス帳を目で追っていく。簡単に見つかった名前ににんまりと笑い、携帯を耳に当てた。
 嫌がらせぐらいならしてもいいだろう。
 くすりと笑って、携帯の呼び出し音が途切れるのを待った。


「やっちゃった・・・」
 おどろおどろしいオーラをまといながら薬液の反応をじとりと見ている御門を、浅月も紅子も遠巻きに見ていた。流石と言っていいのか悩むところだが、そんな状態でも手元には一切の狂いも見られない。合理的で奇抜な調合は、いつ見ても頭が下がる。
 しかしやっている本人が余りにもマッドすぎる。どうせ最近のお気に入り絡みのことなのだろうが、ウザ過ぎて訊く気にもならない。そこに、最近はよく顔を見せるようになった夏威が現れた。
「なんだ陰気臭い。ハルはいないのか?」
「うぅっ」
 一瞬崩れかけたが、科学者の意地で器具を守るため体勢を整えた。それを安全な場所に移し、夏威をソファに促す。
「今日は、きっと来ないわよ」
「なんだ、また何かしたのか?」
 ギロリと下から睨まれ、ぷるぷると首を振る。
「違うわよ、ただちょっと、素を見せてしまっただけで・・・」
「素だぁ?」
 弱々しく言った御門のことを、その場にいる全員がそれがどうしたという顔で見た。紅子に至っては明らかに興味が削げたようで、さっさと自分のデスクに戻った。
「ちょっとぉ、何よその反応は」
「お前のそれがわざとだってことには驚くが、それを見てハルが来なくなる理由が分からん」
「僕も同感。素の仁成くんなんてかっこいいだけだし、いつまでも隠しきれるものでもなかったと思うし」
「待てよ」
 両手を上に向けて肩を竦める浅月とは理由が違ったらしく、夏威がずいと躯を寄せる。久しぶりの夏威のアップに、浅月の顔に動揺が広がる。
「こいつって、かっこいいのか?」
 浅月の動揺にもさして気付かない様子で変なところに喰いついた夏威に、無視を決め込みかけていた紅子が答える。
「かっこいいわよ。顔も身長も平均よりかなり上だし、頭も地位も一級品。これでモテないほうがおかしいわよ」
「ていうかモテ過ぎるからこんな風にしたんだしね。刃傷沙汰ギリギリで」
 二人の言葉に、夏威は感嘆の息を漏らす。そしてしげしげと御門を眺め、頷いた。
「確かに・・・外見はいいな。ハルは俺を見て育ったから理想高いだろうが・・・」
 さりげなく自慢されたが、なまじ外れてもいないことなので突っ込めない。そんな空気の中で夏威は考え込み、やがて一つの結論に達したらしく御門を不満げに睨みつけた。そしてその頭をべしりと叩き、放心している顔に背中を向ける。
「な、何すんのよう」
「ムカついただけだ。俺は帰る!」
「え? ちょ、夏威先ぱ・・・今日は僕と・・・」
「あらやだ。名取先輩ったらついに落ちちゃったの? やめてよね、女子の前で」
「惜しい紅子。なっちゃんは落ちかけ、なのよ」
「だーうるさい! ハルのいないこの部屋に用なんかあるか!」
 夏威の怒声で一瞬静まりかえった室内に、携帯の着信メロディが響いた。あまり聞いたことのない洋楽に、浅月以外は首を傾げた。
「仁成くん、電話」
「あ、やっぱりアタシのよね・・・」
「自分のも分からんのか、お前は」
 分かっている。だが自分の携帯だと分かりながらも呆けていたのは、それがある人物のために設定した指定着信音だったからだ。よもや鳴ることはないだろうと思っていたメロディに怯みつつも心が躍る。
「もしもし、きーちゃん?」
 何を言われるのかと逸る気持ちを抑えて耳に当てた携帯は予想と違う人物の声を発し、御門は目を見開いた。


「おいおい、そんなに怒鳴らなくてもいいだろ、耳が痛い。・・・そう、そうだよ御門。あんたが大事にしているお姫さんは今夢の中だ。・・・・・・何もしやしねえよ。でも、お姫さん可愛いしなあ」
 くすくすと笑っていたが、携帯を持つ手は勝手にビリビリと震えていた。
 恐怖は足元から忍び寄るものだ。そこに自ら足を踏み入れて掻き回そうというのだから、恐いに決まっている。
 声だけは震えないようにして通話を終わらせたとき、伊部はずっと忘れていたような息を重々しく吐き出した。携帯をベッドで眠る春樹の横に放り投げ、自分も縁に腰掛けた。
「すぐ来るってよ。・・・知りもしない家に、何分かかるんだろうな」
 しかし、来るだろう。来たら自分はただでは済まないだろう。好奇心は猫をも殺すなんてよく言ったものだが、この気持ちの高ぶりは好奇心だろうか。もう、よく分からない。
 手の届かない、敵わない相手への、強烈な意識。まるで恋慕のように熱く、そして嫉妬のように爛れている。それを向こうが一切合切気にも留めないのが、自分は許せないのか。強すぎる想いは、いつだって憎しみに変わるのだ。
「・・・ごめんな、こんなことに利用して」
 少しでいいから、意識してもらいたかっただけだ。春樹の頭を撫でて、自嘲する。
 と、春樹の瞼が動いた。起こしたのかと思ったが、焦点の合わない目はうろうろするだけで。やがて伊部を捉えると、ふにゃりと笑った。
「お姫、さん?」
 まだ酔っているようだ。そうでなければ、自分相手にこんな油断しきった顔をする訳がない。分かってはいたが、頭がぐらぐらした。何故平凡そうな春樹が痴漢に遭っていたのかが唐突に分かる。色気が、違うのだ。
 グラマラスな女にも、清楚が売りの少女にも、見ただけでヤリたくなるような美女にもない色香を、春樹は漂わせている。そういった筋の奴らには素面で分かるような何かが、酔っていることでだだ漏れになっているのだ。喉が渇いて、貼り付きそう。
「お、お姫さん・・・駄目だ、寝てろ」
 見つめてくる潤んだ目を覆おうとして掲げた手を、不意に掴まれた。それを口元に引き寄せ、手の平に吸い付いた後指先を唇で挟んだ。ちゅうっと音がして、舌先を覗かせて笑う顔は淫猥だ。
 ブチリと、どこかで音がした気がした。


 半分寝ているようになった春樹の白い胸にふらふらと唇を近づけたその時、意識の遠いところでドアチャイムの音が聞こえた。間延びした電子音が、もう一度。そこで漸く伊部は自分の行動に気付き、逃げるように跳ね起きた。体の下にいた春樹が薄く目を開け、首を傾げた。
「・・・タイムアウト、かな」
 笑うと、春樹もそれに返し目を閉じた。呼吸が、寝息のリズムに変わる。
 それを名残惜しい気分で少し眺めてから、もう一切の音がしなくなった玄関へとぼとぼと歩いた。静寂が、いたずらに恐怖を煽る。
「・・・よお」
「来ちゃった。伊部、ちゃん?」
 ドアを開けた先にはやはり御門がいて、にっこり笑うと扉を大きく開け中に足を踏み入れた。その笑顔に伊部が引き攣った笑みを作る前に頬を殴られ、壁に体を打ち付ける。ぐるぐる、世界が回るようだ。
「っは、手加減なしかよ」
「する価値が、アナタにあって? ・・・きーちゃんはどこ」
「奥。寝てるよ」
 顎でしゃくると、律儀に靴を脱いで足早に廊下を進んでいった。一瞥もくれないことに歯咬みし、静かな間を感じた。恐らく春樹の服を整えているのだ。伊部がたくし上げ、撫で回した胸を隠すために。
 ふらつく頭を押さえて廊下を行くと、ベッドに手を付いていた御門が振り向いた。目が、怒りで座っている。
「覚悟は・・・できてるのよね?」
「言っとくけど未遂だからな。あんたの所為で」
 強がりで吐いた軽口も、御門の怒りを和らげはしない。震えを隠すように横の壁に寄りかかり、にへらと笑った。
「焦っただろ。いつも馬鹿にしてる、俺なんかに手玉に取られて。意識したか? なあ、したのか?」
 皮肉な笑いを浮かべる伊部を、御門の目が冷たく見据えた。もう話すことはないとでも、言うように。
「ほら、その目だ。いくら頑張ったってお前に追いつくことなんてできやしない。目障りで、堪らない・・・!」
 吐き出してみても、気分は落ち込むばかりだ。結局は春樹の言う通り、自分はただこの男に認めてもらいたかっただけなのだ。同じ科学者を目指す者として、等しい高さまで昇りたかった。
 自嘲する伊部に、御門が溜め息を吐く。
「アンタがアタシに対して何を思ってるかなんてどうだっていい。問題は、きーちゃんを利用したことよ」
「ああ、お姫さん。その子えらくやらしいのな。言っとくけど誘われたんだぜ? いいの仕込んだじゃねえか」
 ぐ、と部屋の気温が下がったようだ。当然だが、御門の怒りは上がっている。
「言いたいことは、それだけ?」
「・・・ああ」
 これは、春樹を利用しようとした罰だ。言い逃れする気なんて、さらさらない。
 そう覚悟を決めても、恐いものは恐い。くちりと口の奥を咬んで身構えたのに、御門の足は一歩踏み出したところで止まった。意外そうな顔をした御門が、振り向いた先で春樹の視線を捉えた。
「きーちゃん・・・」
「あ、れ? あんた、なんでここに・・・?」
 どうやら無意識に手を伸ばしていたらしい。人恋しさに傍のものを引き寄せたかっただけなのか。その手は御門の服の端を掴んでいて、御門は困った表情になる。
「なんでって、伊部が・・・」
「伊部さん? ああ、連絡してくれたんだ・・・意外といい人だよね、あの人」
 ふにゃりと笑いながらの言葉に、御門だけでなく伊部も驚いていた。不自然に笑い、ゆるゆると首を振る。
「・・・どういうこと?」
「痴漢から、助けてやっただけだ。でも、善意なんてなかった。結局利用するつもりだったし、最初は見捨てる気も・・・」
「でも真実だというなら、アタシはあんたをどうすることもできない。きーちゃんに、怒られるもの」
 そう言って御門は悔しそうにすると、春樹を抱き上げた。そして固まったまま動かない伊部の横を通り過ぎようとして、止まる。
「その痴漢の顔、覚えてる?」
「あ? まあ、ぼんやりとなら・・・」
「じゃあ後で敬心に話してちょうだい。スーツなのか、それ以外なのかも詳しく」
「浅月に? なんでだよ」
 視線を向けた御門が、馬鹿にしたように笑う。
「アタシがどうやってここを突き止めたと思うの? 敬心の情報量は並じゃないの。それに、人脈もね」
 その御門らしい笑顔に、伊部は気が抜けずるずると壁沿いにしゃがみ込んだ。乾いた笑いを吐いて、手の平で目を覆う。
「やっぱあんた、すげぇよ」
「・・・そうね。そしてあんたは、凄くないわ」
「は?」
 突然のいいように、不満も露に伊部が睨み上げる。それを視線だけでかわして、御門は皮肉った。
「あんたは元々並じゃないの。でも、並なりに努力してたじゃない。勝手にやめたのは、あんたよ」
 残念そうな言い方に、伊部は身構えた。
「勝手に諦めて、腐って。劣等感に潰されるのはいいけど、逆恨みなんかすんじゃないわよ」
 かっこ悪い。
 そう言って御門は廊下を突っ切り、今度は振り向かず部屋を後にした。
 残された伊部は、ただ笑うしかなく。
「・・・は、はは。お節介だな、ホント。あんたも・・・俺も」
 くすくすと笑いながら、伊部は立てた両膝に顔を埋めた。





続。