1.

 揺れる車内で人ごみに揉まれながら、名取春樹は兄と一緒に出てこなかったことを後悔していた。早すぎるのではないかという理由で電車を何本か遅らせたのだが、通勤ラッシュがここまで酷いとは思っていなかった。まあ、舐めていた。
 左右に揺れるたびに足は踏まれるし、さっきから尻を撫でられているような気もする。あと数十分はこのままなのかと思うと、心底落ち込んできた。
 そうやって重い溜め息を吐いた瞬間に電車が大きく揺れ、気を抜いていた春樹の体は思いっきり振られ前にぐらついた。あ、と言う間もなく体勢は崩れ、尻にあった手が離れる。代わりに、鼻を強くぶつけてしまった。じんと麻痺したような痛みのあと、鼻はよい香りにひくついた。きつすぎないトワレの香りにぶつかったのが他人の肩だと気付き、急いで顔を上げた先で、丸くなった目と視線がかち合う。その目は春樹が謝るように睫毛を伏せると、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫?」
 話し掛けられて、その男の顔が随分と整ったものであることに気付く。中世的な美しさを漂わすその顔は自慢の兄とは違う魅力を含んでいて、目が合ったことが妙に気恥ずかしい。そのことと黙っていたことへの無礼に恐縮して慌てて首を縦に振れば、男の顔はまた奇麗な笑みを作った。
「こっち、」
 優しく引かれた手は冷たい鉄の感触に熱を奪われた。
 手摺りをあてがってくれたことが嬉しくてお礼を言おうとしたが、男は既に春樹から目を逸らし持っていた文庫本にそれを向けている。少しだけ残念な気持ちになったが、それは再び尻に感じた感触ですっかり消えうせてしまった。場所から考えて、さっきの痴漢と同一とは思えない。
 中高と電車通学の時も遭遇はしていたが、ここまで頻繁ではなかった気がする。これが都会と田舎の差かと場違いなことを考えていたら、OK君だと思われてしまったらしい。不躾な手は臀部を撫でるだけでは満足せず、するりと足の間から前に伸びてきた。
「ちょ・・・」
 慌てて出した抗議の声も、電車の車輪がレールと咬み合わず跳ねた音で掻き消されてしまった。舌打ちして身を捩る。その拍子に、また前の男に頭をぶつけた。しまったと思う間もなく男が顔を上げ、申し訳のなさに項垂れた。
 何故、痴漢されている自分がこんな肩身の狭い思いをしなければならないのか。
 悔しさに泣きそうになった瞬間、突如肩に回された手に抱き寄せられ、扉側に体を押し付けられた。それと同時、くぐもった中年の男のものらしい悲鳴が耳に聞こえた。
「え? え?」
 無理に振り向いたが、男の背で何が起こったのか窺い知れない。するとその男が肩越しに振り向き、眉を下げて笑う。
「ごめんなさいね、気付かなくて」
 馬鹿に丁寧な物言いだ。
 そう思った次の瞬間、春樹は信じられないものを耳にした。
「きゃああ! このオヂサン、痴漢よ〜っ!」
 目の前で聞いた春樹でさえ、その口が動いていなければ他の人物から上がった声だと思ったかもしれない。それほど男の外見と口調は合っていなく、騒ぎを聞いた周りの人も、腕を捻り上げられていた痴漢さえも、目を丸くし言葉を失っていた。
「んな、言いがかりはよせ! 誰が貴様のような奴のケツなんか・・・」
 漸く現実を思い出した中年が抵抗の色を見せながら手を振ったが、思いの外力は強いようで、掴まれた腕はぴくりとも動かない。焦れたように発した非難も裏返っていて、どうにも情けなかった。
「あら、アタシは痴漢って言っただけよ? お尻触ったことは認めるのね、オヂサン?」
 笑ってはいるが、声に容赦がない。ぐいと強く引かれ至近距離で睨まれた中年男は言葉に詰まり、顔には明らかな憔悴の汗が浮いていた。
「ば、ばかを言うな・・・! 大体、貴様に何か言う資格があるのか・・・この、変態カマや」
 男の言葉は最後まで語られなかった。当事者のくせに今の今までだんまりを決め込んでいた春樹の拳が、その鼻っ柱にヒットしたからだ。
 春樹を助けた男も、ことの始終を見ようと注目していた乗客も目を疑っている中で、膝の折れた中年の体はまるでスローモーションのようにその場に崩れ落ちた。
「あ」
 殴った事実に今気付きましたというような春樹の漏らした声だけが、車内に響く。
「わり、」
 片手で合掌し、春樹が殆ど無表情で謝った時、タイミングよく電車が駅に着いた。どうしようかなと男を見下ろしていた春樹の手が引かれ、かなり強引に車外へ引きずり出される。
「わ、ちょっと・・・」
 入ってくる人と、改札へ向かう人。それらに揉まれながら見た後姿は、どうやらあの奇麗な男のようだ。
 目の回る思いで走らされるのが嫌で手を引いてみたが、強い力にあまり効果はなかった。苛立って声を掛けたが、男は止まらない。結局ホームの端の自動販売機まで疾走させられ、春樹は切れて弾んだ息のまま男の後姿を睨んだ。
「俺、まだ降りる駅じゃなかったんだけど・・・」
「あんたね・・・」
 髪を掻き揚げながら振り返った男の顔はやっぱり奇麗な造作をしていて、春樹は不平も忘れて見呆けた。
 そんなぼけた態度の春樹に溜め息を吐き、男は自販機の横にあるベンチに腰掛ける。
「いくら痴漢されてたとはいえ、殴ったら今度はこっちが加害者になっちゃうじゃないの。分かってる?」
「あ」
 そうかと頷き、春樹は素直に礼を述べた。その変わり身に笑った男が、隣に座るよう促す。
「あなた変わってるわね。大学生?」
「うん。っていうか、あんたには変わってるって言われたくないな」
「オカマだから?」
 笑って言われ、春樹は身を引いて驚いた。自分から言う男にもそうだが、自分の話し方に不機嫌にならなかったことに、だ。
 兄によく注意されるのだが、春樹は感情表現が乏しい。その癖思ったことを正直に口にするものだから、誤解されることの方が多い。悪気がある訳では、ないのに。
 それを、この男は気付いたのだろうか。それとも、ただ温和なだけなのか。
 珍しいものを見るようにじっくり凝視していたら、その両目を男の手で覆われた。何をされているのか分からなくて動かないでいたら、その手の向こうでまた含み笑いが聞こえた。
「なんだよ」
「いえね、そうやって無垢な目で見られると嫌だから隠したの。でも、余りに反応がないんだもの」
 可愛いわね、と言われ少し腹が立った。しかし何も言わないでいたのに、男は敏感にそれを感じ謝ってくる。やはり気のせいではないらしい。かなり、洞察力がありそうだ。
「それにしても災難だったわね。ああいうのはさっさと逃げるか声出すかしないと駄目よ」
 立ち上がったかと思うと自販で何かを買い、春樹にも投げて寄越した。そしてまた隣に座る男をちらと見て、春樹はぽつりと言う。
「でも、慣れてるし」
「慣れ・・・?」
「地元にも、よくいたし。触られるぐらいならもう気にならないんだよね」
 男は目を丸くし、その後しげしげと見つめた後得心したように頷いた。
「なんか、あなたって惹き付けそうだものね・・・」
「こんな平凡な男のどこがいいんだろうなー」
 投げやりな言い方になってしまうのは、諦念しきっているから。初めのうちは電車に乗るのも億劫で悩んだりしたものだが、今じゃ気にもならなくなっている。というか、そうとも思わないとやっていられない。特別奇麗でも女の子らしい訳でもないのに、何故。少し落ち込みそうになったのを無表情で隠した筈なのに、案の定男にはバレてしまったらしい。優しく頭に置かれた手に撫でられ、ドキリとする。
「慣れてる子が、こんな辛い顔しないの。見てるこっちが痛くなるでしょ」
 ズキンと、苦しいみたいな痛みが肺の真ん中辺りを刺した。その正体が分からなくて、首を傾げ男を見つめた。
「ね、嫌じゃなかったら名前聞いてもいいかしら? アタシは御門。御門仁成よ」
「・・・名取、春樹」
「名取?」
 御門と名乗った男の目がくるりと光った。かに、見えた。その光はすぐに消え、楽しそうな笑みに摩り替わってしまったからだ。
「名取・・・春樹。じゃあきーちゃん。アタシは用ができたから電車には乗らないけど、入学式に遅刻しないようにね」
 初めての呼び名の方を気にする余り、何故自分が今日入学式だと知っているのか訊き損ねた。
「きっと、また会うわ。その時はよろしくね」
 そう言って御門が立ち上がった瞬間、ホームに電車が滑り込む。それに気を取られている間に、御門は既に遠くまで行ってしまっている。
「・・・なんだ、あの人」
 兄とは違う、心地よさがある。それに、かなり不思議だ。
 そんなことをぼんやり考えていたら、危なく電車に乗り遅れるところだった。


 衝撃の出会いがあって二週間。あの日行われた入学式にはギリギリで間に合ったものの、その時新任の助教授として紹介されていた兄の夏威には遅刻だとしこたま怒られた。心配性の夏威に痴漢にあっていたとは言い出せず、流れで御門のことも聞きそびれていた。あの時御門が驚いた理由は、二年間ここの大学院にいた兄絡みの理由だと思ったのだが。
 まあ困ることでもないしと思っている内に二週間が過ぎ、こうして兄と顔をつき合わせながらもそのことだけは口にできないままだった。
「こっちにはもう慣れたか?」
 学食で兄弟揃ってそばを啜っていた折、夏威にそう訊かれ春樹は麺を唇に挟んだまま頷いた。その反応に奇麗な顔の兄は嬉しそうに笑った。
「ハルと一緒に暮らすのは二年ぶりだからな。何か不都合があればすぐに言えよ?」
 兄の夏威は春樹に全てを賭けていると言っても過言ではないほど弟を溺愛している。春樹も春樹で兄に全信頼をおいているから、傍から見れば少し異常なほど兄弟仲はよかった。
 傍に就きたい教授がいるからという理由でこっちの院に進んだ兄を、春樹は当然のように追い同じ大学を受けた。夏威もそれを喜んでいて、一緒に暮らすため少し広い部屋に移り住んでくれた。大学より少し遠いのは不便だったが、何か考えがあるのだろうと思い春樹は何も言わなかった。離れて暮らす気もない。というより、春樹は兄と離れては暮らせなかった。
「誘っておいてなんだが・・・いつも俺と喰っていて平気なのか? たまには友達と食べてもいいんだぞ」
 先に食べ終わった夏威がセルフのお茶を汲んで戻って来て、そんなことを言った。春樹は首を傾げ、それに不満を見せる。
「俺の友達はそんなに心狭くないよ。夏兄とは学科違うからあんま会えないし、それに・・・」
 そこで言葉を切ったのは、学食の入り口に見覚えのある姿を見つけた気がしたからだ。
「昼は、寝ていたいし」
 その間を、夏威は何か勘違いしたようで、どこか苦しそうな表情になった。
「やっぱり、まだ見るのか?」
 気落ちさせたくはなかったが、嘘を吐いても仕方がないので春樹は小さく頷いた。夏威が、明らかに落胆する。春樹の悪癖ではない。自分を責めての、落胆だ。
 重苦しい空気になってしまったと思う。思うが、どうすることもできない。あの夢を見るのは、自分では抑えられないのだから。
「なあ、ハル・・・」
「あら、きーちゃんじゃない? 奇遇ねえ」
 落ちかけていた雰囲気のときにいきなり声を掛けられ、春樹はビクンと顔を上げた。そこにいたのは御門仁成で、やはり見間違いではなかったのかと思い何か言おうとした。
 しかしそれよりも早く反応したのは夏威の方で、彼はあからさまな不機嫌顔で振り向くと、御門を下から睨んだ。
「昼間っからその変な口調で話しかけるのはやめてくれないか、御門くん」
「なっちゃんもお揃いで。一緒していい?」
 人の話を全く聞いていないのか、御門はささっと春樹の隣にトレイを置いた。
「やっぱりなっちゃんの肉親だったのね。弟?」
「その呼び方をやめろ。弟に声を掛けるな・・・って、やっぱりだと? ハル、こいつとどこで・・・」
「ちょっと仁成くん、先に行かな・・・」
 咎められる。
 そう思ったが、新たな人物の参入で夏威の言葉は途切れた。その後姿を見て固まっているのは、御門の友人らしき人物で、背は平均身長の春樹と同じか、それより低いかと思われた。小さめの目は優しそうな雰囲気を湛えていて、そこがなんとなく御門と通じたものを感じさせる。
 その目が明らかに動揺していて、春樹でも二人の間に何かあったことが窺い知れた。妙な沈黙の後、夏威は不意に立ち上がった。
「行くぞ」
「え? 夏に・・・」
「夏威先輩!」
 まだ少し麺の残したまま春樹が急いで追おうとしたら、御門の友人もトレイを置き慌ててその後を追い縋る。前に回り、自分より背の高い兄の二の腕辺りを掴み、必死に何かを言おうとするが声にならないようだ。
 変な空気に居心地が悪くて御門を見るが、この場を作った本人はしらっとしている。じっと見ればその視線に気付き、流石に気まずいのか曖昧に微笑んできた。
「あの、僕・・・話が」
「お前と話すことは何もない。失礼する」
「あ・・・」
 するりとかわすように抜かれ、男は結局何も言えないままそこに立ち尽くしていた。春樹も思い出し、その横を走るように夏威を追う。
 追い抜き際、何かを呟いていたようだが、春樹には聞こえなかった。


 見失ったが、兄の行く場所は分かっていた。というか、この大学に入ってからこっち、雨の日以外はそこで昼休みを過ごすことになっている。
 大学のキャンパス内を小走りに駆け抜け、一年の間はまだ殆ど行かないゼミ棟まで急ぐ。その裏、芝生の整えられた一角に、案の定夏威は少し項垂れて座っていた。
「夏兄!」
 犬のように駆け寄り、その前にちょこんと座る。
「ごめん、お皿戻すのに手間取っちゃって・・・」
「俺こそ悪かった、取り乱したりして」
 殊勝な態度で謝られ、春樹は首を振った。確かに驚いたが、ああいう兄は珍しいので見ることができたことを考えれば嬉しかった。何があったのかは知らないが、聞く必要もないだろう。
 それより、と春樹は夏威の顔を覗き込んだ。
「俺も黙っててごめんなさい。あの人、入学式の日に会ったんだ」
「そうなのか。いや、それはいいんだ・・・あいつ、人としてはいい奴だから」
 苦いものを咬んだように言う夏威は、根本的な部分で御門が苦手なのだろう。長年一緒に住んでいたからという訳ではないが、兄の感性はなんとなく理解している。ああいうタイプは、兄には馴染めない類のものであろう。
 色々含んだ笑みを見せると、夏威も漸くいつもの表情に戻った。足を伸ばし、膝を叩く。
「ほら、昼休み終わっちまうぞ」
 嬉しくなって頷き、その膝に頭を乗せる。柔らかいその感触と温かい日差しに、瞼はすぐ重くなった。
「今度・・・あの人のこと、教えてね」
「ああ」
 春樹が完全に寝るまでその髪を撫で、呼吸が落ち着くのを確認すると夏威は鞄の中から何やら難しそうな専門書を出して読み始めた。


「ちょーっと! ご飯行くならなんで私も誘ってくれなかったのよ!」
 ゼミ室に戻った途端高い声でそう言われ、二人は閉口した。橘紅子は、勉強はできるのにどこか面倒臭い。仲がいいからこそ、嫌なものは嫌なのだ。
「ごめんごめん。でも、紅子ちゃんいつ来たの? もう昼なのに」
 御門の隣で、浅月敬心はにっこりと問い掛けた。さっき春樹たちの前で見せた狼狽は一欠けらも感じさせず、余裕さえ窺える。
「・・・ま、過ぎたことは気にしない気にしない。午後のノルマに入りましょ!」
 無言の圧力に負けた紅子が目の前で手を叩き、実験の準備のためカーテンを閉めに走る。
「あら? 名取先輩と・・・誰、あの可愛い空気の子」
 閉めようと向かった先の窓下に二人の姿を見つけそう言うと、御門も窓に近寄って来た。
「ああ、弟よ。きーちゃんっていうんだけど、可愛いのよお」
 くねくねと御門が言い、紅子は呆れたように窓から離れた。
 代わりに浅月がその横に立ち、同じように見下ろす。黙っているが、何か思うことがあるのだろう。御門はその表情を盗み見て、溜め息を吐いた。
「いい加減、話してくれないの?」
 小声なのは、紅子の存在を思ってだ。紅子はモテる癖に変なところで疎い。騒がれても困る。
「・・・ごめん、無理。言わないって約束させられたからさ」
「あ。そ」
 会話中も二人から目を離さない浅月が不憫でならなくてカーテンを閉めたのに、浅月は暫くそこを動かなかった。





続。