5. およそ一週間、伊部は読み研の部室に顔を見せなかった。 長ソファで大野が悠々と本を読んでいるときに現れるのはいわゆる「可愛子ちゃん」ばかりで、伊部がいないと見るやさっさと帰っていった。 おかげで大野は一人静かな時間を過ごすことができたが、あんなことがあったもんだから気になって仕方がない。 もう何度目になるか分からない、扉の音に顔を上げたとき、久し振りに見たその顔は前に見たときよりやつれているように思えた。それが片手を上げて、ふらふらと近付いてくる。 「おっす翼ぁ。元気だったか?」 よれよれの白衣も前より草臥れたようだ。それをはためかせながら伊部は大野の傍に寄り、ソファから降りようとしたら腰に抱きつくように乗られてしまった。焦りと怒りが湧いたが、こうも弱っている姿を見せられたら乱暴に振りほどくこともできない。固まっていると、んん、と子供のように擦りよってきた。 「ちょい、寝かせて」 「一体、何してたんですか。そんなに疲れるなんて」 「・・・一週間耐久セック、ああ! 嘘嘘、落とさないでよ翼ちゃん!」 ぎりぎりと頭に爪を立ててやると、伊部は身じろいだが逃げようとはしなかった。諦念して力を緩め、バサバサの髪を梳いてやる。 気持ちよさそうな顔をして、伊部がうっすらと笑う。 「ちょっとね、研究室に入り浸ってるの。凡人なりに、頑張ってもいいかな・・・って」 最後のほうはよく聞きとれず、見るともう眠りに就いていた。早いな、と思いながら大野は呆れた風に笑った。 怒らせたと思っていたが、以前となんら変わりがない。忘れているんじゃないかとすら思う。 ふと、薬品の匂いが鼻を掠めた。何か実験でもしているのだろうか。今までファッションの一部にでもしているのかと思われた白衣も、すっかり汚れている。 いわゆる、本気を出したのかもしれない。それに、御門たちとの一件が何か関わっているのだろう。 伊部を起こさないように気を付けてやりつつ本を読み、時折大野は腰に纏わりつく温かさに思いを馳せた。 八時になって漸く伊部が目を覚ましたとき、大野もついうつらうつらとし始めていた。 こつんと額をつつかれて瞼を上げると、伊部の顔が意外と至近距離にあって驚いた。目をぱちくりさせている間に窓へと押し付けられ、唇を塞がれる。 「っん、んんぅ・・・!」 びしばしと叩いて引き剥がすと、伊部はにやにやしながら服の裾に手を入れてきた。慌ててその手を掴むと、今度は反対の手がそれを掴み返す。睨むと、いいじゃん、と囁いてきた。 「俺が起きるまで翼がいてくれたら、ヤるって決めてたんだ。ヤらせて」 「んなの、てめぇの都合じゃねえか!」 「そうだね。でも、これは自分に対しての賭けだったから」 「俺は関係な・・・っ」 くり、と服に浸入した指に乳首を摘まれ、大野は息を飲んだ。唇を咬まれ、開くよう促される。 「こんなとこで夜に二人っきりになるんだぜ? お前だって考えなかった訳じゃないだろ?」 「勝手なことを、」 否定はしたが、確かに考えなかった訳ではなかった。きっと、誘われるんじゃないか、と。 「な? 今日は焦らしたりしねぇし」 今日は、と言われ断片的な記憶が甦る。前回は、その所為で凄いことを言わされたような気がした。 唇を食んだあとは耳を嬲り、お願い、と囁く声に根負けする。酒が入っていないからもう言い訳もできないのに。 迷ったが、大野は結局眼鏡を外して机に置いた。 「翼?」 「・・・カーテンふらい、閉めやがれ」 真っ赤になって俯く大野に、伊部はにやりと笑う。その朱色の額に口付けしながら、手を伸ばした。 「了解」 ボロボロのカーテンを引き、キスをしながらソファにその体を倒していった。 「・・・平気か? そういや、酒入ってない状態でヤるのは初めてなのか」 三本の指で中を擦られながら言われ、大野は首をガクガクと縦に動かした。 咬み続けた手の甲はもう真っ赤で、皮がだるだると柔らかくなっている。 電気も消して欲しいと頼むべきだった。セックスがこんなに恥ずかしいなんて、知らなかった。 「毎回処女みたいな反応が可愛いな、翼は。でも、俺は声聞きたい派なんだよね」 「っあ!」 両手首を掴まれ、ソファに縫い付けられるのと同時に貫かれた。 絶対痛いと思っていたのに、想像より痛みは小さく、そしてその馴染みのある感触に当惑した。懐かしいと思う錯覚に、嬉しいとさえ思ってしまう。 「どうした? 痛いのか?」 泣き出した顔を見て訊いてきた質問に、大野は違うと思いながらも首肯した。 本心を隠したところで、事実は変わらない。こうして見下ろされる体勢に、大野は覚えがあった。あったし、そしてそれを嫌だとは思わない。 「翼?」 「っみ、見てないでイっちまえ! こんな・・・こんなこと、させやがって・・・!」 涙で濡れた目で睨み付けると、伊部は呆れたように笑った。汗で貼り付いた前髪を剥がしてやりながら、ゆっくりと抽出を開始する。 「酔っててもシラフでも、口は悪いなあ」 「だ、」 誰の所為だ、というセリフは唇に飲まれた。咬むようなキスを繰り返しながら、奥のほうを突き始める。 「っん、んぅ! んっんっんっあ!」 苦しくなってきたところで唇を解放され、大野はそのまま甘い声を上げるしかなかった。手首を掴んでいた手はいつの間にか。指と指を絡めるように繋がれていて、無意識にそれを握り返す。 気持ちよすぎて、変になりそうだ。初めてではないはずなのに、確かにそれは今までにない心地で。 部屋中に散っている声が自分のものだなんて信じられなくて、大野は男に突かれてよがる自分に恥じ入った。そう思いながらも、伊部に体を揺すられているという現実が心を満たしていく。その根本にある感情は、もう大野にも誤魔化せなかった。 「・・・翼? 翼、イってる」 囁く言葉に目を開け、ぎょっとする。大野の性器は粘度の高い汁を飛ばしていて、なお硬さを残し揺れていた。 「慣れてきたんだな。嬉しい」 キスをされると、また体が震える。何度も全身を襲う射精感に、大野は恐くなった。 「伊部さん・・・伊部さん、やだ! これ以上は、いや・・・!」 「大丈夫だって。セックスの快感で死ぬ奴なんていないんだから」 「伊部さ・・・っ」 「いいから、俺を見ろ。俺に集中して、他のことなんて考えんな」 そう言って、まだ不安げな大野の唇を一方的に塞いだ。そうして緩急を付けて中を突き上げ、口腔に弾ける声を楽しんだ。 気持ちいいのか、射精やその余韻で奥のほうが収縮する。それを長いこと楽しんで、伊部は深くに大量の精液を吐き出した。その感触に大野の体が痙攣し、奥が搾るような動きをする。 「嫌がってる割に、お前は最高の体だよ」 か細く震えながら繋いだ手を力なく握ってくる大野を愛しむように色々なところへキスを落としてから、伊部は名残惜しそうにその身を引き抜いた。少し開いた襞から、白いものがとろりと零れる。 「・・・あのさあ、翼」 いやらしく動きながらとろとろと精液を吐くそこを眺めながら、伊部は呼吸を整えている途中の大野に話しかけた。睫毛を震わせて、その言葉の続きを細く開けた目で促す。 「俺さ、明日からはまた研究室に篭るから。他の奴らより大分遅いけど、それでも頑張ってみようと思う」 「へえ・・・それはいいけど、なんで俺にそんなことを?」 疲弊でまどろんだ顔に見上げられ、伊部はにっこりと笑った。 「だからさ、疲れた俺にこうして時々癒しを提供してくれたりなんか・・・」 「しない」 「・・・っ!」 否定の言葉と同時に蹴り上げるとちょうどうまい具合に股間にヒットした。 一瞬で顔を真っ青にした伊部の下から体を抜き、シャツを羽織ってボタンを留めていく。それを横目で見ながら、伊部は呻いた。 「おま・・・さっきまで自分の中に入っていたものに対して、よくもこんな・・・」 「あんたの自分勝手な賭けに乗ってやったんだから、報いだと思って受け入れろ。・・・それに」 声を潜めた大野の太股を、白いものが伝う。 「毎回毎回、中出ししやがって。あんたは最低だ」 「だってお前可愛いんだもん。我慢なんてできっかよ」 「・・・言ってろ」 鞄からタオルを出して乱暴に拭うと、大野は腰をかばいながら服を着て伊部に背を向けた。本の山の途中で一旦振り返り、まだ悶えている伊部を呆れ顔で見る。 「また弱っていたら、慰めるくらいはしてやるよ」 「! それって・・・」 「セックスはなしで」 先に念を押してから、大野は本の山を抜けていった。外に出て扉を閉めてから、ずっと吐くのを忘れていたような空気を一気に出す。うるさい心臓を隠すように、拳を胸に当てた。 もう会いたくない。本当は、会いたい。 まだ掻き出していない残滓から、認めたくない感情の火が燻るような気がして、大野は首を振った。 「あーあ、角折れてら」 「・・・ごめん」 何日かして、結局大野は伊部の部屋で朝を迎えることになった。 床には服と一緒にビールの缶も転がってはいるが、今回は酔うほど飲んでいない。もう、伊部の前で前後を失うようなことをするつもりもなかった。 その缶と一緒に散らばっているのが、さっきから伊部が下着姿でしゃがんで眺めている様々な専門書だ。少し前に大量に取り寄せたもので、昨日大野が伊部の使いで取りに行ったもの。そして、袋ごと宙に舞わせたものでもある。 わざとじゃないとはいえ、罪悪感は消せない。ベッドの上で立てた膝を抱え、大野はそれらの本を見ながら少し凹んでいた。それに加え今回の性交渉は完全に合意のものであったから、かなり気まずくもあった。 「・・・買い直すよ。俺の所為だし」 そう言って眼鏡を取ろうとした手を掴み、伊部がベッドに飛び乗った。そして縮こまっているその体を倒して腕の間に置き、笑う。 「いいって、どうせ使い込んでボロッボロにする予定だし。買ってきてくれて、ありがとな」 額に、頬にキスだれ、唇をへの字にしたまま大野は大人しくしていた。 昨日は色々なことがありすぎて、少し疲れている。しかしそれ以上に深刻なのは、上にいるこの男がかっこよく見えてしまうことだ。まともに見ることすらできない。 買い物に付き合わせた春樹が妙なことに巻き込まれそうになったとき、ただ焦っていた大野に伊部は怒鳴った。驚きはしたが、そのおかげで冷静になれたことも事実だ。 そして少し送ればせながらも春樹を救出したあと、流れで飲むことになった。二人ともほろ酔いになったところでどちらからともなく顔を近付け、今に至る。少しばかり恐い状況に対面した所為か、人肌恋しかったといえば言い訳になる。 突かれながら、伊部はどこかが変わった、と大野は思っていた。 あのとき、伊部は迷うことなく御門の協力を煽っていた。あんなに嫌っていたのに、と意外に思う反面、これが一番しっくりくる関係なのではないかとも思えた。二人は、元々のタイプが似ているような気さえした。 「おい、翼。何考えてんだよ」 「え? あ、いや何も・・・」 「・・・あっそ。ところで、さ。これはもう、そういうことでいいんだよな?」 「は?」 抽象的すぎて分からない。首を傾げると、伊部はふふんっと笑った。 「翼はもう俺のもんだろ? これでいつも俺とセックス・・・あり?」 するりと腕の間を抜けていく大野を目で追い、伊部が不思議そうな顔をした。その顔を横目で見てから、勝手にタオルをチェストから出す。 「前から言ってますけど、セックスの相手なら困ってないでしょう? 俺のもの、とかはそれを聞きたい人らに言ってやってくださいよ」 「ええ? でも、翼が一番可愛いし翼の体が一番気持ちい・・・」 アホなことを言う伊部に、大野は落ちていた缶を投げつけた。伊部が当たったままの格好で固まり、それを無視して浴室へと移動する。 なんて、無神経なことを言う人だろう。一番ってことは、二番も三番もいるということが、なんで分からないのか。 タイルの上で熱い液体を出しながら、大野は泣きたいのを我慢した。 可愛い、可愛いと連呼する唇。その唇は、大野が唯一聞きたい言葉を吐いてはくれなかった。 生協で買った紙パックの紅茶を飲みながら、大野は恥ずかしいのと苛つくのとで、真っ赤になって歯咬みした。 あれから夏休みを挟んで、冬休み直前という今まで。二人の関係はいわゆるセックスフレンドというもので落ち着いた。 大抵は伊部のアパートで、時に読み研のソファの上で。週に一回から二回、二人は肌を重ねるようになっていた。 汗で湿る肌や、その匂い。弱い部分や泣き所、射精時の声、出したものの味ばかり覚えていくのに、お互いの気持ちを探ろうということは一切しなくなった。伊部ですら、もう大野を自分のものにしたいと言わなくなった。 セフレにもマンネリはあるのか、と大野は斜に構えていて、最近は誘われても嫌な顔一つしなくなった。もうそろそろ、飽きるのだろうという予感に苛まれる。 気持ちは押し殺しすぎると、凝縮されて苦く醜いものになる。知りたくもないのに、大野は自分の感情からそんなことを学んでしまった。 「あれ?」 エレベーターを出て、図書館へと続くゲートをくぐって首を傾げる。人の気配が、極端に少ない。 確かに普段は数えるほどしか利用者のいない図書館だが、試験期間という今になってこんなに人がはけることはまず珍しい。勉強をしている静けさとも思えず、どうしたことかと足早に奥まで進み、一見して合点した。 「・・・御門さん」 「あら、大野くん」 「あ、おかえり大野」 ただいま、なんて言わず今すぐUターン、いやVターンしたい光景であった。隣り合った席をぎりぎりまで近付け、その上でぴったりと寄り添っている。 「昼間の図書室で怪しいことしないでくれません?」 春樹の正面に座りながらそんなことを言い、御門を非難するように見る。視線を受けた男は、何よう、とその麗しい外見に似合わないシナを作って応えた。 「勉強教えてただけなのに。ね、きーちゃん?」 「う、うん、そうだよ大、」 「勉強を教わるだけで人の顔は火照ったりしない」 春樹の言葉を遮って言うと、その顔は更に赤く染まった。そして御門に助けを求める視線を向け、よしよしと撫でてもらう。 ふん、と鼻から息を吐いて呆れていた大野だが、万が一この二人の甘い空気にも負けず人が残っていたとしても、今の大野と御門のやり取りを聞いたらやはりここは貸切状態になったであろう。 御門にあんな口の聞き方をする一年が、そのシンパから何をされるか分かったもんじゃないからだ。 当初の大野もそれを恐れていたが、御門の余りの常識のなさと春樹への溺れっぷりは突っ込まなくては気が済まなかった。シンパの攻撃を受けても自分なら返り討ちにできると思ってもいたし、春樹の友人であることが素早く伝わったので、結果的には何もされないで済んだ。 そんなことを思っていた大野の前で、未だに二人はイチャイチャと甘い空気を垂れ流しにしていた。 「よしよし、落ち込まないのきーちゃん。大野くんも気が急いているのよ。伊部ちゃんが倒れたりするから」 「え?」 無視して勉強に集中しようと下げた視線を、すぐに戻した。御門の顔がきょとんとして、続ける。 「あら、知らないの? あいつ今朝ゼミ室入ってすぐ倒れたらしいのよ。救急車、来てたでしょう?」 そういえば、と思う。しかし救急車が来たからといって、そこに自分の知り合いが乗っているなんて気付く奴が、一体この世に何人いるだろうか。 明らかに動揺し始めた大野を見て、御門が柔らかく微笑む。 「ただの過労ですって。ゼミ入りが決定して、気が抜けたのね。あいつ頑張ってたみたいだから」 「今、どこに?」 「点滴打てば帰れるみたいなことを言っている人がいたから、もう家じゃないかしら?」 聞き終わる前に荷物を鞄に詰め、大野は駆け出した。人がいないから、気を使う必要もない。 そんな大野を目で追いながら、春樹が肩を竦めた。 「やっぱり、好きなんじゃん」 ほら見ろと言わんばかりに尖らせた唇に、御門が軽くキスをする。ぼっと赤くなって未だ初心な反応を返すその顔を見つめ、嬉しそうにした。 「なかなか素直になれないのが、人って生き物なのよ」 そう言ってまた唇を重ねてくる御門を、春樹は薄く唇を開けて受け入れた。 まだ暫く、この場所は貸切状態のままでいるしかないようだ。 続。 |