4.

 頬を強か打たれ、伊部は心地よい眠りから強引に引き出された。
 ぱちくりする伊部の目の前で、大野がシーツに包まったまま唇を震わせ、怒り顔を真っ赤にしている。
「・・・どした、翼?」
「あっあっあ、あんたって人は・・・」
 軽いデジャビュに、伊部は笑う顔がひきつるのを抑えられなかった。
「もしかして、また忘れていらっしゃる?」
 再び手を上げて、振り下ろそうとした途端動きを止めた。前回もこうして殴ったことでキスされたことでも思い出したのかと思ったが、赤い顔が恥ずかしそうなものに変わったので、ああ、と合点する。
「わり、また後処理してやるの忘れてた」
「この、」
 とにかく殴ってやりたいのか、もう一度試みたが、その所為で更に降りてきたのだろう。両手を付き、恐らく締めている。
 ぶるりと震えて不快さに耐える顔を見て、伊部はなんとなく可愛く思って溜め息を吐いた。
「はいはい、あとでいくらでも殴られてやるから。ちょっくら大人しくしてな」
「なっ」
 シーツごとひょいと持ち上げられて、暴れる間もなく浴室に連れて行かれた。冷たいタイルに降ろされ、シーツを剥がれる。
「ちょ・・・」
「下痢になるからしっかり掻き出せよ? って分かってるか」
 そこまで言って、あ、と面白いことを考えたように虚空を見て手を叩いた。
「俺がやれば確実だけど、どうす・・・」
 話の途中でバタンと扉を閉められ、その向こうで伊部はきゃらきゃらと笑っていた。
 その影がシーツを洗濯機に投げ込んで去っていくのを確認してから、少し腰を上げていきんだ。
 ドロリと出てくるそれは、この前のより量が多い気がする。鈍痛も酷いし、節々が風邪のときのように軋む。その思い筋肉を鼓舞して、後ろに指を入れた。
 この間は躊躇いながらやった所為か少し残してしまったようだ。確かに腹の調子が悪く、しかしそれ以上に不愉快のほうが強かったから気力でなんとか耐えた。無理やりにされたんだと思うことで、多少なりとも楽になれた。
 しかし今回は少し分が違う。微妙に、覚えていた。
 自分がなんと言ってねだったか。射精の瞬間、なんと口走ったか。
 起きてすぐはなかった記憶が、伊部の健やかな寝顔を見ていた思い出された。消したいのとムカつくのとで、思わず引っぱたいてしまった。伊部はあとでいくらでも、なんて言っていたが、恐らくまた何か要求されるだろう。そういう男だ。
 広げるように肉を伸ばす指に伝う熱さに、産毛が揺れた。吐き出されたものが自分の熱を吸収している。変な考えに摩り替わりそうで、大野は慌てて首を振った。
 全部ではないとはいえ、覚えているのは辛い。というよりは、昨夜の自分が自分ではないと信じたい。あんな、あんなことを言うなんて。
 何もかも伊部の所為だ。伊部がおかしなことを言うから、自分もおかしくなってしまう。
 思い付く限りの毒を吐き、大野は熱いシャワーを浴びて浴室を出た。前回同様いつの間にかバスタオルと着替えが用意されている。前と違うのは、その服が大野のものではなかったことか。
 袖を通してみると意外にもそれは大きくなく、すぐに伊部のものでもないと分かる。誰か他の奴が置いていったものなのだろう。何故か、ムっとした。
 どうせいるんだろうなと思いながら部屋に戻ると、案の定伊部はまたテレビの占いを見ている。いい結果ではなかったのか、大野を見るなり電源を落とした。
「今日は何講から? 朝マックしに行かね?」
「・・・一講からあるんで無理です」
「なんか怒ってる?」
「いえ・・・」
 ふうんと呟き、伊部は薄いシャツを羽織った。鍵を持ち、大野を手招く。
「んじゃあもう出ようぜ。駅まで一緒に行くべ」
 断る必要もないので素直に頷く。長い廊下を行き玄関で靴に足を入れる。
「あっと、ちょい待ち」
 靴を履いたところで襟の後ろを掴まれた。そのまま斜めに引かれ、壁に押し付けられる。
「出る前に、殴られた仕返しをしておかないとね」
「は?」
 やはりそうきたか。
 口ごたえする前に唇を塞がれ、大野は諦めて力を抜いた。何を言っても、伊部相手ではのれんに腕押し、ぬかに釘だ。緩く咬まれて開くよう促された唇も、素直に開けた。
「ん、ふ・・・」
 不快と平穏の入り混じる感覚に眉を寄せ、瞼をきつく閉じた。
「・・・っも、いいだろ!」
 舌を軽く咬まれる痛みに腰がぞくりとし、大野は慌てて伊部を引き剥がした。唇を何度も拭いながら、残念そうに両手を上げる伊部を睨み付ける。
「俺なんか相手にしてないで、他の奴とヤれよ! いくらだっているんだろうが!」
 この服の奴とか、と言いそうになって空気を食んだ。きょとんとした伊部が首を傾げ、お、と口角を上げる。
「翼、妬いてんだ?」
「んな訳あるか!」
 怒鳴り付け、大野は扉を開けてドタドタと走り出した。そのまま伊部の制止も無視して、駅までの道を一心不乱に走る。
「なんだよあいつ! こんだけ嫌がってんのに、なんで分かんねえんだ!」
 痛む腰をかばいつつどんどん進み、駅に近付くにつれスピードを落とし暫くすると完全に足を止めた。まだ何かに食まれているような感触の残る唇に手を当て、悔しそうな顔をする。
「嫉妬なんて、する訳・・・」
 誰のかも分からない服を強く握って、大野は熱い顔を隠すように俯いた。


 腰も痛いし全身は鉛のようだ。熱があるようにも感じられたが、講義をサボるのは気が退ける。というか、高い授業料を払っているのだから受けないのは勿体ない気がした。
 春樹がかなり心配してきたが、ただの二日酔いだと誤魔化した。代わりに違う話題をと思って振った話に春樹は相当同様し、何かあったのかとは思ったが訊かなかった。可愛いというのはこういうのを言うんだな、と思う。
 しかしそんな和やかなものを見ても具合がよくなる訳もなく、やはり限界は来た。
 黒板がぐるんぐるんに歪み、明らかに危ない汗が出てくる。なんとか昼休みまではと耐え、大野は読み研の扉を開けた。幸いなことに、いつもソファを占拠している男はいなかった。ふらふらと机を回り、倒れ込んだ。
「だりぃ・・・」
 熱もそうだが、全身が重くて仕方が無かった。寝不足なんだと分かる。分かって、その原因に舌打ちした。
 そのまま伊部への呪いの言葉を吐きながら、滑るように眠りに落ちていく。
 昼休みの間だけ。そう思って目を閉じたはずなのに、全身汗だくで起きたときに見えた窓の外は、うっすらとオレンジ色に染まっていた。
 だが寝過ごしたことよりも不快な状況に、大野は自分の間抜けさを責めるのは後回しにした。
「何やってんスか、伊部さん」
「何って、膝枕?」
 殴ってやりたかったが、生憎体は思うように動いてくれない。断念して、大野はそのまま伊部の太股に後頭部を預けた。
 伊部を睨んでやろうと思い、その視界が歪んでいることに気付いて眼鏡を探す。その手を握られ、溜め息を吐いた。
「離してください」
「えぇ? さっきまでは自分で握ってきたくせにぃ」
「でたらめ言ってんじゃ、」
 言いながら、確かにその感触は手のひらに馴染んでいるような気がして、急いで二の句を繋げた。
「ねえよ」
 少し湿った手を振りほどき、だるい手足を投げ出した。苛々した溜め息を吐いて、目を閉じる。
「今何時ですか?」
「四時。あと少しで四講目が終わるところか」
 言いながら伊部は大野の額に手を乗せた。熱いな、と言ってゆっくり撫でる。心地よく感じてしまいそうで、嫌だと言うように首を振った。
 撫でるのは諦めた伊部の指が前髪を摘んで引く。それがぱたりと落ち、追うように降りてきた指がまた額をかすった。
「・・・なんで俺を抱くの?」
 つい口をついて出た言葉に、大野自身も驚いたが、そのまま訊くことにした。伊部が、目を閉じたままの大野を覗き込む。
「そりゃ、可愛いからね」
「マジで答えろ」
 目を開けると、少し驚いたらしい伊部と目が合った。固まった表情をぎこちなく笑顔に動かし、細く笑う。
「何、いきなり」
 顔を上げ、再び撫でようとした伊部の手をのろりとどかした。軋む筋肉を駆使して体を起こし、顔を見ないで続けた。
「いきなりじゃねえよ。お前、モテるじゃんか。俺は嫌だって言ってんだし、他のとヤればいいって今朝も・・・」
「翼ちゃん、熱でおかしくなったんじゃない?」
 からかう口調に、大野はかっとなってソファの上で向きを変えた。飛び掛ってその襟首を掴み、顔を近づけて揺さぶった。
「誰、の・・・所為で・・・っ」
「俺か?」
 冷たい目で見られ、大野は少し怯んだ。何か言おうとして口を開け、そして諦めたように手を離した。分かっている。賭けに乗ったのは、自分の責任だ。
 大野が俯くのを見て、伊部は小さく噴き出した。暫く我慢するように肩を震わせていたが、結局ゲラゲラと笑い出す。
「ちょ、ちょっと・・・」
「だ、だってお前よぉ・・・気が強いのか弱いのか、はっきりしろよ・・・」
 くすくすくす、と笑い、伊部は大野の肩を叩いた。その手を振り払い、大野が叫ぶ。
「い、いい加減にしろよ! あんたはいつもそうだ!」
 伊部の目がきょとんとして、それが余計にムカつく。
「そうやってふざけて、茶化して・・・」
 頭がぐらぐらした。ヤバいとは思ったが、動き出した舌は容易には止まらない。
「本気になったことなんてないんだろ? ふざけることであんたは逃げてるんだ! そんなんだから、御門さんにだって相手にされな・・・っ」
 バアンっと大きな音がして、大野は反射的に口を閉じた。目の前で、手の平を机に打ち付けた伊部が、静かに怒っている。
「あ・・・」
「分かったようなこと、言ってくれるじゃん」
 ソファの上をにじり寄り、大野に顔を近付ける。この距離なら眼鏡がなくとも充分に見えるので、伊部がいかに怒気を放っているのかがひしひしと伝わってきた。ぞくりとして、思わず身を退く。
「俺が逃げてるって? 何から? あ? 御門か?」
 心臓がばくばくいっていた。ソファの上でさがりながら、頭の端が白くなるのが分かった。
「お、俺・・・」
 ふっと意識が薄れ、そのままソファに沈んだ。伊部がそれを見て、苛々と舌打ちする。
「やってやろうじゃん。・・・御門に、一泡吹かせてやるよ」
 大野に白衣をかけると、伊部はそのまま部屋を出て行った。扉の開閉する音でそれに気付き、朦朧とする頭で半身を起こした。
「伊部さん・・・?」
 窓の外へ視線を向け、そこから見えた伊部の姿に少しだけ安堵した。してから、その少し前方を歩く人物に、旋律する。
「名取!」
 大野が気付いたのとほぼ同時、伊部も前を行く人物に気付いたようだ。歩調を合わせ、離れも近付きもしないで後ろをついていく。
 伊部は最初から春樹に興味があるようだった。それは、春樹本人に対するものではない。春樹が、御門のお気に入りだったからだ。
「何、する気だよ・・・」
 ふらつく体を支えながら、大野は鞄を掴んだ。しかし一瞬床が回ったかと思うと、そのまま両手を付いて動くのも辛くなった。無理をした所為か、頭痛までしてくる。
「伊部さん・・・」
 謝るから。
 そいつにだけは、手を出さないでくれ。あの人はきっと、貴方を許さない。
 脂汗を滲ませながら、大野は唇を咬んだ。しかしそのまま、少しの間気を失った。


 慌てて目を覚ましたとき、余りにも激しく体を起こしてしまったため、危うく生き埋めになるところだった。
 ぶつかった所為でぐらつく本の山を押さえ、一呼吸吐いてから時計を見た。
 それほど時間は経っていない。追い付くかも、と思って腰を上げた。
「・・・っう、」
 無理だ。目が回る。よろよろと読み研の部屋を出て、もたつく足取りで研究棟のほうへ向かった。
 御門に話せばなんとかなるかもしれない。
 そう思って上げた視線に、こちらへ走ってくる人物があった。誰であろう御門仁成その人で、大野は驚いてその姿を凝視した。
「あ! 大野くん!」
 鬼気迫る、とは今みたいな顔を表すのだろう。しかしその形相は一瞬でいつもの表情に戻され、現に見ていた大野ですら見間違いだったのかと思わざるを得ないほどの変わり身だった。
「お、大野くん・・・伊部の家って分かる? 住所とか、知りたいんだけど」
「え、と」
 さっきの顔が記憶に残っているから、つい本当の住所を喋ってしまった。
 しかしそう思ってから、別に隠し立てする必要はないんだ、と鼻から空気を出した。
 大野がそうして妙な気まずさに前髪を引いたとき、御門はその死角で不敵に笑った。
「流石敬心。間違いないみたい」
「え?」
 よく分からない呟きに顔を上げると、御門は大野の両肩に手を置いて顔を近付けた。
「具合悪いなら今日は真っ直ぐ帰りなさい。ね? 悪いこと言わないから」
 いつもの口調のようだが、大野は見えない力に圧されるように頷いた。その返事ににっこりと笑い、御門が走り出す。
「絶対よ?」
 振り向き様に念を押され、大野はまた頷くしかない。
 吹いた風に、何故かぞくりとした。伊部の住所を教えたことに、今更後悔が起きる。
 追おうか。
 そう思ったが、不調の体をこれ以上動かすのも辛かったし、御門に逆らう気は全く起きなかった。予想がつかない分、恐ろしい。
 一番最悪な結果は、春樹か伊部か、どちらかともう会えなくなることだろう。
 そのどちらがどれだけ嫌かなんて、熱でぼんやりする頭では容易には決められなかった。


 すっかり具合のよくなった翌日、教室に入ってきた春樹に駆け寄った。全身を叩くようにして無事を確認し、顔を覗き込んだ。
 いつも通りの天然受け答えを聞く限り、伊部は春樹に危害を加えなかったらしい。それどころか、前は嫌っていた風なのに今はそうでもないようである。
「助けられた・・・ね」
 なんとなく意外だった。伊部のことだから、春樹を利用して御門に一発喰らわせようなんて考えていると思ったのに。
「大野って、伊部さんのこと好きだよね?」
 まあ何事もなくてよかったと思いながら席に戻ると、春樹はとんでもないことを言ってきた。思わず固まり、余りのことに周りが沈黙したことにさえ気付かない。
 立ち上がり、襟首を掴んで顔を寄せる。
「おい、名取? 天然なのもいいが、こういう勘違いは・・・」
「えー? でも俺、こういうの外したことない、」
 口を押さえ、そのきょとんとした目をぎりぎりと睨み付けながら怒鳴った。
「じゃあ、これが記念すべき第一発目の外れだ!」
 叫んでから、ムキになって否定するのも怪しいかと思って手を離した。幸い春樹も何事かを考え出すようにして黙ったので、前に向き直る。
 好きだなんて、そんなことある訳がない。大体、相手は男じゃないか。
 大野は苛々と唇を咬みながら、昨日の伊部を思い出していた。怒らせた瞬間の顔が、脳裏に焼き付いている。
 今日はあそこに来るだろうか。
 爪を咬むのをやめて、大野は窓の外へと視線を移した。





続。