2. 振り上げた拳を、またも片手で受け止められた。何度かやって、腰の不快感に断念する。熱い液体が、空気を含みながら垂れてきた。 「あ、ごめん。調子に乗っていっぱい出しちゃっ・・・」 バシン、と音がして、自分の手の平が痛くなったことで我に還る。初めて当たったというのに、全く嬉しいと思えない。悔しさと屈辱がふつふつと躯を蝕んでいる。 「あんたなんて・・・最低だ!」 これ以上顔を見ていたくなかったのと、涙が零れそうになったのとで、大野はベッドから跳ね起きて浴室を探した。その扉、と後ろから言われて、急いで駆け込む。閉めた扉に背中を付けた瞬間、ぼろぼろと泣き出した。 「・・・くそ、くそ!」 泣きたくなんてないのに。ぐいと拭って、シャワーヘッドに手を伸ばす。と、また奥からどろりと溢れるものがあった。 全身から血の気が引き、感情に任せて壁を殴る。腰に響くから、そこまでは力を入れられなかった。 「なんで、こんな・・・っ」 幸か不幸か、飲みすぎた酒は大野の脳に何も残していなかった。覚えていたら、きっと死にたくなる。 しゃがみ込んで、指を入れた。普段なら洗わない場所に触れる事実に、情けなさが募る。 「ちくしょう・・・ちく、しょ」 こういうことがないように、鍛えてきた筈なのに。それを、一つの油断で全て壊した。無駄にした。 悔しい。 ずるずると床にへたり込み、そのまま暫く泣いた。 「あ、落ち着いた?」 出たところに大野の服とバスタオルが置いてあり、沈んだ気分でそれを使った。 いないと思っていたのに、伊部は濡れタオルを当ててあっけらかんとしていた。大野を見たのも一瞬だけで、テレビの占いに熱中している。 「・・・あんたさあ、おかしいんじゃない?」 「何が?」 「人のこと、強姦しておいて・・・」 「やった一位! 何事もうまくいくでしょうってさ」 自分の結果だけ見て消したので、大野は自分の運勢は分からなかった。最下位であったことだけは、なんとか見えたのだが。 リモコンを置き、伊部が向き直る。占いの所為かは分からないが、いつもに増した自信に満ちた顔をしていた。それを正面から受ける気力は今の大野にはなく、わざとらしく目を逸らした。 「強姦ってのはおかしいぜ、翼ちゃん?」 立ち上がり、髪から水を垂らす大野に近付く。 「あれは翼も合意した上での賭けだった。俺は先に報酬を口にしていたし、翼もそれは了承しただろ?」 胸の辺りを触れられそうになり、後ずさった。その腕を強く掴まれ、身が震える。伊部が濡れタオルを頬から剥がし、大野の首を絞めるように押し当てた。 「だからさ、俺を殴るのは筋違いって訳。分かる?」 「ん、ぐ・・・」 苦しい。自由なほうの手で爪を立てたが、剥がせそうにもなかった。 もう、ヤバい。 目の前が黒くなりかけたときに、伊部はどちらの手も離した。タオルが落ち、大野の喉がひゅうっと鳴る。 「なあ、翼? この場合、悪いのは俺か?」 「俺は、覚えて・・・ない」 「泥酔による契約不履行はこの際適応しないぜ。やると言ったときは、まだ酔ってすらいなかっただろ?」 言われて、う、と口ごもる。確かに、覚えている。 「翼?」 一歩前に出て目を閉じた大野に、伊部が首を傾げる。 「・・・自分で起こしたことには責任を取る。殴れ」 強がっても声が震えてしまうのは、伊部が自分より強いと分かっているからだ。きっと、かなり痛い。 「・・・ふうん。根性あんね」 伊部はくすくすと笑い、頬に手を当てた。びくんっと大野の肩が跳ねる。恐れているのがバレバレで、情けない。 殴るなら早くしてくれ。上がるだけ上がった心拍数を下げることもできず、ちらりと片目を開けた瞬間、唇に柔らかいものが触れた。目の前にあった伊部の顔から、キスされているのだと理解する。 「んんっ?」 苛立って上げた拳を両方とも止められ、逃げようと下がったら壁に背中が付いた。そこと挟むように口付けを深くされ、不快感に眉が寄る。 咬んでやろうかとも思ったが、それをネタに今度は何をされるか分からない。仕方なく伊部の舌が口の中を好き勝手に動くままにさせ、せめて相手を視認しないようにと目をきつく閉じた。 「・・・大人しいな?」 一度離れ、下唇を歯で軽く挟みながら訊いてきた。閉じた瞼と拳に強く力を込め、何も考えないように努める。 「可愛い奴」 「ふぁっ?!」 咬み付くように唇を塞がれて、膝でぐりぐりと股間を刺激された。流石に焦って、伊部の胸を押し返す。 「っや、いやだ! 伊部さん・・・っ」 擦るように揺すられ、大野は腰に力が入らないのとむず痒いのとで膝が笑った。はあはあと息を漏らし、もう限界だと崩れ落ちた。膝から抜けた瞬間、伊部はあっさりと手を離す。 「わり、研究室に呼ばれてたんだった。あとは自分でやってな」 はい、とティッシュを渡され、目が点になる。 「今日は土曜だし、ゆっくり帰ればいいよ。鍵はポストにでも入れておいて」 慌しく財布と鞄を掴み、伊部は出て行った。点になった目が、まだ戻らない。 「・・・はあ?」 無理やりに高ぶらされた熱がじくじくと躯に残り、大野は怒りで目の前が真っ赤になった。 流石に次の週は読み研に寄り付きもせず、代わりに新しい友人ができた。 生来の世話好きアンテナが反応を示した男は、話してみると意外と強かで、そしてそれを上回る天然気質の持ち主だった。平凡そうなのに、つい目が惹かれる。 昼休みと放課後はさっさとどこかに行ってしまうが、別に付き合いが悪いという訳ではない。凄く申し訳なさそうな顔をするから、きっと何かしら理由があるのだろう。 そして大野は本を読みたいという欲求にあっさりと負けた。音を立てないようにそろそろと入り、中を見てからがくりと肩を落とした。いつもの長ソファの上、伊部の上には女が乗っていた。 「お、翼。今日も可愛いな」 「あん。貴司、ヤろうよぉ」 「今日はだめ。人来ちゃったし」 やけにグラマラスな女だ。厚い唇を真っ赤に塗り、ぱつぱつの胸を伊部に押し付けている。それでも伊部の気持ちは変わらないと悟り、女は大野を一睨みして出て行った。ばたんっと大きな音がして、両者ともに肩を竦める。 「やあ、悪いな」 「別にしても構いませんでしたよ。俺は本が読めればそれでいいんで」 リュックを下ろし、パイプ椅子に腰かけた。この間読み止しのまま帰ってしまった本がどこかにあるはず、と横を向いたとき、現れたうなじに息をかけられた。思わず身を引いてしまい、本の山に顔をぶつける。 「おっと、危ない。気を付けろよ」 机に膝を付いて乗り出していた伊部がその山を押さえ、ついでとばかりに大野の頭を撫でた。誰の所為だと怒りながら手を振り払い、まだぞわぞわする首を強く擦る。 「んな、何考えてんだあんた!」 「それはこっちのセリフ。もう来ないと思ってたけど?」 本のぐらつきが治まったのを確認し、伊部はまたソファに戻った。皺だらけの白衣をふわりと躯にかけ、大きな欠伸を一つした。 その様子に大野は呆れながらも少しばかり安堵して、ちょうど見つけた本を開いて椅子に座りなおす。前回の続きを見つけ、視線を落とした。 「読みたい本が、あっただけです」 「タメ口でもいいぜ? この前はそうだったじゃねえか」 「・・・一応、先輩ですから」 「んなこと思ってもいないくせにぃ」 「なんなんですかさっきから!」 苛々して本を閉じると、伊部はじっと見つめてきた。その目の力に負け、少しだけ怯む。 「な、なんですか」 「俺が話しているときは、ちゃんと相手しろ」 「はい?」 「可愛子ちゃんの宿命だ!」 ビっと指を突き立てられ、大野はその発言のアホさに肩を落とした。ちょっとでも真剣な顔をしたかと思うと、すぐにこれだ。 「・・・あんたは真面目に話すってことができないんですか」 「んん? 俺はいつでも大マジよん、翼ちゃん」 机に前屈みになると、両肘を机に付いてその上に顎を乗せウインクしてきた。気色悪、と大野が躯を退く。 「はは、緊張解けたか?」 「あ?」 言われて、肩に異様な力が入っていたことに気が付いた。 「あんた、そんなこと気にして・・・って、緊張させたのはあんたでしょうが!」 「あはは、そうとも言うねえ」 「そうとしか言わんわ!」 全くなんて男だとぶつぶつ言い、本を開こうとしてやめた。伊部の目が興味深そうにくるりと光り、どうしたのと訊いてくる。 「あんたが話すときは、相手するんでしょ・・・」 唇を尖らせて言うと、伊部の顔があからさまに嬉しそうなものになった。にやあ、と笑い、組んだ腕を前に滑らせる。こうして数々の男女を落としてきたのか、と大野は憎らしい思いで見た。 「で? 可愛い翼は何を話してくれるんだ?」 「そうは言われても、突然話題なんか・・・あ」 そこで大野は新しい友人のことを思い出した。ちょっとおかしくて可愛いその男の話には伊部も興味を持ったのか、時々相槌を打っては笑っていた。 「はは、今度そいつ連れて来いよ。生で見たい」 「や、あんたに会わせると妊娠させられそうなんで」 「言うね」 きっぱり跳ね除けると、伊部はくすくすと笑いながら外を見た。春の陽光もすっかり赤色に染まり、夜の帳を下ろす準備をしている。 その視線が一点で止まり、ふと表情に影が差した。それは一瞬のことで、気付いた大野でさえも何かの見間違いかと思った。 しかしやはり気になるからと立ち上がってその視線を追うと、ちょうど真下の道を三人の男女が歩いていくところで。 「あ、御門さん」 その有名人の顔に思わず声を漏らすと、伊部は驚いたように振り向いた。そして取り繕うように笑い、ソファに力なく腰を下ろした。 「流石に、知ってるか」 「・・・まあ、外聞くらいは。入ってからも、名前を聞かない日はないですし」 「だよなあ」 背もたれに両肘をかけ、伊部は反り返って窓に頭を付けた。その顔がすねた子供のようで、大野はピンとくる。 「嫌いなんですか?」 「嫌いだね」 余りの即答もそうだが、伊部が人を嫌うというのが意外で目を丸くした。黙っていれば何か言うかと思っていたが、予想に反して伊部は素っ頓狂な声を上げた。 「あら? あららら? ちょ、翼ちゃん、助けてぇ」 どうやら髪の毛がサッシの部分に挟まったらしい。無理な体勢でぱたぱたと手を動かす姿に、溜め息が出る。 何やってんですか、と言いながら机を回り、その助けに応えてやる。 「・・・ん? どこも挟まってなんか」 「危機感、足りないんじゃない?」 おどけた表情を一変させ、伊部は大野の肩を掴んだ。騙されたと思うより先に強く倒され、ソファに背中から落ちた。組み敷く体勢で見下ろされ、背筋が冷える。 「ま、そういう間抜けさも好みなんだけど」 するりとシャツの裾から手を浸入させられ、大野は焦った。抵抗しようとした腕を掴まれ、きつく睨まれる。 「大人しくしな。乱暴したいんじゃないんだし」 「これが、大人しくできる訳・・・っ」 ぐ、と以前のように首に手を添えられ、息を飲んだ。 「・・・な? 気持ちよくしてやるから」 らしくない顔をしている。そう思い、これ以上の抵抗は無駄だと悟り全身の力を抜いた。その反応は伊部も予想外だったのか、手を離し跨ったまま上半身を上げた。 「していいの?」 「すればいいさ」 大野は投げやりに言い、顔ごと目を逸らした。 「でも、今回のは賭けの結果じゃなくて本当の強姦だからな。何を犠牲にしたって、訴えてやる」 冷静に言ったつもりだったが、実際はうまく装えたか不安だった。心臓は早鐘のようだし、恐怖で膝は震えている。歯を喰いしばっていないと、今にも泣いてしまいそうだった。 何分、現実には一分も経っていないだろうが、とにかく大野にとっては長すぎるほどの沈黙が続き、伊部は重苦しい溜め息を吐いた。そして大野の上から降り、残念そうに肩を竦める。 「あーあ、やめだやめだ。セックス一回で前科モンなんて、割に合わねえし」 ソファからも降りて、白衣を羽織る。 「ていうか、何がそんなに嫌な訳? 俺巧かったろ?」 どんな自身なんだ。 大野は毒づいてやりたかったが、服を直しながら正直に答えた。 「巧いも何も、覚えてないし」 「え? マジで?」 「うん。奇麗さっぱり、なんにも」 「はあぁ? あー、だからか。俺リピーター率100パーだもんよ」 なんだ納得、などと言う伊部に心底呆れながら、大野は帰り支度を始めた。もう、本を読む気分ではない。 そして鞄を持つために下げた視線をそのままに、伊部に声をかけた。 「もし覚えてたとして、それが凄くよかったとしても、今日のあんたとはしなかったと思うよ」 は、と問い返す伊部に、大野は絶対、と付け足した。 「だってあんた、今の八つ当たりだったろ? そんな感情の捌け口にされるなんて、俺はごめんだし」 逆光で顔のよく見えない伊部を一瞬だけ見て、本を山に戻すと大野はその洞窟の中へと身をねじ込んだ。 部屋を出てから、ふうと息を吐く。 何があったのかは知らないが、やめてくれてよかった。今でも、少し震えが残っている。 振り向いて、まだ中にいる伊部のことを思い浮かべる。 今日初めて、それも少しだけであったが、伊部の本当の部分を見てしまったような気がしていた。 続。 |