1.

 サラサラストレートの黒髪に、円らな大きい瞳。少し赤い唇は集中するとすこしだけ尖って、そこがまた可愛らしい。
 後期の試験前で人がごった返す図書館で、名取春樹は大野翼を見ながらそんなことを思っていた。
 何、と春樹のシャーペンが動かなくなったことに気付いた大野が顔を上げる。童顔を隠すためだという黒フレームの眼鏡が、きらりと反射した。
「ん? 大野は可愛いなと思って」
 その言葉を春樹が発した瞬間、周りからひっきりなしに聞こえていたノートの上をペンが走る音や電卓を叩く音、紙を捲る音といった全ての音がはたりと止まった。そして二秒ほど間をあけてから一応復活はするも、何かを窺っているのか心なしか小さい。
「名取・・・お前・・・」
 音の殆どがぎこちなくそして慌しいものになった。逃げるべきか否か。衆人にとって、それは今後のテストの結果よりも重大な課題となった。
「お前のほうがずっと可愛いだろうが」
 衆人が一気に安堵の溜め息を吐いた。放心しつつ、昼の穏やかな図書館に爆弾を投下しやがった張本人をさり気なく睨み付ける。そこですぐにその人物の正体を知り、慌てて目を逸らした。
 名取春樹。本人こそ平凡で柔和な人柄であるが、そのバックに付いている存在の余りのデカさに有名となった男である。
 その兄は若き助教授で、そしてもう一人、千年に一人の逸材とまで言われる男の興味をその一身に受けていた。実際は興味を持たれている以上の関係であると誰もが知っていたが、同時に誰もが信じたくない事実であったためおおっぴらに噂するものはまずいない。
 それにその相手は、噂の中にさえ名前を出すのが憚られるような男だった。
 名取春樹のほか、今年の一年生にはもう一つ注目株があり、それこそが春樹の正面に座る大野だった。
 大野はその女子顔負けの外見もそうだが、それ以上にその恐ろしさから名を大学内に広めている。
 外見の所為で絡まれた入学式。いかがわしいことを考えていた上級生三人はその日から一週間病院のベッドで夜を明かし、退院した後は自らの意思で大野の舎弟となった。大野本人は嫌がっているが。
 大野は可愛い顔をしていてとんだ猛獣で、可愛い、小さい、またはそれに通ずるNGパスワードを発した人間に容赦ない制裁を与えるという悪癖がある。色々な格闘技に手を出しているらしく、決まった型はないもののかなりの強さであった。
 これらの理由で本人たちの知らない場所でその知名度は勝手に上昇し、冬を手前にした今となっては学内に知らない人のほうが少ないのでは、という状況になっていた。
 二人とも余り周りに関心がないため、今回のようなことが日々起こっている。
 春樹が大野の制裁を受けないのは、単純に彼が大野の友人だからという理由だけからではない。春樹には、許してしまう何かがあった。それに加え、実際に怒ったとしても本人に悪気は一切ないから怒るだけ無駄というものだろう。少しばかり、ずれているのだ。
「そうだ、名取。お前ここ分かるか?」
「どれ? ・・・ごめん、分かんないや」
「御門さんに教えてもらってんじゃないの?」
「ん、と」
 ノートを覗くために上げた腰を下ろし、春樹は胸の前で五指を合わせた。そして恥ずかしそうに俯いたので、大野は春樹が口を開く前に手をかざしてそれを制した。
「ごめん、悪かった。言わなくていい」
「・・・ごめん、ね」
 そう言う春樹の頬はピンク色で、大野を含めその場にいた全員が重い溜め息を吐いた。
 大野が口にした男こそ、大学内外で有名な天才であり、春樹の恋人だという、御門仁成。春樹の入学以来ずっとお気に入りだと豪語し、夏前にさっさと落としてしまった。
 諸々あって一人寝ができないという春樹が御門の家にほぼ毎日泊まりに行っていることは、大野もとある事件の一端を齧っているので知っている。
 口うるさい兄への言い訳が勉強を教わるためというものなのだが、勿論メインは別にあるということを兄は当然見透かしている。そして、周りにいる学生たちも。図らずしも、彼らは学内公認カップルとして名高いのであった。
「で、でもさ」
 まだもじもじしていた春樹は顔を上げ、大野もそれに倣う。
「物理だったら、伊部さんのほうが得意なんじゃない?」
「あ?」
 その名前に、大野の眉が不機嫌そうに上げられた。春樹以外はその気配に身を硬くし、今度こそ逃げなくてはと帰り支度を始める。
「なんで、そいつの名前が出てくるわけ?」
 大野のNGワードその3、伊部貴司。
「だって、仲いいじゃ・・・」
「仲良くなんてねぇよ!」
 バン! と机を叩き、春樹が肩を竦ませる。その疑問に満ちた目と、周囲の怯えきった空気に大野は居心地の悪さを感じ頭を掻いた。重い雰囲気に負け、鞄を持つ。
「大、」
「ちょっと出てくる。戻ってくるから、荷物よろしくな」
「大野!」
 理由はともあれ、怒っているのは分かる。謝ろうとしている春樹の頭に手を置いて、大野は薄く笑った。
「怒鳴って悪かったよ。喉渇いたから、何か買ってくるだけ」
 優しく言って、背中を向ける。ここの図書館は盗難防止のためエレベーターと直通ではないので、そこへ行くためのゲートを通る。ちょうど止まっていた一台に乗り込み、奥の壁に寄りかかって目を閉じた。
 伊部、貴司。
 かの御門氏と同じ学年で、どうやら研究室に残ることを決めたらしい。それを聞いた夜のことを思い出し、首に手を当てる。
 今が冬でよかった。白い肌に映えると言って、伊部は何かと痕を残したがる。
 春樹は二人の関係を自分たちのものと同じだと思っているようだが、そんな甘い呼称は付いていない。言うなればセックスフレンドで、それも大野は仕方なくといった風だ。毎回毎回、これで最後にしたいと思いながら体を繋げていた。
 このことは当人たちだけの秘密で、春樹以外は本当に大野が伊部を嫌いなのだと思っている。ちなみに、春樹は勝手に気が付いた。それで、好き合っていると思い込んだらしい。
 言われるたび、大野は冗談じゃないと思う。男なんて嫌いだし、ましてや肌を重ねるなんて。昨夜も散々弄ばれた体が、ぞくりと疼く。
 なんでこんなことになった。悔しさに、寄りかかったまま膝の横の壁を強く殴った。
 あの日、あそこで遭ったりしなければ。
 エレベーターが止まり、その開いた隙間からあの日の陽光が差し込んだ。


 見上げるほどの男をくるりと飛ばして、先に伸びていた二人の上に乗せた。もう聞こえてなどいないだろうが、いくつか暴言を吐いて額の汗を拭った。
 春とはいえスーツで動けば暑い。破れなかっただけで儲けものかと思っていたら、パチパチと拍手の音が近付いてきた。誰だよ、と不機嫌顔で振り向くと、まるでホストみたいな男が立っている。
「凄いね、君。助けようと思って来たのに、思わず見惚れてた」
「は?」
「いやほんと。可愛いのに、なんてつよ・・・」
 突き出した拳を、簡単に止められた。それだけじゃない。込めた力も、奇麗にいなされている。
「あっぶねぇなあ。んなちっこい躯の、どこにそんな・・・」
 蹴りもかわされ、流石に目を丸くした。もう現役で何かを習っていないとはいえ、日々の鍛錬を怠ったことはない。警戒して後ろに退くと、けたけたと笑われた。
「もしかして、可愛いとか小さいって言われんの嫌? こいつらが死んでんのも、そういうわけ?」
「・・・殺してない」
「っはは、クソ真面目な奴」
 軽く笑って、男は伸びている輩を転がして仰向けにさせた。
「こいつら、顔のいい子らに手出しまくりなんだよね。君がのしてやったから、もう今年の被害はゼロかも・・・っと」
 男は突然踵を返すと、大野の手を取って走り出した。何事かと驚いて、反射で手を振りほどこうとする。
「ちょ、あんた・・・っ」
「後ろ見てみ、守衛だ。入学早々説教なんて喰らいたくないだろ?」
 振り向くと、確かに警備員らしい服を着た二人組みが駆けて来る。鞄を肩に掛け直しながら、渋々と従った。
「どこ、行く気?」
「ばっか、舌咬むぞ」
「そんなこ、」
 咬んだ。
 仕方ないので黙ってその男のあとをついて走った。もう殆ど緑の葉を覗かせている桜の木から花びらが舞い、顔の横をすり抜けていく。
 これが、大野と伊部の出会いだった。


 その部屋で、伊部は寝ていることのほうが多い。
 入り口に「読み研」と書かれたそこは、今は無きサークルのものだという。一部屋に詰めるには無理があるだろうという数の蔵書を抱えており、その量と余りの乱雑さ故忘れ去られた部屋であった。
 伊部も卒業生に教えてもらったとかで、伊部が教えた数人しかこの場所を知るものはいない。
「可愛子ちゃんは大歓迎」
 という伊部の提言通り、少ないメンバーは男女ともとにかく見目だけはよかった。ただし、その殆どがここで伊部とやらしいことをするのが目的であるようだった。
 大野はというと、入学式のあれでここに匿ってもらって以来、すっかりここの空気に魅入られてしまった。古い本の匂いは、好きだった亡き祖父の纏っていた香りに似ている。
 それに、ここの蔵書は本当に素晴らしかった。誰かが持ち込むのか、少し前のベストセラーから前世紀の遺物のようなものまで、本好きには堪らない宝がたくさんある。
 伊部はその辺りにはあまり関心がないようで、たまに暇を潰すために読んでいる本もジャンルがバラバラだった。それも、最後まで読みきるのを見たことがない。
 そういうわけで、大野はあの日以来時間が空けばここを訪れるようになった。人が一人やっと通れるような本の壁を抜け、奥の共有スペースへと出る。窓際の長ソファでは、やはり伊部が気持ちよさそうな寝息を立てていた。
 地震がきたら一発で生き埋めになってしまいそうな場所で、よく眠れるものだ。大野は見るたびにそう思うが、この部屋に差し込む陽光の中で眠るのは少しだけ羨ましくもあった。欠伸を咬み殺し、ところどころ皮の剥がれたパイプ椅子に座る。
「・・・翼か?」
 間延びした声には返事をせず、本を選ぶ。のそりと起きた伊部が、目頭をぐりぐりと押した。
「なあ、飲みに行こうざ」
「はい?」
「酒。金曜だってのに誰も捕まらなくってさあ」
 枕代わりにしていた白衣を机に置き、顎を乗せる。
「な? 行こうぜ」
 かなり揺れた。
 大野は無類の酒好きで、そういえば卒業式以来引越しだ入学式だとばたばたしていてご無沙汰だったからだ。相手はともかく、飲みたいとは思う。
「奢ってやるから」
 この一言が効いた。読み止しの本をぱたりと閉じ、立ち上がる。
 今思えば、伊部に誘われて誰も来ないなんておかしかった。女は勿論のこと、男にも伊部はモテていたから。更に、その遊び癖はかなり知られていることであったから。
 しかし入学して間もない大野がそんな話を知るわけもなく。タダ酒だと喜んでいるのをバレないように、ついていってしまった。
「んじゃ、入学おめでとー」
 カキンとジョッキを鳴らし、最初の一杯を呷った。久し振りのそれは舌の上でうっすらと苦く、そして身に染みる感じが懐かしい。思わず唸りそうになり、我慢して目を閉じる。
「何、酒好きなの?」
 表情でバレたのか、伊部は店員を呼びながらにやにやしていた。
「ほんと顔に似合わないことしてんのな、翼は」
「顔は関係ないでしょう」
 少しムっとして、ジョッキの端を齧る。伊部が悪い悪いと笑い、運ばれてきたメニューを大野のほうに押した。それを苛々と食べる姿を見て、また口角を上げる。
「・・・なんなんスか」
「いや、可愛いなと思って」
「殴りますよ」
「できないくせに」
 挑発されている。乗ってビールを頭から掛けてやろうかと思うが、それは余りにも勿体無い気がしたのでやめた。ぐびぐびと呷り、こうなりゃ破産させてやるとメニューを睨んだ。
「そんなに飲んで。潰れても知らないよ?」
「潰れたことないんで、ご心配なく」
 焼き鳥を齧り、目を逸らす。カウンターに座ればよかった。そうすれば、伊部がにやけているのを見ないで済む。
「お前さ、恋人とかいんの?」
「いませんが」
「へえ、意外。じゃあバージンなんだ?」
 そのセリフに、思わず噴出してしまいそうになった。食べかけの串をぽたりと落とし、信じられないものを見るように伊部を見つめた。
「・・・それを言うなら、童貞でしょう」
 この返しではそうだと言っているようなものだったが、思わず素でそんなことを訊いてしまった。伊部はそりゃあな、と適当に答えながら、大野が落とした串を拾って見せ付けるように残りを口にする。
「でもさ、お前なら抱かれるほうが似合うと思っ」
 伊部が言い終わる前にその顔へ向かっておしぼりを投げつけた。立ち上がって帰ろうとした手を掴まれ、刺すように睨む。
「悪かった、冗談だよ」
「冗談にしてもたちが悪い。あんた、最悪のセンスだな」
「まあまあ、そんなに怒るなって。怒らせたのは俺なんだけど・・・まあ飲め」
 中途半端に腰を上げたまま、伊部が離す気はないようなので渋々座り直した。それを確認して、伊部がにんまりと笑い手を解放した。
「でさ、翼」
 伊部は自分のジョッキを開け、追加を頼んだ。それが届くのを待ってから、大野に向けてそれを掲げた。
「勝負しねぇ? 俺も、潰れたことないんだよね」
「え?」
 負けず嫌いが祟った。
「翼が勝ったら、もう可愛いって言わないでやるよ」
「・・・あんたが勝ったら?」
「抱かせろ」
 間髪入れない答えに、大野は固まった。しかし不敵に笑い、ジョッキを持って伊部のものにぶつける。
「俺、本当に酔ったことないですよ」
 そこから三十分くらいは記憶がある。
 明らかに周りとは違うペースで飲み続けた二人はいつしか喝采を浴びており、囃し立てられるまま次々と飲んだ。伊部が歓声を上げる女たちに手を振ったりキスを投げたりと余裕な態度を見せるから、ついムキにもなっていた。
 何杯目になるのか分からないジョッキを空けたとき、初めて頭の中が揺れた。目も少し、回る気がする。
 机にジョッキを置く流れで、自分もそこに手を付いて顔を伏せた。伊部に何か言われ、それに逆上して立ち上がろうとしたとき。
 突然天井がぐるぐると回り出し、そこからは記憶がない。
 再び目を開けたとき大野は全裸だった。ありえない場所の鈍痛に、全身が冷たくなる。
「おはよう」
 声をかけられて、戦慄した。
「嘘・・・だろ?」
「眼鏡ないのも可愛いよな」
 その言葉に、自分は負けたのだと悟った。





続。