6.

 あの時、あの、浴室でのセックスの時。何故すぐに拒む台詞が出てこなかったのだろうと、本宮栄一はコートの脇で小首を傾げた。
 今日は三角が定めた期限の日であり、それはつまり美里が三角に告白すると言った試合の日であった。試合と言っても公式のそれではなく、各校の部長たちが前々から計画していた引退記念交流試合である。つまり殆どがお遊びで、最初の形式的なトーナメント戦の後は、チーム関係なしのメンバー入り乱れたゲームばかりが続いている。
 基本的に体力のない栄一はトーナメントの時から既に余り参加はしておらず、専ら得点ばかり捲っていた。三角のほうは、流石期待の新人といったところで、さっきからどのチームにも引っ張りだこだ。三試合中二回は出場させられていて、見ている栄一のほうが疲れてしまいそうだった。
 おかげで、朝からろくに会話もできないのが栄一には嬉しいことだった。あの日から数日が経っていたが、これといった答えはまだ出ていなかったのだ。というのも、栄一にはもう拒み続ける理由がない。こういう行為抜きにしても三角はいい後輩であったし、今は前ほど嫌ではなくなっている。行為それ自体より、もし拒むことが関係を一切絶つということだったらと思うと、そのほうが恐いのだ。
「全く、バカだね俺も・・・」
 一人ごち、自嘲する。あんなことがあっても三角を嫌いになりきれない自分がいる。それに、時々見せる優しい笑顔や子どもっぽい態度が頭をちらついて、それも決心を鈍らせた。
 しかし、と思う。
 栄一は美里が今日告白することを知っている。知っていながら、自分は三角との関係を切らないことを選ぼうとしていた。このことが、今までの自分からは考えられなくて困惑していた。
 以前なら、美里を応援しただろう。せっかく三角から離れてもいいというお達しが出ているのに、何故自分は迷っているのか。
それどころか、美里が三角に近付くたび胸が妙にざわついた。これではまるで嫉妬しているみたいではないか。頭を左右に強く振り、その思いを掻き消す。そんなことはない。ただ、いい後輩をなくしたくないだけなんだ。
 考えれば考えるほど思考は訳の分からない答えを導くばかりで。栄一はいい加減うんざりしつつあった。
 そうこうしている内に午前中の試合はあと一つを残すまでとなり、栄一はまた得点板の横であくびをかみ殺しつつボールを追っていた。その試合にはやはり三角の姿があり、ベンチを見れば美里がその姿を追っている。なんとなく不愉快な気分になって溜め息を吐くと、一緒に得点を捲っている和泉が、意味深な笑いを浮かべてこちらを見てきた。
「先輩も、美里さんの変化に気付いてますか?」
「変化?」
 コートを見るように指先で促してから訊くと、はいと頷く。
「奇麗になったっていうか、今日は凄い気合入ってる感じなんですよ。湯村キャプテンも言ってましたよ」
「ふうん」
 それは気合も入るだろうと、栄一はコートを追う目を遠くから眺めた。今日、彼女は三角にその思いのたけを伝えるのだそうだ。女にだって、勝負するところはある。その、周りから見ても分かる変化には栄一も気付かされ、なんとも陰鬱な気分のまま機械的に得点を捲り続けた。
 その栄一が倒れたのは、あと数十秒でゲームが終わるといった頃合だった。遊びとはいえ、やるにつれ本気になっていくのがスポーツである。残りわずかという状況に焦った一人の投げた鋭いパスは、味方の伸ばした手にかすりもせず栄一及び和泉のいる得点板のほうまで飛んできた。
 気付くのが早かったこともあり直撃は免れたものの、避けかたがまずかった。座ったパイプ椅子ごと後ろに倒れ、体育館の硬い床に後頭部を強か打ったのだ。
 余りに突然のことで場は一瞬沈黙し、コートの中にいた三角の反応が一番早かった。脱兎のごとく栄一に近付いたかと思うと、意識がないことに焦りもせずその痩躯を持ち上げ医務室まで走った。それはさっきまで全力でプレーしていたとは思えないほどの速さで、後を追う湯村も驚いていた。

 軽い脳震盪だという診断に、湯村を始めその場にぞろりと集まった栄一のチームメイトはほっと胸を撫で下ろした。
 ほぼ全員が揃ったという状況に医務室の女性は栄一の人徳を褒めつつからかった。三角だけがその冗談に笑わず、じっと床を見つめている。その様子に気付いた湯村は三角の肩を叩くと、
「じゃあ頼む」
 と言って心配顔の部員を医務室から追い出した。
「あら、いいの? この子ってエースなんじゃあ」
 女性がそう言うと、湯村が振り向く。
「そうなんですけどね。午後は一年の参加はないんですよ。それにそいつら仲いいんで、他の一年残すよりいいかなって」
 その言葉に何人かの一年は笑いながら抗議したが、特に批判も不満もないので湯村に押されるまま医務室を出て行った。美里だけが何か言いたげに振り向いたが、結局は全員に追いつこうと小走りに出て行く。それを見送ってから、女性は三角を見た。
「さて、私も体育館に行かなきゃだからさ、あと頼んじゃってもいいかしら? 起きて、気持ち悪そうだったら呼びにきてちょうだい」
「はい」
 そうして二人きりになった医務室で、三角は自分が頭を打ったかのような悲痛な面持ちでベッド横に付き添う。眠る栄一の顔は穏やかそのもので、それが三角の緊張を解した。呆れた風な溜め息を吐くと、ベッドの端に両肘を突いて苦く笑う。
「・・・ほんと、目が離せないですね、あんたは」
 入部してすぐは、なんでこの人が周りに慕われているのかが分からなかった。しかし、最初に会話を交わした新歓コンパのとき、その行動の端々から見える気遣いに心が落ち着いた。そしてどこか一歩離れた印象に、恐ろしく惹かれた。控えめな笑いを愛しいと思うようになったのは、それからすぐのこと。その想いは少しずつ増長し、独り占めしたいという願望に摩り替わりあのような行動にでた。
 嫌われても構わないと思っていた。憎しみであっても、栄一の思考の中にいつでも自分がいればいいと。そう、思っていた。
 それが少し欲深くなったのはこの間のキスの所為だ。やはり手に入らないのかと自棄を起こしかけたというのに、どこまでお人よしなのか、栄一は三角の手を取りに戻ってきた。そして、あのキス。
 自惚れる気はないが、栄一が三角を少なからず想っているのだろうとは分かった。それが嬉しくて、最近では本能の赴くまま栄一を愛でてしまう。縛り付けるような行為や言動は、したくなかった。
「だから・・・逃げないで欲しいな」
 ぽす、と栄一の胸がある辺りに頭を落とす。顔のほうは見ずに目を閉じ、布越しに伝わる小さな鼓動に耳をすませば胸が苦しくなる。好きで、堪らない。幾つか溜め息を吐いて、子どもが親に甘えるようにこめかみの辺りを擦り付ける。
「栄先輩。今日、ですからね」
 勝算は少ない。自分に惹かれる部分は認めているだろうが、この人は割りと周りを気にする性格であるようだから。そう考えると面白くて、くすくすと笑いを漏らした。
「先輩・・・」
 好きだと言ってしまいたい。だがそれをしないのは、男の意地のようなものだ。第一、始まりが始まりだっただけに今更本音を言える訳もなかった。だから、祈るしかないのだ。栄一が自分を好きになってくれるのを。
 切なさを隠すように乾いた笑いを漏らしたとき、医務室のドアが開かれた。

 意識が戻ったとき、初めに感じたのは視線だった。なんとなく目を開けられないでいると、聞き覚えのある声がし、それが三角だと気付いた刹那毛布越しに何かが胸の上に置かれた。
 恐る恐る目を開ければ、視界には三角のものらしき頭があった。驚くが、こちらを見ていないことに安堵しとりあえず黙っておくことにする。見ていると、三角は何度か深い呼吸のような溜め息を繰り返し、栄一を呼んだ。一瞬返事をしそうになるも、我慢してその言葉を聞いた。
 今日ですからね、と言われぎくりとする。早くなりつつある呼吸を聞かれやしないだろうか気が気じゃない。そうこうしている内にもう一度呼ばれ、その含みのある囁きに胸がざわついた。恋人を呼ぶような熱さだと、勘違いそうになる。
 もうバレるかもしれない。そう思って身を硬くしたと同時に三角が小さな笑いを漏らし、その直後医務室のドアが開く音がした。
「三角くん・・・?」
 美里だ。その奇麗な声に尋ね人はすぐ判明し、これから起こることを思って頭がぐわんと鳴いた。
「美里さん、ですか?」
 胸の上にあった重みが消え、行かないで欲しいと言いたいのを押し隠して眠ったふりをしていると、離れかけた気配が戻ってきた。
 さらりと前髪を分けられ、その露出した額に何か押し当てられる。
「すぐ戻ります」
 至近距離で聞こえた声に、またキスされたのだと悟った。
「こんなときにごめんね。ちょっと話があって・・・」
 美里の声はドアが閉まる音に遮られだんだん小さくなり、やがて聞こえなくなった。恐らく場所を変えたのだろう。医務室の外にも気配がないのを確信して目を開けると、医務室らしい白い天井が目に飛び込んだ。
「あいつ・・・」
 キスされた額を押さえ、湧き上がる恥ずかしさに誰も見ていないというのに気まずそうに俯いた。その視界に、さっきまで三角が座っていたと思われるパイプ椅子が入る。
 毛布から出ないで体をずらしてそこに座れば、まだ微かに温かい。撫でると、無性に愛しさを覚えた。
 今頃美里は告白しているのだろうか。そう思うと突然胸がきりきりと痛みだし、不謹慎ながら断られてしまえばいいと思ってしまった。思って、自覚する。
 三角を、誰かに取られたくない。
「三角・・・」
 頼むから、戻ってきて欲しい。
 ぱたりと涙が毛布に落ち、慌てて拭う。それなのに涙は後から後から流れ出て、腕だけではどうしようもなかった。
「う、三角・・・」
 おかしいのは分かっている。だって、あんなに酷いことをしてきた相手を、好きになるなんて。
 だがしかし。栄一の言動一つで一喜一憂し、突如として不安定な部分を除かせる可愛い人間を、どうして好きにならないでいられる。
 毛布を抑える手をぱたぱたと涙が雫となって打ち、どうにも止まらない。情けなくて逆に笑えてくる。好きな相手を、それも男を想って泣いているなんて。泣き笑いのまま目を手の甲で覆って後ろに倒れこむと、また白い天井が狭い視界に移った。瞼を落とし、それすらも断絶する。
「みす、みぃ・・・」
「なんですか?」
 驚いて弾けるように体を起こせば、意地の悪そうな顔で笑う三角がベッドの足元に立っていた。いつから、と言いかけて自分があられもなく泣いているのに気付き、毛布を被って丸まった。
「な、おま・・・なんで!」
「話が終わったんで戻ってきただけですよ。そしたら栄先輩が俺を呼んだんで、返事したまでです」
「んな解説いらねーよ! なんで柚木さんを置いてこれるんだっての!」
「なんでって・・・あ、まさか知って・・・?」
 図星を指され、栄一は毛布の中で体を縮めた。もうこのままだんまりを決め込んでやろうかと思ったのに、ベッドの下部分が軋み三角が乗り上げたのだと気付く。その重みはじりじりと寄り、その進度に合わせて高鳴る鼓動が痛いくらいで。栄一は最後の抵抗にと掴んだ毛布の先を更に自分へ引き寄せた。
「・・・何か、言いたいんじゃないですか?」
「・・・・・・」
「じゃあ俺から言いますね。美里さんは、断りましたよ」
 ここに来た時点でそれは察しが付いていたが、わざわざ報告される筋合いはない。そう思って更に黙っていると、丸めた肩を毛布越しに抱きすくめられた。
「なんでって、訊かないんですか?」
 訊かない。聞きたくない。これ以上無理だというくらい体を縮めることでその意志を伝えたら、呆れたような含み笑いが落とされた。
「じゃあ言いますけど、俺、栄先輩の答えを聞いておきたかったんです」
「・・・答え?」
「俺を切り離すか、受け入れるか」
 あと、と思い出したように呟き、この辺だろうという勘で探りあてた耳元に囁いた。
「なんで泣いていたのか、ね」
 じわっとまた泣きそうになって、それが苛立ちに繋がり栄一は上の三角を蹴るようにして跳ね起きた。毛布を剥げば、少し驚いた顔の三角と目が合う。その顔が余裕の笑みを浮かべ、無性に腹が立った。
「おま、お前は・・・ずるい」
「どういう意味です?」
「写真のこともそうだが、俺に選択肢を与えているようで、実は追い込んでる」
 赤くなった目で睨めば、三角は悪びれもなくそうですねと頷いた。
「でも今回はちゃんと栄先輩が選べるじゃないですか。猶予も与えたし、もし拒まれたら俺はちゃんと離れるつもりで・・・」
「それが選択肢を減らしてるって言ってんだよ!」
 苛立って叩いた先にあった枕を投げるが、簡単に受け止められた。それがまたムカついて毛布を投げるが、今度は自分の視界も塞ぐことになり、その隙に距離を詰めた三角に両手首を掴まれる。そして近付く三角から離れようと躯を引く動きを利用され、ぱたりとベッドに倒された。白い天井は、三角に照明を遮られ薄暗い色を示した。
「減らしてる? 何がですか」
「だ、だってお前・・・」
 体を起こそうにも掴まれた手首はぴくりとも動かず、股下から抜けようにも腰に乗られている所為で身動き一つ取れない。完全に拘束されて焦っているのか、舌はぎこちなく動き発せられる言葉はみっともなくどもる。
「うけ、受け入れなきゃ全部なくなるんだろ? 俺はそんなのい、嫌だ・・・! 何も関係がなくなるくらいなら、俺は・・・」
「俺と、セックスしてくれるの?」
 間近で真剣な眼差しを向けられ、栄一はいたたまれなくなって目を逸らした。それなのに三角はその逸らした先に回り、うろたえる目を覗き込んでくる。
「先輩、それだけ? なんとも思ってないけど、関係を絶つって言われたら誰とでもするの?」
「ちが、」
「俺は栄先輩がいい。栄先輩以外とは別にしたくないし、栄先輩以外の人はどうなってもいい」
「な、に言って・・・」
 顔がどかっと熱くなるのが分かった。自分でもそれぐらいなのだから、見ているほうからは真っ赤になったのが丸分かりだろう。案の定、三角は嬉しそうに微笑んで栄一の頭を抱えるようにした。顔が、息が触れるほど近くなる。
「三角・・・」
「好き、なんですよね。もうどうしようもないくらい」
 栄一の中に明らかな歓喜が満ちた。直球な言葉は恥ずかしくて直視できないほどなのに、心はまっすぐに三角を向いていた。嬉しくて、どうにかなってしまいそう。
「今までのこと、許してくださいとは言いません。あれも・・・俺ですから。でも、好きなんです。栄先輩が好きで好きで、」
 これ以上聞いていられなくて、栄一は顎を持ち上げてその唇を己のそれで塞いだ。数秒当ててから離れると、勝ち誇ったような笑顔の三角と目が合った。
 そしてその笑顔が近付き、今度は深く唇を求められる。食べられそうなほど唇を覆われ、息苦しさに少し開けば入るはずの空気すら奪われ自然息が荒くなった。首の横から手を回して髪を指に絡めるようにして引き寄せれば、お返しにとばかりに舌をやらしく絡め取られる。
 お互いがお互いを溶かしそうなほど、深い口付け。
 その熱さに酩酊しながら、栄一は獣を手懐けたような変な気分になっていた。




続。