4.

 その圧迫感と苦しさに、本宮栄一は三角渓夜の背中に回した手に思わず力を込める。その所為で三角の背中には赤い筋が幾本も付いたが、三角がそのことを気にする素振りはない。それどころか、二人の間にはこれといって会話もなく、視線すら絡まることがなかった。
 二人分の熱い呼気が充満する部屋で、無言のまま二人は疾走するようなセックスに及んでいる。しかし、互いを気遣うような行為は一切なく、受け入れる栄一は始終苦しそうに眉を寄せていた。押し殺した泣き声が、湿った空気に混じる。
 快感などかけらもない行為の中で、栄一はただ生理現象のような射精を一度だけした。

 狭くも広くもない、ごく一般的な浴室でシャワーを浴びながら、栄一は足元ばかり見下ろしていた。排水溝に向かって流れるお湯には、血も精液も、石鹸の泡すら混じってはいない。もう全身の至るところを清めきってはいたが、出る気にならないのだ。
 ついさっきは強制的なまでに熱くなっていた体は芯から冷え切り、熱いお湯を被っているのに全く温まらない。時折歯がかちりと震えるのは、全身から湧く恐怖の所為なのだろうか。溜め息は、後から後から流れ出る水音で掻き消えた。
 陰鬱な面持ちで浴室を出ると、部屋の主はいなかった。人の気配もない。見渡せば、食事をするであろう机の上にメモと少量の食事が用意されていた。栄一は安堵するが、同時に肩透かしを食らったような変な気分だ。顔を見れば、殴りでもしただろうか。それとも。
「逃げるのって、俺のほうじゃねえの?」
 酷く自嘲的な気分になって笑えば、その笑いは引きつりただ唇が歪んだだけで。無理に笑おうとしたら、ぼろりと涙が零れた。
「あー・・・くそ、痛ぇなあ」
 無理やり原因を作るも、それだけが全てではないことは分かっている。腰に手を当て床に手を付いて、ぽたぽたと溢れるまま床を濡らしていった。
 悔しい。何が悔しい。何が、悲しい。
「う、ふ・・・っ」
 机の脚にもたれるように座ると、床の冷たさに頭がひんやりと冷えていく。
 自分が何故泣いているのかが分からない。男に犯されたことか。後輩に裏切られたことか。いや、違うと否定する。それならば今までと変わらない。諦念して、耐えようと思ったことではないか。
 なら何に対して違和感を覚えた? 考え、一つの答えに中り栄一は自嘲の色を濃くした。
「あいつ、笑わなかった」
 いつもはムカつくほど笑うのに。こんなことになる前は、もっと無邪気な笑いに思えて、今ではただ意地悪にしか見えないものだったけれど、それでも。
 笑っていた。楽しそうに、嬉しそうに。
 その笑顔を苦しそうな歪みに変えてしまったのは恐らく、いや確実に自分なのであろう。自分の無神経が生んだ結果だ。
「何・・・言ってんだか」
 絆されちまったのかな、と変な笑いを浮かべたまま、栄一は暫く泣き崩れた。

 三角が大学に来ていないと栄一が聞いたのは、週が明け二日が経ち、最奥の痛みが微々たるものに変わった頃だった。二日なんて割と普通じゃないかと言いにきた一年に言えば、三角にすれば一日すら珍しいのだと首を振る。
「あいつ、講義をいきなりふけることはあっても、休むってことはなかったんです。何かあるんじゃないかって」
「待てよ。それをなんで俺に言うんだ。関係ないだろ?」
 情交の痛みは引いたとはいえ、三角のことを思うと胸の辺りがじくじくと痛む。できれば聞きたくない名前ナンバーワンなのだが。
 そうは言えない栄一に、その後輩和泉は食い下がった。流石栄一の講義が終わるのを待っていただけの執念はある。
「だって本宮先輩、最近渓夜と仲いいじゃないですか。二人でいることも多かったですし・・・何か知ってると思うのは自然でしょう?」
「仲がいい、ね」
 自嘲気味に笑う栄一の真意を測れないのか、和泉は一瞬訝しさを顔色に混ぜたが、すぐに消して一歩近付いた。
「俺たちから見れば仲がよかったんです。お願いですから、一度連絡を・・・」
「そんなに心配なら直接家に行くなりなんなりすればいいじゃないか。わざわざ俺を経由しなくたって、それくらい・・・」
 栄一の提案に、和泉の顔は曇った。何事かと首を傾げると、申し訳なさそうな笑みがその頬に浮かんだ。
「知らないんですよね、誰も」
「誰も? 一人もか?」
「はい。あいつ人当たりはいいんですけど、どこか一線を引いてるようでして。みんなで騒いでても、時々ふっと遠くに行っちゃう感じなんですよ」
 三角の張り付いたような笑顔を、思い出す。その笑顔と違うものも、栄一は見たことがあった。しかし、それがいつのことかは思い出せない。
「・・・とにかく、俺も原因は知らない。来ないのだって今日知ったくらいだし。悪いな、力になれなくて」
「あ、いいんです。先輩ならもしかしてって思っただけですから」
「俺なら?」
「はい。さっきも言ったように、渓夜ってどちらかというと壁を作るタイプじゃないですか。でも先輩には割と、いやかなり懐いていたように見えました。俺たち相手とは態度が違うって、友人間でも話題だったんですよ」
 ただの勘ですけどね、と和泉は自信のなさそうな笑いをした。そこで携帯を開き、慌てて話を切る。
「わ、もうこんな時間じゃないですか! すいません先輩、時間食って」
「いや、俺はこの後もう帰るだけだし、いいよ」
「とにかく一度メールだけでもしてくれませんか? 俺たちじゃ埒があかなくて」
「あ、うん・・・」
 じゃあお願いしますね、と言い淀む栄一を置いて和泉はもう走り出していた。その後姿をぼんやり見ながら、栄一も時間の確認の為携帯を見ようとジャケットのポケットに手を入れた。その指先に、かさりと紙の感触がある。取り出せば、いつかのメモで。
 文面は三角からの謝罪と、今日は泊まってもいいので自分が戻る前に帰って欲しいというもの。読んだときは無性に腹が立ったのだが、今となっては何が気に障ったのかもう思い出せない。正直に言えば、考えたくないだけなのだが。
 ぐしゃぐしゃと丸めて近くのゴミ箱に投げ、入ったのも確認せず踵を返した。
「あの馬鹿野郎」
 なんで俺が気にしなくちゃならないんだと、毒づく栄一の体の奥がまたズキリと痛んだ。

 栄一が渋々三角の家に向かったのは、それから更に三日が経ってからのことだ。
 練習試合が近いこともありとうとう湯村からお達しがあったのも動機の一つだが、マネージャーの美里に頼まれたのも大きかった。美里はバスケ部のアイドルであるが、あろうことか三角のことが好きであるらしい。その美里が三角のいないことで消沈するのは、全体的な雰囲気としてもよくない。美里の気持ちを知っている栄一としては、少し胸の痛い光景でもあったのだ。
 とりあえず、様子を見てくるだけ。
 そう断言して部活の後に向かった三角の住むアパートの部屋は、まだ寝る時間でもないだろうに真っ暗になっていた。いないのかと思って胸を撫で下ろしたが、一応のつもりでインターホンを鳴らせば奥で人の動く気配がする。その気配は置くからゆっくりと近付き、扉一枚隔てた向こう側でぴたりと止まった。
「・・・三角?」
 返事はない。二、三度ノックしてからもう一度名前を読んだら、漸く冷たい声が返ってきた。
「何か用ですか」
 帰れと言わんばかりの声だ。恐らく、また笑ってはいないのだろう。そう思うと、胸の辺りがぎゅうっと痛くなった。
「・・・なんで来ないんだよ。みんな心配してるぞ」
「みんな、ですか」
 ふはっと乾いた笑いが聞こえ、また暫く沈黙が続いた。それに耐え切れなくなったのは栄一のほうだ。近所迷惑を一瞬考えたが、ゴツンと扉を叩き中の人物に声を掛けた。開けてくれと頼めば、嫌ですよと返ってくる。意固地になって何度か叩けば、更に温度の下がった声が言う。
「入るんですか? 自分を犯した男の家なんかに・・・」
「いいから開けろ!」
 何故か苛立ち、扉を更に強く叩いた。少し間があって、開錠の音がしたあとゆっくりと扉が開く。その少し開いた隙間に手を入れて乱暴に開くと、薄暗い部屋を背景に三角が妙な笑いを浮かべて立っていた。相変わらず、栄一の顔すら見ない。
「入るぞ」
 宣言するが、三角は体を引かない。
「入るからな」
 もう一度そう言い、三角を押しどけてから侵入した。後ろ手に鍵をしめれば、三角が何かを言いさして止めた。
「・・・知りませんからね」
 苦い表情で斜め下を見る三角を無視して中に進む。1LDK。大学生の一人暮らしには十分すぎる広さの部屋をずかずか進み、電気を点けて部屋中を見渡した。思っていたような生活の乱れはないようだった。前見たとき同様、物の少ない部屋は奇麗に整頓されている。ただ、掃除は怠っているのか床が少しざらついていた。空気も、心なしか澱んでいる。
「今まで何してたんだ?」
 振り向いて訊くと、三角はリビングの扉の横に寄りかかり感情のない目で栄一を見返す。また、口だけの気持ち悪い笑いを浮かべる。
「先輩面しないでくださいよ。俺のことなんかなんとも思っていないくせに」
 かあっと頭に血が上り、そうだと自覚したときには目の前の男を殴っていた。ぱあんと乾いた音が部屋に響き、そのあとはまたひたすらの沈黙。それを破ったのは、またしても栄一のほうだった。
「なんだ、お前。なんでお前がそんなふうになってんだよ」
 腐りたいのも逃げたいのも俺のほうだと、栄一は苦々しく吐き出す。
「・・・じゃあ、なんでしないんですか。なんでここに戻ってきたりしたんですか。なんで!」
 はたかれても顔色を変えなかった三角が、また顔を歪ませる。悲しそうな、辛そうな表情である。
 語調を荒げはしたが、三角はまたふっと無表情に戻り、栄一を見ずにひらひらと手を振った。
「もういいでしょう。帰ってくださいよ。あんたといると、辛すぎるんで」
「三角・・・」
 この表情を、栄一は見たことがある。あの日、無理やりに栄一を押し開いたときの顔だ。痛みに泣く自分の上で腰を動かしながら、顔に貼り付いていた皮肉な笑みはだんだん歪み、最後には今と同じような表情をしていた。
 内臓がせり上がるような圧迫感に何度も意識を飛ばしそうになりながら、栄一はこの顔を何度か見た。その目が、栄一を捉えることはなかったが。
「・・・辛いって、何が?」
「・・・あんたが、俺を見ないことですかね」
「見てないのはそっちだろ。俺はちゃんと見てる」
 そうじゃない、と三角が首を振る。
「そうじゃないんです。・・・本当、帰ってくれませんか? 手に入らないなら、いりませんから」
 栄一は、目の前の男の言っている意味が全く分からなかった。自分で捕まえておいて、手に入らないとはどういうことなのだろうか。
「・・・俺は今、お前の手中にあるんじゃないのか?」
「だから、それは・・・」
「言えよ。何をしてほしい。何をすれば、」
 お前はまた笑うんだ。
 そう言う前に、三角は壁を拳で殴りつけた。びりっと部屋中に振動が起こったようで、栄一は少し怯えた。すっと顔を上げた三角の目が、冷たい視線の矢となって栄一を射すくめた。
「あんたのそういうところが、辛いってんですよ」
「な、に・・・」
「いいですよ、やりましょう。俺の望むこと、全部」
 従いますよね、という問いに、栄一は喉を鳴らしただけだった。
 どうやらまた何かを間違えたのだと気付くには、遅すぎた。

 実質三回目となるその行為に、それほど抵抗もないことに栄一は驚いていた。男のペニスを咥えるというのは屈辱でしかないが、諦念すればそれほど嫌でもない。こうして人間は苦境に慣れていくのかと、栄一は苦々しい笑いを浮かべた。
「・・・あんた、本当はこういうこと好きなんじゃないんですか? 俺が解放したら、他の男のとこに行きそうですよね」
 そんな訳あるかと首をふると、それが刺激になったのか三角の呼吸が詰まった。その反応を見ようと視線を上げると、それはまた絡まずにただ宙を舞う。
「・・・こんなの、お前にしかしねえよ」
 枕を背にゆったりと座る三角の股間に顔を埋め、硬くなった性器を両手で扱きながら言う。
「っていうか、こんなこと俺に要求するのなんてお前ぐらいじゃん? 俺も、お前以外には脅されたって従わない気がするし」
 確信はないが、そう思い自ら頷いてからまた怒張を口に収める。太いそれに苦しそうな声を漏らせば、後頭部を優しい手つきで撫でられた。初めて目にする動物を相手にするような、ぎこちない動きだった。
「・・・も、いいでしょう。乗ってください」
 栄一の足を割ると、自分の腰を跨がせ尻の肉を左右に開いた。ひくんと震えるのを無視し、用意していた容器からローションを腰骨に落とし引力で蕾までを濡らす。冷たさに緊張する体を宥めるように太ももの裏を撫でられて、栄一は三角の肩に置いた両手に力を入れた。皺の間に塗りこむような指の動きにざわざわと全身が戦慄き、喉の奥から甘い吐息が漏れ出す。
「この奥・・・」
 ずるずるに濡れそぼったそこに中指を押し当て、三角が訊く。
「切れてしまいましたよね。まだ痛いですか?」
「いや、もう平気・・・」
 三角には強がりに聞こえたかもしれないが、これは本音だった。当初は歩くのも座るのも辛いほどだったが、今は治りかけの傷のようにむず痒い。さっきからひくひくと三角の指を啄ばむように律動しているのが、自分でも分かって恥ずかしい。
 細い息で呼吸していると、あてがっている手とは反対の手が腰骨を撫でた。
「少し、腰を落としてもらってもいいですか。やりにくい・・・」
 言われるまま腰を落とすと、自然三角の首に手を回すような形になる。自らの腕に顎を乗せれば、もう顔は見えなくなった。
「ふ、ん・・・っ」
 下げることで突き出された双丘に指が埋まり、栄一は回した腕に咬み付いた。痛みが、腰からくる浮遊感を散開させる。
「声、殺さないで」
 囁き声が直接耳に届き、なんだか泣きそうな切なさに見舞われた。それを誤魔化そうと腕に力を入れると、二本目の指が少しの隙間から侵入する。ゆるゆるとピストンされれば、自分の体が受け入れる準備を始めているのがよく分かる。
「あっん、んぅ、う・・・」
「先輩、分かってます? 腰、振ってますよ」
「うるさ・・・」
 二本の指が襞を押し開き、中に空気が参入する。それを閉じ込めるようにまた襞を閉じれば、いやらしいあぶくがぷちゅりと三角の指に纏わり付いた。
 回したり、前後させたり。この前とは違うゆっくりすぎる前戯に、栄一は頭の中がじんとするような疼きに襲われた。気持ちいい。体がこの行為に慣らされつつあるのがよく分かった。
「そろそろいいんじゃないですか。・・・入れてみせて」
「え、」
 引き抜いた指でぬるぬると尻たぶを割り、さっきから天を向いている性器に乗せた。しかし三角はそこで手を腰に移し、動かさない。
「支えていてあげますから。腰を落として、自分で入れてみて」
 ごく先端だけが埋まった状態で止められ、栄一は全身がぶるりと震えた。そんなこと、できるだろうか。体を起こして三角を見上げれば、栄一の肩の向こう側を見ていて感情が読み取れなかった。仕方なく意を決して腰を落とすと、想像以上の痛みにすぐ止めてしまう。この間、初めての挿入時の痛みがまざまざと甦り、とてもこれ以上進めない。
 そう目で訴えるが、三角はちらりとも見てはくれなかった。
「んん・・・ん、あ」
 体重をかけることでそれを埋めていくと、じわじわと吐き気が込み上げてくる。内臓を下から圧されるこの感覚は、多分何度やっても慣れるものではないだろう。
 かなり時間をかけて漸く半分進んだときには、栄一の性器はすっかり力を失って垂れていた。それを見て、三角は傍にあった容器を再び手に取った。
「あ、だめ・・・」
 止める前にびたびたとその冷たい中身を性器に掛けられ、そのぬめりを利用して揉むように扱かれた。痛みが、直接的な快感と綯い交ぜになって栄一の体に言いようのない感覚を引き起こした。痛みすら快感に摩り替わることを、体感する。
「ああ、あっあん、触らない・・・で」
 気を抜けばずるりと腰を落ち着けてしまいそうだ。そうなったら、自分はおかしくなってしまうかもしれない。言い知れぬ恐怖に栄一が膝を曲げないでいると、三角はその亀頭の割れ目を親指の腹でやや強く擦った。
「ひ、い・・・!」
 息が詰まり、それを吐く瞬間をついて三角は細い腰を両手で掴み一気に引き下ろす。引力と合わせ最後まで飲み込んだ栄一は、喉を反らせぎりぎりまで開けた口から高く悩ましい嬌声を上げた。ごりごりと三角の性器が中の性感帯を擦ったのか、性器からは圧されるまま白濁がへその辺りに散る。射精ではなかったのか、まだ上を向く竿を伝ってそれは下まで垂れ、赤く捲れた結合部まで濡らしていった。
「は、はふっ、ふぅ・・・っ」
 苦しげに息を吐く栄一の前髪を掻き上げ、その額に浮いた汗を三角の舌先が掬った。泣き止まぬ幼子をあやすようなその仕草は、栄一の胸を切なく痛める。
「・・・辛いですか?」
「へ、平気・・・っ」
「・・・強がり」
「平気だ!」
 自棄になって騒げば、三角は微かに笑いを漏らした。薄目を開けた瞬間にそれが視界に入り、栄一は何故か無性に嬉しくて、そして肺の真ん中辺りが潰れそうなほど痛んだ。
 何か、何か言いたい。三角に伝えたい。しかし真っ白になった栄一の頭は何も言葉を紡ぐことができず、ただ感情の赴くままふらふらと顔を近付けた。三角の目が、一瞬驚きで揺れたのが見える。そして、焦点がずれ、ぼやけていった。
「え、先ぱ、」
 不自然に切れる三角の言葉。一瞬の沈黙。
 なんだか幸福な気分で瞼を上げると、見開いた三角の目と栄一のそれとがかち合った。
「え? あ、俺・・・」
 たった今まで触れ合っていた唇を押さえ、栄一はがばっと身を引く。逃げ出したくもあったが、繋がっている所為でうろうろと視線を彷徨わすしかない。
 三角も同じように口元を手で覆うと、自分の上で真っ赤になってあわてふためく栄一を、ただ凝視した。




続。