2.

 背の高い金森が、その体を小さくして遠慮がちに俺の肌に触れる。
 初めは鎖骨に触れ、そこから肩の下の方までなぞってから、手の平で肩から腕にかけてをゆっくりさすり降ろす。そして手は体の中心に戻り、胸の間のへこんだところを、メスでも入れるように指をつかって線を引いていく。
 くすぐったくて体を揺らしても、最初のときのように慌てて手を離すようなことはなくなった。代わりに、俺の表情を伺ってから続ける。
 嫌なら言って、と声をかけてから胸の中心に触れてきたのは、昨日から。
 金森の手の冷たさで硬くなったそこは、触られてもくすぐったいだけだ。女のでもないのに、そんなところをいじって楽しいのだろうか。思ったが、その顔を見ていれば喜んでいるらしいことはすぐ分かる。金森の目は、表情が乏しい分雄弁にその内面を語った。
 触られている間、目を閉じているわけにもその指先を視線で追うわけにもいかず、苦肉の策で金森の顔ばかり見ている所為だ。日が経つにつれ、どんどん分かるようになってきた。
「・・・そんなに楽しい?」
「え?」
「あ、続けて。・・・ほら、俺って部活入ってないし、特に鍛えてないからひょろひょろじゃん? 女子と違って胸もないし、さ」
 言うと、金森はさわりながら視線を上に向けた。何かをいいかけて、結局首を振る。
「明確な理由はないよ。男なら誰でもいいってわけでもないし、ただ、見てみたくなったとしか」
 金森の両手が、左右の脇腹を掴んでシンメトリーに滑らせる。
「豊橋のことは、同じクラスになる前からよく見てた。喜怒哀楽がはっきりしてるのが、いいなと思って」
 じゃあ、この間掃除のときに目が合ったような気がしたのは、気の所為じゃなかったのか。
「ずっと見ていたら、なんかもっと知りたくなっちゃって。それで、色々考えてるうちに・・・」
「裸まで見たくなったって?」
 軽く笑うと、金森は目を丸くして赤くなった。その反応に俺の方が驚いてしまい、二人して気まずい沈黙を落としかけたとき、アラームが鳴り響いた。あ、と金森が小さく呟き、手を離す。
「えっと・・・ごめん。やっぱり気持ち悪いよね」
「あ、いや・・・別に」
 こいつ、マジなんだ。はっきりは言われてないけど、マジで俺のことが好きなんだ。
 金森も変だが、俺も大概おかしい。好かれているのが、なんだか嬉しいだなんて。
「じゃ、帰るな。来週もよろしく」
 制服を着直して、俺は立ち上がった。開こうとしたドアを、後ろから伸びた手が押して閉める。乱暴な動きではなかったが、背後にある人物の影が俺を覆うから、心臓が跳ねた。
「・・・金森?」
 黙るな。何か、喋れ。沈黙を、降ろさないでくれ。
「豊橋」
 低い声が、驚くほど近くから聞こえた。耳に、いや、うなじに金森の息遣いを感じる。
 どうしよう。いくら金森が細くても、この体格差じゃ敵いっこない。汗ばむほど強く掴んだドアノブに更に力を入れ、目をぎゅっと閉じた。
「・・・金森っ!」
 あと少しで触れそうだったのか、首元に感じていたぬくもりが急に消えた。影も小さくなり、手も素早く下げられる。
「あの、豊橋・・・僕」
「また月曜、な」
 振り向きもせず、その部屋をあとにした。いつもなら玄関まで見送りにくる金森だったが、流石についてこない。
「あいつ・・・」
 接触はなかったはずなのに、金森の気配で馬鹿に熱くなったうなじ辺りに手を当てた。ぶるり、と寒くもないのに体が震える。
 このまま触らせていて、大丈夫なんだろうか。
 まだ心臓がバクバクいっていた。これは、緊張、それとも。
 素早く首を振って、馬鹿な考えは吹き飛ばした。そんなことない。変な感情を持っているのは、金森だけで充分だ。


 土日の間は、ごろごろしたりコンビニに行ったり、その合間に金森に渡された宿題をやったりして過ごした。
 休んでて忘れると勿体ないから、と渡された一枚のルーズリーフには、金森らしい几帳面な字でいくつかの計算式が書かれている。
 真面目にやれば一時間もかからずに解けるだろう。それなのに俺がこれに丸々二日間もかけたのは、何故かその紙を直視できなかったからだ。
 その奇麗な字を見ていると、金森が紙をシャープペンシルで叩くリズムが思い出される。俺が応用問題に唸っている間、てっきり自分の勉強でもしているんだと思っていたのに。
 盗み見たあの真剣そうな顔は、俺のために課題を考えていたからだったなんて。ついそんなことを思っては、胸が震えることに焦った。
 笑いや涙、欠伸のように、緊張だって伝染する。一週間同じ部屋にいて、俺もおかしくなってしまったんだろうか。
 いや、と首の一振りで否定した。否定したかった。男相手にそんな気分になるなて、冗談にもほどがある。
 あんな奴、気にしたくない。
 そう思えば思うほど、金森を意識しているんだと思い知らされるようで、俺は頭を抱えてしまった。


 休日の終わりを知るから、月曜日は嫌いだとみんなは言う。けど俺は、結構好きだ。
 何故って、朝から体育がある。それに月曜の体育は隣りのクラスとも合同だから、色々と対戦ができて楽しいんだ。
 しかし、今日ばかりは。俺も月曜日の訪れが、なんとなく億劫だった。大好きなバスケットも、今日は楽しくない。
「いいよな、金森って」
 突然の成田の言葉に、俺は座っている壇上から危うく落ちそうになった。もしやお前もそっち系なのか、と口走りそうになった俺を、成田が冷めた目で見上げてきた。
「お前もそう思わん? 背高いから、そんな頑張らなくてもすぐ目立つ」
「あ、なんだ・・・そういうこと」
「他に何があるってんだ」
 首を傾げながら壇上に飛び乗る成田のために場所を空けつつ、俺は今までぼんやりとしか見ていなかったコートに集中する。どれだ。どいつが、金森なんだ。
 左右に走り回る10人を目で追う俺を、成田が小突く。何、と視線を外したおかげで、また誰が誰だか分からなくなる。
「直、今あいつに数学習ってんだろ? 正直どうよ、会話続いてんの?」
「え・・・まあ、それなりに」
 マジで、と成田は軽く驚いた。そう言いたくなる気持ちはよく分かる。俺も、こうなるまでは金森と会話が成立するなんて思ってなかったから。
「マジだよ。教え方も上手いし、声だって・・・」
 そこまで言って、慌てて口を閉じた。声が、なんだって? 俺は今、何を口走ろうとした?
 中途半端に言葉を切った俺に不信を持ったようだが、成田の注意は存外すぐに逸れた。理由は簡単。女子の声援で、誰かに注目が集まるのが嫌だったからだ。
 パス、と小気味よい音の後に、成田が舌打ちする。
「んだよ、また金森か」
「え」
 金森って、あれか。あのひょろりと高い、黒髪の。
 眼鏡がないからすぐには気付けなかった。Tシャツだからか、その下の筋肉がよく分かる。細そうに見えても、やっぱり男だ。無駄のない筋肉が奇麗についている。
 ああいうのを、いい体というんだろうか。顎を伝う汗をシャツで拭う仕草が、妙に板について。
「わっ」
 突然声を上げて後ろに体を倒した俺を、成田が不信そうに覗き込んだ。どうした、と訊かれても答えられるはずがない。目が合った途端、急に心臓が跳ねたなんて。
 熱い顔を両手で隠したまま、俺はなんでもないんだと顔を振り続けた。


「・・・橋。豊橋?」
 突如目の前に出てきた顔に、俺は正座したまま飛び上がるのではというほど驚いた。周りの様子に、あれ、と首を傾げる。俺、いつの間に金森の家に来たんだ?
「大丈夫? これ、採点終わったよ。一問ケアレスミスがあるから・・・豊橋?」
「あ、ごめん。なんか、ぼぉっとしちゃって」
 数字をなぞる指に、その低い声に、気が散る。閉じた口をうにうにさせて黙る俺を見て、金森は溜め息を落とした。
「もしかして、先週のこと気にしてる?」
「先週? ・・・あ! 違う違う! なんか今日は、具合悪くて・・・」
 なんで俺が言い訳しなきゃなんねんだ。つうか、肩を落とすな! 俺が悪いみたいだろ!
「ほんと、ごめん。もうあんなお礼は・・・」
「違うっての! 今日はなんか集中できなくて・・・あぁ、もう!」
 ヒステリーを起こしたみたいに、俺はブレザーを脱いだ。ぽかんとする金森の前でシャツも脱ぎ、携帯を取り出した。
「今日はもう帰るから、早く触れ!」
「え、でも・・・」
「ミスなら家で直してくる! これは、ほら・・・一応採点してもらったし!」
 うぅ、苦しいか。でも正直に言えば意識してるってバレちゃうし、だからといって逃げるのは性に合わない。睨むように対峙していると、金森は突然ふにゃりと笑った。ほっとしたような、力を抜いた笑顔。
「気を使ってくれて、ありがとう」
「あ? あぁ・・・」
 おい、ちょっと待て。心臓が、壊れる。そんな無防備な笑顔、初めて見るんだけど。
 金森の手が、初めて鎖骨以外のところから触れた。頬に手を添え、そしてゆっくりと首を伝う。
「っあ!?」
 外気に触れて固くなった乳首を、爪で掻かれる感触。何度かされたはずのそれが、今日はいつもとは違う感覚を起こした。
「っん、やめ・・・」
「豊橋?」
 金森の手が離れた。心配そうな顔が、はっとして目を丸くする。
「もしかして、感じて・・・」
「・・・っ!」
 強く、突き飛ばしてしまった。不意を突かれて対応に遅れる金森の前から、服と鞄を持って逃げ出した。ワイシャツを羽織り、ボタンをつけるのもままならないまま玄関をぶつかるように開けた。
「豊橋!」
 閉める間際、金森の声がした。それを振り切るように、俺はマンションの階段を駆け降りた。






続。