1. 白紙の答案用紙を前に、俺は固まっていた。 テスト開始の合図なら、もう40分も前に聞いた。あと10分もすれば、終了の合図がかかる。 周りからはひっきりなしにペンの走る音がしているというのに、俺の前にある紙は名前しか書かれていない。というか、名前しか書けなかった。 いやに冷たい汗が背中を伝い、聞こえるはずのない時計の秒針の動く音が耳に届く。心臓の音も、それに呼応するようにデカくなっていった。 ど、どうしよう。 思うけど、時計が進むのはいつも通りの速度で。万が一止まったとしても、俺にこの試験が解けるとも思えないんだけれど。 無情にも、終了を知らせるチャイムが校内に響く。がくりと肩を落とす俺の周りで、悲喜こもごもの溜め息が吐かれていた。 「ああぁあぁ! どど、どうしよう! どうしよう成田?」 箒を握り締めて詰め寄る俺を、成田は酷く冷たい顔で見た。ロッカーを拭く手を止め、向き直って両肘をそこにかけた。 「どうするもこうするも、直、数学は受験に関係ないからいいって言ってたじゃないか。それを今更、何を焦る必要があるんだ?」 身長163の俺とそれほど変わらないくせに、ナルシスト気味の成田は自称クールな対応で俺を宥めようとする。確かにきまっているような気はするんだけど、俺にはその良さがいまいち分からない。 しかしそれ以上に分からないのは女子の反応で、事実成田はモテまくっている。今回見せた笑顔も、女子どもが見たら卒倒するような美しいものだ。 だが俺は知っている。成田のこの笑顔は、本心を隠したいときに使われるということを。こいつは今、明らかに俺を面倒臭いものと思っている。 「それがさ、親はそんなこと知らねぇじゃん? だから二年の成績表見てキレちまって・・・」 中学からの付き合いだから、今更冷たい態度にどうこう思うことはない。成田も意味がないと悟ったのか、巻き込むなオーラを鎮めて肩の力を抜いた。 「確かに、お前二年の成績最悪だったもんな」 そう、一年のときはまあまあついていけたものの、二年に入って出てきた数学UBで完全に置いていかれた。記号も式も全く覚えられず、当然テストは赤点ばかりという有様。 他がまずまずの成績だった分、母の視線はそこに集中した。数学が上がれば、もっと上の大学も狙えるのではないか、と。 「俺は上なんか行きたくないんだよ! あの大学だから行きたいんであって、それを・・・」 母ちゃんの奴、あろうことか俺を予備校に入れるなんて言い出した。せっかく余裕の夏休みを過ごす予定だったのに、そんなの耐えられるわけがない。 「前期のテストの結果がよければ免れるんだよ! だから頼む成田! 俺に数学を」 「断る」 即答かよ。 俺は下げた頭をすぐに上げ、一歩近付いた。成田の顔が、明らか嫌そうに歪む。 「別に直はブサイクじゃないけど、男に近寄られる趣味はない」 「俺だってないよ! なあなあ、お礼はするからさあ!」 ぐいぐい詰め寄ったら。成田の顔が怒りに曇った。やば、と思うより先に、体が後ろへ逃げた。 「っと、」 「わ! ごめん、金森!」 小さな声と、机が立てる音に振り向いた。真面目に掃除していたらしい金森が、ずれた眼鏡を直している。 「大丈夫か? 運ぶの手伝う・・・」 「いや、いいよ。平気だから」 出した手をやんわりと断り、金森はまた机を運び始めた。ふくらはぎの下の方を、成田の爪先が小突く。 「ばーか」 「うっせ」 「つーか金森の声って、授業中以外で初めて聞いたかも」 あ、そういや俺も。別段暗いってわけでもないのに、無口な奴だよな。 「そうだ直、あいつに教えてもらえば? クラスじゃ一番数学できんじゃん」 「え? えー・・・」 「ちょっとあんたたち! いい加減掃除しなさいよ!」 うわ、委員長。お前今日掃除当番じゃないだろうに。 怒鳴られて、ひとまず俺たちは掃除している風を装った。俺はごみのない床を掃き、成田はさっきも拭いた場所にもう一度雑巾を当てる。 金森に教わる、か。まあ、冷たい成田に教わるよりはいいかもしれないけど。 思って、机を黙々と運ぶ金森を見た。その目と一瞬視線が重なった気がしたが、すぐに離れた。なんだか慌てているような仕草に、首を傾げる。もしかして、見られてた? いや、いくらなんでもそれはないか。 俺は箒を片付けるため、その場から離れた。 その金森を廊下の端に見つけ、俺は思わず走り出していた。 あれだけ頼んだのに、成田は引退までは部活に力を入れたいから、とかなんとか理由をつけ、さっさと部室に行ってしまった。 そうなると、他に数学のできそうな友人のいない俺に残された選択肢は限りなく少ない。金森か、予備校か。夏休みが空くのは、勿論前者だ。そう思った俺に後先考える思慮はない。 「金森っ」 「え? 豊橋?」 リュックを叩くと、金森は変な顔で振り向いた。驚いたような、困ったような。 「な、何?」 「あのさ、いきなりなんだけど俺に数学教えたりしてくんない? マジ、危なくてさぁ・・・」 成績のことや予備校のことを話しながら、やっぱりやめるべきなのかもしれないと気分が落ち込んでいった。金森の表情が、余りにも読めない所為だ。そりゃ、そんな親しくもない奴なんかのために、時間潰したくないよな。 「や、だめならいいんだ。他当たって、みるし」 「いいよ」 「だよな、やっぱ・・・って、いいの?」 驚く俺に向かって、金森が一つ頷いた。そしてさっさと歩き出し、昇降口に向かう。 「僕の家でいいかな? そんな遠くないし、幸い夜まで誰も帰ってこない」 「ちょ、ちょっと待ってよ! 頼んどいてあれだけど、なんで?」 早足の金森に慌ててついていき、下駄箱で靴を持ったまま動きを止めたところで横に立つ。こいつ、こんなに行動力のある奴だったのか。 「僕じゃ不満か?」 「そう思ってたら頼まないよ。じゃなくて、俺たちって・・・ほら、そこまで」 「仲良くない」 「そうそれ! ・・・ってお前、はっきり言いすぎ」 思わず指まで鳴らして同意しちゃったじゃないか。自分で言い出したこととはいえ、気まずいだろ。 勝手に自己嫌悪する俺を見下ろして、金森が空気だけで笑う。 「確かに、少し不自然か・・・」 ことん、と靴を下に落とした。それを履くでも揃えるでもなく、金森はちらとだけ俺を見て、また逸らす。暫くそれを繰り返して、漸く口を開いた。 「正直に言おうか。僕には、下心がある」 「へ? 下ごこ、ろ?」 理解の遅い俺に向かって、金森も同じように復唱する。 「豊橋、さっき成田に礼はするって言ってたよね? それは、僕にも適応するか?」 「てき、お・・・?」 「僕にもお礼をする気はあるのかってこと」 「あ、ああそういうこと! 勿論するって! ジュースとかでいい?」 俺の答えに、金森は小さく笑った。そして首を振ると、やけに真剣な顔でこっちを見てきた。 「言ったろ、下心があるって。僕が欲しいのは、物でもお金でもないんだ」 はっと気が付いたとき、金森の顔は随分近くにあった。昇降口から入る西日が逆光となり、元々乏しい表情が読めない。ギリギリ形だけ分かる唇が、ゆっくりと動く。 「僕は、君の裸が見たい」 金森について俺が知っていること。 まず背が高い。多分、クラスで一番。手足なんかひょろっと長くて、どちらかというと細くて弱そうなイメージがあったりする。 理数系では右に出る者がいないのに、それを鼻にかけている風でもない。髪は墨のように真っ黒で、それに眼鏡なんてかけているから外見も日本風の秀才みたいだ。 朝は一番に教室に来ていて、それを含み休み時間は殆ど本ばかり読んでいる。 特別親しい友人はいないようで、誰かと談笑しているところを見たことがない。だからといってクラス内で浮いた存在になっているかというとそいうでもなく、うまいこと距離をとっているようだ。 さり気に二年のときから同じクラスだったのだが、まともに話したのも、というか顔を正面から見たのも実は今日が初めてだった。 でもそんなこと、大抵の男子生徒にとっては当たり前のようなことだ。三年間同じ校舎にいたところで、知らない顔の一人や二人いて然りだ。 金森から見る俺だって、所詮その程度だと思っていたのに。なのに、奴は何故俺の体なんかに興味を持ったりしたのだろうか。 そして、何故俺はその申し出を受け入れてしまったのだろうか。 「・・・っんなじっくり見るなよ。お前と大して変わらないだろ?」 着いた金森の家で、上半身だけという約束で服を脱いだ。シャツのボタンを外し、腕から抜く。その間も金森の目がじっくりと見ているので、俺はなんとも恥ずかしい思いをさせられた。 「ううん、全然違う。想像してたのとは、もっと違う」 「そ、想像って・・・」 正直、ちょっと引くぞ。思ったが口に出さないでいると、金森の喉が上下した。ふらふらと手が伸びてきて、触れるか触れないかというところで弾けるように手を引いた。赤い顔で、目を逸らす。 「ご、ごめん。やっぱり変だね。もう服着ても・・・」 「触る?」 「え?」 振り向いた顔に、唾を飲んだ。自分でも何言ってんだって感じだけど、きっとこの顔が見たかったから。普段の無表情が、俺の言動一つでおかしくなる。それを、確かめたかった。 「でも、三分だけね。鳴ったら、そこで終わり」 携帯のアラームをセットして、机に置く。正面で正座する金森は一瞬だけ躊躇ったが、結局は膝をついたままにじり寄ってきた。また一つ唾を飲んで、俺を凝視する。 「じゃあ触る・・・よ」 「別に宣言しなくても」 思わず笑った隙に、金森の指がひたりと触れた。その余りの冷たさは予想外で、反射的に肩を跳ねさせてしまう。怯んだ金森が一旦手を離したが、気を取り直してまた触れてきた。恐る恐る、鎖骨を撫でる。 「気持ち悪くなったら、すぐに言って」 気持ち悪いより、ただ熱い。金森の指先は、氷のように冷たいのに。 俺はそのことに内心でかなり驚きながら、分かったと言うように一度だけ頷いた。 続。 |