4.

 すぐにタクシーを拾わなかったのは、心のどこかでまだ期待していたからだ。人の波に抗いずんずん進み、繁華街を抜けて急に静かになった道沿いにある公園に入った。
 歩を緩めながら中まで行き、少し草臥れた感のあるベンチに腰を下ろす。その瞬間、重い溜め息とともに堪えていた涙が地面に落ちた。ぽたぽたと、暗下で見えない土を濡らしていく。
 十倉に他意がないことくらい分かっている。あれは純粋に高木を信じ、本当になびかないと知っているのだ。勿論、高木だって十倉以外の男に心を動かせないと思っている。
 頭では分かっていても、心が追いつかない。悪意のないことが、余計高木を苦しめた。
 この先も付き合っていけば、十倉は無邪気に自分を傷付けるだろう。それは決して十倉の責任ではない。高木が、十倉を信じきれない故だ。
 好きだと言われても、疑ってかかる自分が嫌になる。こんな男、十倉と付き合う資格がない。
 目を閉じて、睫毛に残る涙を指で拭った。もう帰ろう。上げかけた腰を、誰かの気配に気付いて止めた。
「っ・・・、手嶋くん」
 十倉、と呼びかけて、自分で真っ先に否定した。次いで暗闇から現れた人物に声をかける。
「来てくれなくてもよかったのに」
「・・・放ってはおけませんから」
 曖昧に笑いながら言い、高木の横に腰かけた。何か訊きたそうに横顔を窺い、結局何も言わず足元の土を靴先で弄る。ジャリジャリという音だけが夜の公園に響き、高木は小さく笑った。
「なんか、情けないとこ見られちゃったな」
 手嶋は答えない。だが、微かに首を振るのが視界の端に見えた。
「やっぱり、ノンケと付き合うのは辛いね。手嶋くんの言うとおり、覚悟の違いとか・・・気持ちの伝え方、とか」
 自分で言いながら悲しくなってくる。しかしここで泣いたら、十倉に怒られるだろう。もう付き合えないと自分で言っておきながら何を、と自嘲の乾いた笑みが漏れた。
 これだって、きっと子供染みた独占欲。ただ単純に、自分のものであると主張しているだけ。仲のいい友達との秘密を、第三者に知られたくない中学生のようだ。
 ふぅ、と笑うように嘆息した。もうあの可愛い笑顔を見られないのかと思うと、かなり辛い。
 そんなことを思いながら、懐から封筒を取り出した。側面のほころびた、人生で二通目の辞表。手嶋がそれに気付き、目を丸くした。
「それ・・・っ」
 自嘲気味に笑い、半ば強引にその手に捩じ込む。
「出しておいてくれないか? 部署が違うから、駄目かな?」
「そういう問題じゃ」
「ああ、やっぱ自分で出さなきゃ駄目? でももうあそこには・・・」
「じゃなくて!」
 手嶋が立ち上がった。見上げる形になった顔を、高木がぽかんと見つめる。
「たかが失恋じゃないですか! 何も、やめること・・・っ」
「たかがじゃないよ」
 たかがじゃない、ともう一度繰り返して、高木は俯いた。
「十倉と付き合えたことは、俺の生涯で一番の奇跡だった。十倉は俺の全てで、俺の生きる意味だ」
 このとき顔を上げていれば、高木は手嶋の顔の変化に気付いて言葉を止めただろう。しかし不幸なことに、高木の視線は足元にのみ注がれていた。
「それを自分から切っておいて、どんな顔が向けられる? あの目に蔑まれたら、俺は生きていけない」
「高木さ・・・」
 もうやめてくれ。そう言おうとした手嶋の小さな声は、高木の耳に届かなかった。
「こんなことなら、抱いてくれなんて言わなければ、」
「えっ?」
 突然上げられた声に、高木は言葉を切って顔を上げた。手嶋もその声は無意識のものだったのか、焦ったように口を塞いでいる。
「え? えっ? 高木さんが、十倉に・・・っ?」
 その動揺ぶりから、高木は手嶋が何を驚いているのか悟った。恥ずかしそうにはにかみ、くすりと笑う。
「俺はネコだよ。タチのときもあったけど、十倉相手ではずっとね」
「う、嘘だろ・・・」
 どうりで全然なびかないわけだ。少しばかり自分の魅力の衰えを考えてしまっていたから、手嶋は安堵した。しかし、ショックは隠せない。ずっと好きだった相手が、まさかネコだったなんて。
 へなへなと座り込みそうになったが、こちらを見上げる視線にふと気付き、どきりとした。
 嘘みたいに整った容姿。その瞳が、少しだけ濡れている。そういえば、手嶋はこの顔が歪むのを見てみたかったのだ。それは、抱かれるという観点で考えていたからだ。高木が男の下にいる側なのかと思って見ると、それも違和感ないように感じられた。それどころか、快感に歪む顔というものが、見たくなった。
 ごくりと唾を飲み込んで、姿勢を正す。
「どうせ・・・別れるなら。俺と、どうですか?」
 突然のことに、高木は目を丸くした。全く考えていなかったのだから、仕方がない。
「高木さんと違ってタチの経験はないけど・・・なんかできそうですし。相手が高木さんなら、俺・・・抱きたい、です」
「ちょ、ちょっと待って手嶋くん。君、ノンケに片想いしてるって・・・」
「嘘ですよ。この際だから正直に言いますけど、俺は最初から高木さんを狙ってたんです」
 それは、と言いながら高木は赤面した。そして俯いてしまうその反応を見ながら、手嶋はゆらりと何かが燃え上がるのを感じた。膝を折り、二の腕辺りを掴んで高木を覗き込んだ。
「俺なら、絶対不安になんかさせません。十倉と違って、知らず貴方を傷付けることだって・・・」
「で、でも」
「俺を見てよ、高木さん・・・っ」
「その手を離してくれませんか」
 ひやりとした温度を持った声に、高木は弾けたように顔を上げる。手嶋もそれに順じ、その先にいた人物を睨み付けた。高木を隠すように、ゆっくりと立ち上がる。
「今更なんの用だ。この人のことを、こんなに傷付けておいて」
「そうですね」
 嘆息するように言い、十倉は手嶋を見据えた。
「恭臣を傷付けたのは僕です。・・・だから、僕にしか癒せない。君は・・・そうやって隠すだけだ」
 怒りも露わに赤面する手嶋から目を逸らし、その背後に向かって話しかける。恐らく俯いているだろう高木は、それでもきっと耳を塞ごうとはしない。そう信じて、十倉は口を開けた。
「帰りましょう、恭臣。ちゃんと、話がしたいんです」
 じゃり、と土を踏んで進む十倉の前に、手嶋も一歩踏み出した。十倉の眉が、訝しげに上げられる。
「話を聞いてましたか? 僕は、恭臣に話が・・・」
「お前にはあっても、高木さんには多分ないよ」
 口角を上げて無理やり笑顔を作り、精一杯の虚栄で挑発する。それに対して、十倉はすっと目を細めるだけで何も言わなかった。
「この先、お前は何度も高木さんを悲しませるよ。俺は、そんなことしない。高木さんを想うなら・・・」
「それは、僕がノンケだったから?」
 真っ向から言われ、手嶋は一瞬怯んだがしっかりと頷いた。
「家族とも仲良いみたいだしな。お前に、それを捨てる覚悟が・・・」
 手嶋を無視するように、十倉は胸ポケットに手を入れた。携帯を取り出し、耳に当てる。
 不意に訪れた沈黙に、高木は俯いていた顔を上げた。手嶋も行動を図りかねているのか、動揺しているのが後ろからでも分かる。
 夜の静寂に、微かな電子音だけが鳴っていた。それが十倉のほうから聞こえていることに気付き、嫌な予感に高木は腰を少し上げる。その音が途切れ、直後聞こえた声にザっと青褪めた。
「あ、お母さん? うん、僕。・・・あのさ、この間高木って先輩の話したよね?」
 唇が震えた。母の、父の顔が思い出される。また一つ、自分の所為で家族がバラバラになってしまう。そんな高木をよそに、十倉は笑いながら会話を続けた。
「そうそう。でさ、実は僕、その人と付き合って・・・」
「やめろ!」
 手嶋を押しのけ、高木は十倉に掴みかかった。顔面蒼白で、この世の終わりを見たような顔をしている。そのまま十倉の手から携帯電話を奪い取り、耳に当てた。
「もしもし? 今の、冗談ですからね? あの、十倉の奴酔って・・・」
 早口で言ってから、耳に流れ込む声の機械臭さに気が付いた。その声は、繰り返し繰り返し、現在の時刻を囁いている。
「おま、え・・・」
 目を見開いて固まる高木の手から、するりと携帯が落ちた。それを難なく空中で受け止め、電源ボタンを押す。
「言いませんよ。恭臣がそれを望まないのは、知ってますから」
 携帯を胸ポケットに戻し、高木を見上げる。その目元がひくつくのに、十倉は柔らかく微笑んだ。
「でも、いつでも言えます。失うかもしれないけれど、恭臣がいるのなら、俺は構わない」
「何言っ・・・」
 言葉は続かなかった。瞬間的に溜まった流れるのに合わせ、胸がぎゅっと収縮したようになったからだ。肩を震わせ、子供のように泣きじゃくる高木の前で、十倉が眉を下げる。
「触れても、構いませんか?」
 実のところ、さっき手を払われたことを気にしていた。こくこくと頷きながら自分から手を伸ばしてくる体を引き寄せて、力を込める。そんなに間を空けたわけではないのに、その感触は懐かしかった。深く息を吸い込みながら、確かめるように背中を撫でる。抱き潰されそうなほどかけられる体重が愛おしい。心底、大事にしたいと思う。
 しゃくり上げる肩越しに、呆然としている手嶋が見えた。目が合った途端、悔しそうに顔を赤くする。
「こういうわけなんで、諦めてもらえます?」
 十倉の言葉に、高木は手嶋の存在を思い出して体を離した。ぐいと涙を拭ってから逃げようとするのを、十倉の腕が許さない。強く引き寄せられ、振り向くことができなかった。
「僕は、この表情を誰にも見せたくない。できることなら、どこかに繋いで閉じ込めておきたいくらいなんです」
 初めて聞く強い独占の言葉に、高木の胸が震えた。止まっていた涙が、またぞろ流れ出す。
「君の気持ちがそこまででないのなら・・・お願いです、諦めてください」
 背後の手嶋を窺うことはできなかったが、高木は心の中で何度も謝った。告白してくれて嬉しかったけれど、やっぱり十倉を手放すことはできない。ぼろぼろに泣きながら、自分より小さな体に縋り付いた。
 後ろで、手嶋が歩み寄ってくる音が聞こえる。身を固めたが、次に聞こえた声は穏やかなものだった。
「今日のところは、退いてやるよ。・・・高木さんも、気にしないでください」
 振り向くべきかと思ったが、十倉の意思に従いたかった。十倉以外の前では、もう泣かない。
 手嶋もそれを分かってくれたのか、自嘲するような嘆息が聞こえただけで。申し訳なさに、睫毛を揺らした。
「これ、お前に渡しておくよ。多分、もう必要ないだろうけど」
 なんだろう。考えているうちに手嶋の足音が離れていき、それがすっかり聞こえなくなってから漸く解放された。何か言おうとする前に、首を掴んだ手に引き寄せられ、唇を塞がれる。柔らかな感触に、目を閉じて酔いしれる。
「とく、ら・・・十倉・・・」
 涙腺がバカになったんじゃないかというほど流れる涙を、十倉の指が拭っていく。それでも追いつかないと見ると、今度は唇を付けて吸い上げた。ちゅっと音を立てて、屈んでいた高木を解放する。
 その手を引いてベンチに誘うと、高木だけそこに座らせた。赤くなった目が、問うように向けられる。その目前に、十倉は白いものをひらひらとかざした。あ、と高木の顔が憔悴の色に染まる。
「また、こんなもの書いたんですか?」
 辞表だった。言葉に迷い、泳ぐ視線を無理やり合わせられる。この目に見つめられたら、誤魔化すことなんてできない。
「不安、なんだ。いつ、お前が飽きてしまうんじゃないかって」
 これは逃げ道だ。これさえ出せば、現実から目を逸らすことができる。離れさえすれば、いつかは忘れられる。
「お前が俺のことを好きだって言ってくれて嬉しかった。それでも、信じられないんだ。恐くて恐くて、夜中に何度も起きる。好きになればなるほど、恐くなるんだ」
 静かに流れ出す涙を見ながら、十倉は黙り込んだ。夜に枕を湿らせる原因が、自分だったとは。濡れた頬を手の平で包むように触れると、すり寄るようにして目を閉じた。そうして、言葉を繋げる。
「俺は、恐い。お前から、家族を奪うことが。お前に、俺と同じ思いをさせることが・・・」
「恭臣の家族は?」
「会わなくなって、10年になる。・・・死んだことに、なってるかもな」
 笑ってみせたが、泣き顔では欠片の説得力もない。十倉の顔が一瞬悲しそうなものになり、すぐ明るいものに変わった。
「じゃあ、恭臣の一番近くにいるのは、僕なんですね? 家族より誰より、僕が一番傍にいる」
 その言葉に、高木はくしゃりと顔を歪めた。喉をひくつかせて、責めるように十倉を見る。
「だか、そういうことを言うなっての!」
「だって、嬉しくて」
 目頭に唇を当てる。吸い上げると、塩辛い味が口内に広がった。
「この先も、僕はずっと恭臣といます。どうしたら、信じてもらえます?」
 分からない。力なく首を振る高木に、十倉は嘆息した。グイドの言うところである鎧は、こんなにも固くその身を覆っているのか。唇を尖らせて思案していると、高木の方が口を開いた。
「いいよ、無理するな。お前がそう言ってくれるだけで、俺は本当に嬉しいから」
 信じられないのは、自分の所為だ。勝手に殻を被り、己を守ろうとしている。
 しかし十倉は納得がいかないようで、何やら難しい顔で考えていた。くすっとその顔を見て苦笑する。
「好きだよ、十倉。好きなんだ、本当に。・・・本当に、ごめん」
 呟くような告白に、十倉は視線を合わせてきた。びくりとして、口を閉じる。
「十倉・・・?」
「なんで、謝るんです? 恭臣は、いつも何を謝っているんですか?」
「え? え、と・・・その、」
 口ごもる高木の顎を捉え、その唇をついばんだ。唇で何度も挟んでは引っ張り、解していく。とろりと潤んだ瞳を見つめ直し、もう一度同じことを訊いた。
「ね、なんで?」
 高木は躊躇ったが、目を閉じて口を動かした。好きだから、とそこから言葉が紡がれる。
「俺が好きにならなかったら、こんなことにはならなかったろ。十倉は普通に女の子と恋をして、普通に・・・」
「なんだ、そんなこと」
 心底ほっとしたような顔で、十倉は背を伸ばした。真っ直ぐに立ち、見上げる高木を自信満々に見つめる。
「僕は別に、好きだと言われたから好きになったわけじゃありませんよ。そりゃ、きっかけはセックスですけど・・・でも今は、結構本気ですから。恭臣が可愛くて、大切にしたいと思うから、付き合っているんです」
「でも、お前色々無理してるんじゃ・・・」
「無理? そんなもの、一切してないんですけど」
 ぽかんとした顔に、高木はぶるぶると首を振った。信じられない、と目が訴える。
「今日だって、お父さんの誕生日だったんだろ? 毎週末だって、お前なんて言って泊まりに・・・」
 最後まで言うより先に、十倉が噴き出した。くすくすと笑い、しまいには声を上げて笑い始める。
 今度ぽかんとするのは高木の方で、わけが分からないままその様子を眺めていた。初めて見る、十倉の大笑いだ。子供っぽいような、それでいて笑い声は少し大人びているような。
 やがて落ち着きを取り戻したのを安堵しながら見つめ、おずおずと手を伸ばした。その手を、貴族のように恭しく掬い取る。
「勘違いしてますよ、恭臣。僕が会いたいから、抜け出してきたんです。恭臣のためじゃない」
「え・・・」
「言ったでしょう? 今の僕には、家族より恭臣さんの方が大事なんです。家族には、普通に恋人と会っていると言ってますよ」
 勿論、男だということは伏せてますが。言い添えられた言葉に、高木は泣き笑いのような顔になった。
 それに対し、十倉が無邪気な笑みを返す。ついと手を引いて、ベンチから立たせた。
「そろそろ帰りませんか。それで軽く汗を流して、ベッドで思いっ切りイチャイチャしましょうよ」
「・・・ばか」
 軽い口調だったが、高木の顔は笑っていた。強く、手を握り返してくる。それに満足そうな顔をしてから、十倉は突然大きな声を上げた。人差し指を立て、目を輝かせて。
「そうだ、いっそのこと僕のことを飼ってくださいよ。恭臣の部屋に置いて、首輪で繋げて」
 これはいいアイデアだと胸を弾ませる十倉の横で、高木は目を白黒させていた。頭が、情報の処理に追いつかない。
「ちゃんと餌も用意してくださいね。散歩と、お風呂の世話と・・・あー・・・トイレは、」
「ちょちょちょ、ちょっと待って・・・!」
「え? ああ、トイレは自分でしますよ」
「そうじゃなくて!」
 なんだか十倉と会話していると、よくこの掛け合いをしているような気がする。そう思ったが、今はそんなことを深く考える余裕なんて全くない。躊躇いがちに目を泳がせ、瞼を伏せ、口をもごもごと動かし。
 十倉の目がくるりと促したことで、漸く声を出すことができた。
「それって、つまり・・・一緒に住む、てこと?」
 何度も唾を飲み込んで訊かれた言葉に、十倉は可愛らしく高木を見つめてきた。そして数秒の間を置いてから、にっこりと笑顔を作る。
「そうなりますね。恭臣さえよかったら、一緒に暮らしませんか?」
 屈託のない笑顔に、高木は片手で口元を押さえた。十倉の目が、心を見透かすように細められる。
「ねぇ、嫌? それとも、嬉しい?」
 ふっと息を吐いた。色々思うのに、言葉にならない。視界がみるみるうちにぼやけていく。
「答えてよ、恭臣。泣いていちゃ、分からないですよ?」
 嘘つきめ。何もかも、分かっているくせに。
 意地悪な笑顔を前に、高木は本日何度目になるか分からない涙を流した。






続。
09.01.14