3.

 屋上で雲の流れを見ていたら、背後で扉の開く音がした。くるりと振り向いた先にいた人物は待ち人そのものだったが、相手はそうでなかったらしい。驚いているのか、怯んだのか。一瞬足を止めたが、意を決した様子で向かってきた。不意に笑いを漏らしそうな気分になるが、それを抑えて出迎える。
「どうも。手嶋・・・和夫さん?」
「・・・十倉」
 なんでここに、と言われはしなかったが、表情が如実にその言葉を語っている。隠している気もないのですぐに種明かしをすると、手嶋は苦い顔になった。
「高木さんが・・・?」
「いや? これは僕が勝手に抜いてきただけですよ。多分まだ気付いてもいないんじゃないかな」
 そう言って、親指と人差し指で持った紙に吹きかけた。くるくると回るそれは、手嶋のアドレスなどが書いてある名刺だ。トイレでの逢瀬のどさくさに、かすめておいた。
 高木は後ろめたいことがあるとすぐ顔に出るので、本当は問い詰める予定だった。しかし、左のポケット付近が濡れていることに気付き、中のものを盗むことにした。どういうわけか自分からキスを強請ってくれたので、面倒な手間も省けた。
「大体、あの人はこんなにすぐコンタクトを取ったりしないよ。臆病な人だから」
 名刺を顎に当てながら笑う顔に、手嶋がムっとする。気丈に睨み付け、鼻で笑って見せた。
「なんでも知ってます的な口振りだな。随分親密そうじゃないか」
「まあ、恋人ですし」
 あけすけと言う態度に、流石に驚いた。隠す気はないのか、と思わず訊いてしまう。
「だって、君も同類だろ? 一応言っておいたほうがいいのかなって」
「手を・・・出すなってこと?」
「んー」
 上目遣いに少し考え、十倉はにこりと口角を上げた。しかし目は挑戦的に輝き、手嶋に軽い威圧感を与えている。
「いいよ、出しても」
 言って、十倉は名刺をしまって歩き出す。どういうわけか、その様から目を離せない。そうしている内にあと一歩というところまで来られ、ぐっと顔を寄せられた。
「君じゃ多分、恭臣さんを満足させられないと思うから」
「なっ」
 絶句した手嶋から体を離し、十倉はにこにこ顔で屋上から出て行った。扉が閉まる音がして漸く、全身の緊張が解かれる。
「バカに、しやがって・・・」
 つい最近男に抱かれるようになった奴に、自分が負ける訳ない。和夫の体は最高だと、何人に言われたことか。
 ギリギリと歯軋りをして、苛立ちに任せて屋上の扉を乱暴に開いた。絶対にあいつの鼻を明かしてやる、と意気込んで。


 白い紙をじっと見ながら、高木は考えていた。
 思わず頷いてしまっていたが、二人で会ったりなんかして、それが十倉にバレたとしたら。湧き上がる震えは、怯えなのか喜びなのか。怒ってないとは言うが、そういうときの方がより激しく抱かれる気がする。意識を失うほど揺さぶられて、それをキスで戻されるのが好きだった。
 思い出すと全身が火照ってしまいそうになり、名刺をしまって慌てて仕事を再開する。取引先へアンケートを依頼するメールの作成に、悩んでいた。と、画面の端にメールの受信を知らせるアイコンが点滅した。恐らく十倉からであろうと予想して、それを開く。
「金曜日、予定が入ってしまいました」
「わっ」
 開くと同時にメールの内容を耳元で囁かれ、仰け反るようにして振り向いた。目の合った十倉がふふっと笑う。
「コーヒー持ってきました。どうぞ」
「あ、悪い」
 受け取ってから、周りを気にして身を屈めた。十倉もそれに倣い、パソコンの画面を見るよう装った。
「予定ってなんだ?」
「父が誕生日なんです。久々に外に食事でも、という話になりまして」
「なんだ、そういうことなら・・・」
 家庭の事情なら仕方がない。そう言おうとしたら、目を細められた。
「待っててもらってもいいですか?」
「え、でも」
「何も深夜までかかったりはしませんから。木葉にでもいてください」
 十倉の笑顔に、胸の辺りがちくりとした。それでも会える喜びの方が強く、いつものように曖昧な笑顔で頷いた。それに十倉が一度首を傾げたが、これ以上は怪しまれるとデスクに戻っていった。その後ろ姿に、思わず手を伸ばしそうになる。
 無理を、しているのではないだろうか。毎週末を男と過ごしていることに、十倉はどんな言い訳をしているのか。
 殆ど絶縁状態の家族を思い出した。パソコンに保存してあったゲイ画像の所為でバレたのだが、あのときの母の泣き顔が忘れられない。父からは人間のクズだと罵られ、兄には酷く残念そうな顔で見られた。年の離れた妹には何も言わずに出てきたが、もう伝わっていることだろう。懐かれていた分、あれに軽蔑されるのは辛い。
 とはいえ、きっともう会うことはない。家を出て10年になるから、町中ですれ違っても分からないかもしれない。ほっとするような、悲しいような。
 できれば十倉にはそんな思いさせたくない。いい家族のようだし、十倉を見れば大事にされていることくらい分かる。話にしか聞いていないが、弟もきっと可愛いのだろう。
 深く嘆息して、持ってきてくれたコーヒーに口を付けた。舌を痺れさす苦味が、いつもより強い気がする。それを一気に流し込んで、高木はパソコンに向き直った。


 直接家に帰ってもよかったのだが、なんとなく一人でいたくなかった。木葉にいれば、突然のドタキャンにもそこまでショックを受けないだろうから。
 軽めのカクテルをしんみりと飲みながら、ちらりと横を見る。久し振りに一人で来ただけなのに、この喪失感はなんだ。胸ポケットに覚悟を潜ませていたところで、もう手遅れなのかもしれない。
 呆れるように溜め息を吐いたら、グラスを磨いていたグイドが小さく笑った。微かな、しかし明らかなからかいの色を含んだ笑いに、高木が顔を上げる。
「何? グイド」
「別にぃ。何度も横ばかり見ているわね、と思って」
 妬けるわ、と言われ、高木は眉を下げた。さっきから少しも喋らない自分を案じて、わざと軽口を叩いてくれているのだ。
「寂しいなら、電話の一つでもしたら?」
 その提案に、首振りだけで否定を示した。グラスを空け、カウンターに戻す。
「せっかくの家族団欒を、邪魔しちゃ悪いから」
「あら。少しくらいなら大丈夫よぉ」
 高木はもう一度首を振り、今度は何も言わなかった。
 自分から電話をかけようと思ったことは、一度としてない。かけたいと思って、液晶に表示された番号を一時間眺めていたことなら、何度もあるが。
 うっとおしいことをして、嫌われたくなかった。一度だけでいいと言ったあの日から、今日までの間。高木は十倉に対して何かを強請ったりしていない。この間キスを強請ったのが、初めてだ。
 あの日、トイレまで迎えにきてくれたことが嬉しくて、まだ考えてくれているんだと、感極まった。キス一つで胸が締め付けられる。宥められるよう背中を叩かれると、涙が滲んだ。
 付き合わせている、という罪悪感にいつも支配されている。好きだと言うたび、つい謝ってしまうのはその所為だ。自分が好きになったから、十倉はそれに付き合ってくれている。一生隠したままでいれば、ゲイになることもなかったのに。
 今日だって、無理してここまで来てくれるのではないのかと思っている。来て欲しいが、来て欲しくない。自分のために予定を変えるなんて、してほしくなかった。
 明らかに重い溜め息を吐くのを見て、グイドが心配そうに肩を落とした。ずいっとカウンターに乗り出し、高木の顔を覗き込む。
「そんなに溜め息ばかり吐くと、幸せが逃げちゃうわよ?」
 そう言って、頼んでもいないカクテルを出してくれた。ほんのり甘い、ピーチの香り。
「ダイゴといて、幸せじゃないの?」
「幸せだよ」
 間髪入れない返事だったが、高木の顔には妙な諦念感が漂っていた。グイドが呆れたように笑い、その額を小突く。
「そういう言葉はそれ相応の顔でなさい。せっかく表情豊かになったんだから」
「え?」
「オミ、来た当初はずっと固い表情だったわ。泣いたのは来なくなる前に一度だけ。それが最近は、色々な表情を見られるようになった」
 それなのに、とグイドは言葉を切った。迷うように高木の顔を窺い、口を開く。
「この頃変よ。ダイゴと並んでいても、寂しそう」
 ピクン、とグラスを持つ手が動く。その動揺を皮一枚下に隠そうとして、失敗した。目頭が熱くなり、十倉との約束を思い出して慌てて俯いた。強く瞼を閉じることでそれを押し戻し、少し赤い顔を上げてみせた。ふぅ、と嘆息する。
「幸せ、ですよ。十倉は俺に、優しいし」
「そうね、それは分かるわ。ダイゴはかなり貴方を慕って・・・」
「同情でも、俺は幸せなんです」
 高木がぽつりと呟いた言葉に、グイドは目を丸くした。何か言おうとして口を開きかけ、高木の顔を見て引き結んだ。思い詰めているのか、顔を上げてはいたがこちらを見ていなかった。
「グイドもない? セックスすると、情が移っちゃうこと。・・・十倉は初めてだったし、余計」
「オミ、貴方それは・・・」
「高木さん」
 グイドの言葉は、突然の闖入者に遮られた。二人してそちらを見て、ほぼ同時に声を漏らす。
「手嶋、くん」
「カズオ。・・・二人とも、知り合いだったの?」
 高木が返答に困っている間に、手嶋がその隣りにするりと腰を下ろした。モスコミュールを頼み、高木を横から覗き込む。
「同じ会社なんですよ。ね?」
 これでもかというほど可愛さを振りまいているのに、高木は特に反応をしなかった。俺の笑顔に落ちないなんて、と手嶋が唇を咬むのにも気付かず、高木は曖昧に微笑んだ。そして軽く頭を下げ、声低く謝罪する。
「せっかくの申し出だったのに、連絡しないで悪かった。迷惑かと、思って」
「迷惑だなんて」
 ふるりと首を振る手嶋を見ながら、グイドは眉を寄せた。なんの話をしているのか分からないが、手嶋が高木に手を出そうとしていることなら分かる。高木は手嶋のタイプど真ん中だし、2枚も3枚も猫を被っているようだ。口を挟もうとして、躊躇する。心配せずとも、高木が十倉以外に傾くとは思えなかった。
「今日は一人なんですか? 十倉は・・・」
「家族と食事なんだ。あいつんち、仲いいみたいでさ」
「それは、」
 何かを言いかけて口を噤み、申し訳なさそうに笑む。その反応で高木も大体のことを悟り、苦笑いで返した。
「君も、家族とは折り合い悪いの?」
「一般的な常識人の集まりでしたから。何が常識かなんて、はっきりもしていないのに」
「そ・・・だな」
 手嶋から視線を外し、店内の音楽に集中しようとした。いつもは心を鎮めてくれるそのメロディが、しかし体に染み渡ってこない。不安が、胸に満ちる。
「手嶋くんは、ノンケと付き合ったことあるんだっけ?」
「すぐに別れちゃいましたけどね」
 笑いを含んだ言葉だったが、その笑いが余計悲しさを引き立てた。くっとグラスを持つ手に力が入り、指先が微かに震える。
「一番ネックなのは、覚悟の違いですよね。ゲイとして生きるのがどれだけ大変か、すぐには気付かない。こっちが傷付くことを、さらりと言ったりされて」
 そう。今は良くても、いつかは大きな壁にぶち当たる。高木だって、気付いてから認めるまでに随分苦労した。不本意なカミングアウトの所為で、死ぬほど傷付いた。元の関係が良好であればあるだけ、その反動は大きい。
 暗い顔で黙り込んだ高木の横顔に、手嶋は暫し見蕩れていた。やはり、かなりかっこいい。この顔が射精の瞬間に軽く歪むのを、見てみたかった。この男は、どんな風に男を抱くんだろうか。
 ふと、グイドの視線が頬に刺さるのに気が付いた。ちらりと見て、唇を尖らせる。いいじゃんか、口説くくらい。十倉本人から許可は出ているのだし、ゲイの間ではセックスの1度や2度くらいならそうそう咎められない。結婚という縛りがない分、浮気だと諌めることが難しいのだ。
 す、と体を寄せたことに、高木は引かなかった。もしやと思って握った手も、振り払われない。にやり、口角が上がった。
「どうです、高木さん? いっそのこと、俺と・・・」
「カズオ」
 流石に見逃せなくなったのか、グイドが嗜めるように名前を呼んだ。軽く睨むように見て、視線を戻す。
「十倉だっていつかは気付きますよ。家族に説得されたら、きっと戻ってしまう。それで傷を作るくらいなら、同じ境遇の者同士・・・」
「お待たせ、恭臣」
 鐘の音がしたかと思うと、俯く高木の後ろに十倉が立っていた。振り向く高木に笑いかけ、その手を取る。
「少し遅くなってしまいました。怒ってます?」
「あ、いや・・・」
 目を泳がす高木の後ろで、グイドが視線で手嶋を示した。そこで漸く気付いたというように目を丸め、首をちょいと傾げて微笑んだ。
「お邪魔でしたか?」
 かっと手嶋の顔が朱に染まる。音を立ててスツールから降り、高木の腕に自らのを絡ませる。
「邪魔に決まってんだろ! 手出していいって言ったくせに、途中で茶々入れてくるなよな!」
「え・・・」
 手嶋の言葉に、高木の顔が悲しそうになる。反射で引きそうになる手をぎゅっと掴まれ、怯えたような顔で十倉を見た。少し微笑む顔に、視界が歪む。
「・・・んで、そんなこと」
「だって、恭臣は受けないでしょう? だったら、手を出そうが出されまいが、そんなこと・・・」
「酷い」
 ぽつりと落とされた声の低さに、十倉は目を瞬かせた。顔面を蒼白にする高木を不思議そうに見て、その頬に手を伸ばす。ぱしり、とその手を払われた。
「恭臣?」
「も、嫌だ・・・お前とは、もう付き合えない」
「えぇ?」
 笑顔で聞き返され、高木はとうとう涙を零した。ぎょっとした十倉が何か言うより先に、財布からお札を抜いてカウンターに投げるように置く。そしてそのまま、顔を隠すようにして店を飛び出した。
 呆けた十倉より先に、手嶋の足が動く」
「自惚れてるからだ、ばーか」
 走り出した手嶋を追う気になれない。訳が分からないまま立ち尽くす十倉の肩を、グイドがつついた。何、と向けた顔を、軽く叩かれる。
「追いなさい。このままじゃ、カズオにオミを取られちゃうわよ」
「でも、」
「本当にガキねぇ。貴方、今相当オミを傷つけたのよ。分かってる?」
 眉を寄せてグイドを窺う。その様子に何も分かっていないことを悟り、大きく溜め息を吐いた。
「オミは貴方が好きよ。でも、好かれている自信が全くないみたいなの。それを、手出してもいいなんて・・・」
「でも僕は、恭臣がなびくはずはないと思って・・・」
「浮気してもいいって言葉は、取りようによっては執着がないとも言えるのよ」
「そんな、つもりは」
「いいから行きなさい。カズオはともかく、私が貰ったっていいのよ?」
 十倉の目が細められた。ぞくりとして、両手を上にかざす。
「その独占欲を、オミにも見せてあげなさいな」
「・・・失礼します」
 低く言って、十倉は店を飛び出した。その後ろ姿を見送り、グイドがくすくす笑う。
 十倉の気持ちを分からないでもない。男なら誰だって、自分ががっついているとは思われたくないものだ。その癖、プライドだけはどこまでも高い。
 可愛らしい外見の内に、十倉は黒々とした何かを持っている。それを高木だけに悟らせないのは、大した面の厚さだと思う。しかし。
 高木に対しては、もう少し見せないと駄目だろう。28年の間にすっかり恋に臆病になった男の、鎧を剥がすためには。
 添え物のチェリーを一つ取り、口に入れた。甘酸っぱい味と香りが口内に広がり、グイドはきゅっと口を窄めた。






続。
09.01.13