2.

「ドライオーガズムっていうらしいですよ」
 会社近くのカフェで、高木は危うく含んでいたコーヒーを吹くところだった。一番奥の、それも店内では唯一死角のできるところとはいえ、周りが気になる。きょろきょろと人がいないのを確認してから、正面にいる十倉を睨み付けた。
「そういうことを公共の場で言うなっての! 早朝で人がいないからって・・・」
「あ、その反応はどういうものか知ってますね? 僕は昨日知ったばかりなのに」
 両手にサンドウィッチを持ったまま、黒い瞳を丸くして問いかけてくる。その可愛らしさに目を奪われながら、発言のエグさに歯咬みする。
「知ったばかりって・・・またあいつに聞いたのか?」
 気を取り直して高木もパンを取り、ぱくりと咬み付く。ライ麦の香りが、ふわりと口内に満ちた。
「ええ、恭臣がシャワー浴びている間に。初めてでしたか?」
「・・・まあな」
 学生時代の同級生だという十倉の知り合いは、大っぴらにカミングアウトしているゲイだ。まだ会ったことも話したこともないが、オープンな分訊かれればなんでも答える。なんでも知りたがる十倉は、ことあるごとにそいつとコンタクトを取ってはいらぬ知識を付けてきた。
 高木自身、その言葉については名称だけは知っているものの、実際に体験したのは初めてだ。全身が電流を受けたみたいに痺れ、頭の中がいつものときより激しく明滅した。知らぬ快感が、恐怖ですらあった。
 もぐもぐと口を動かしながら、高木はまだ挿入っている感覚のある尻を動かした。
 最近の十倉は、金曜からずっと高木の家にいることが多い。一度着替えを取りに戻ることもあるが、最低限必要なものは殆ど揃えてある。本当はマンションでも買って一緒に住みたいところだが、資金面やその他の理由で、高木はそれを言い出せずにいた。高木にとっては、その他の問題のほうが重要なのだが。
「・・・みさん。恭臣?」
「あ、ごめん。ちょっとぼけっとしてた」
 持ったままのサンドウィッチからレタスやらキュウリやらがぼとぼとと落ちていた。手を伸ばしてそれを拾いながら、十倉がくすくす笑う。
「思い出して耽っちゃうほど、よかったですか?」
「なっ・・・」
 添えられていたプチトマトを取り、真っ赤になって固まる高木の唇に押し当てた。その歯列を割って進み、舌の上に乗せると指を使って押し潰した。
「んぅっ」
 ぶちゅりと音を立てて潰れたトマトを、歯や舌に擦り付けて柔らかくしていく。たちまち口内に溜まった青臭い果汁が口端から漏れて伝い、高木は苦労しながらもなんとか飲み込んだ。存分にその反応を楽しんだ十倉が指を拭いてから、漸くぐずぐずになった皮や果肉を咀嚼した。
「・・・何、すんだよ」
「美味しかったでしょう?」
 わざとなのか、いやらしいものにしか見えない仕草で指を舐め、にっこりと笑ってくる。その笑顔に対して、味なんか分かるものか、とは返せなかった。
「そろそろ出ましょうか。いい時間ですよ」
「待って、あと一口・・・」
 そう言ってコーヒーを飲んでから立つと、先に立って会計に向かったと思っていた十倉が不意に振り返り、中腰の高木に口付け手きた。唇を僅かに外したそれは、ぺろりと舌を出して口端を舐め、何事もなかったかのように離れる。
「果汁、ついてましたよ」
 無邪気な笑顔のまま踵を返した十倉の後ろ姿を見ながら、へたりと再び腰掛けた。口元を手で覆い、真っ赤になって俯いた。
 もう、幸せで死んでしまえそう。最近の十倉は高木に対してどこまでも甘く、そして官能的だ。
 抱いてもらえただけでも奇跡だというのに、まさか恋人にまでなってくれるなんて。好きだと言われたときは、余りのことに泣いてしまった。
 ただ、一方で恐れていることもある。
 十倉は、初めてした相手だからこそ、同情しているのではないかと。同情と愛情を、捉え損ねているのではないか、と。
 だからこそ、いつ現実に戻られてしまうか分からない。行為を楽しんでいる間はともかく、いつか相手が男なんだと冷静になられてしまったら。
 そう思うからこそ、十倉には何もさせたくなかった。興味本位でオーラルなどさせて、その顔が嫌悪に歪んだとしたら。きっともう、立ち直れない。今が幸せだからこそ、その幸せが消えた際のショックはおよそ計り知れない。
 高木のスーツの内ポケットには、新しい辞表が収まっている。十倉が初めて高木の部屋に泊まった翌日に、書いたものだ。スーツの上からこれを押さえると、調子に乗るな、と頭のどこかで誰かが囁いた。この関係は、十倉の気まぐれ一つでどちらにでも転がるのだ。
 ただ真っ直ぐに恋心を貫くには、年を重ねすぎた。相手に何かを期待するには、今までの恋愛で余りにも報われなさすぎた。
 会計を済ませた十倉が手招いている。その眩しい笑顔は、いつまで自分に向けられるのだろう。その声は、あと何回自分を呼んでくれるのだろう。
 毎日を怯えて暮らしながら、高木は今の幸せを必死で噛み締めていた。


 手嶋和夫は、十倉と同期入社した新人だ。
 総務課のアイドルと呼ばれる彼は、その二つ名に相応しい外見をしており、十倉同様入社後すぐに課内での視線を独り占めにした。
 少し癖気味のネコっ毛は地色が茶色く、睫毛の長い大きな瞳は簡単に涙で濡れ男女ともに引き寄せる。仕事の覚えは常人並みだが、一生懸命にやる姿が好評で、若い女子社員から可愛がられていた。
 本人もその自覚があり、ちやほやされることを心地よく思っている。このまま他の部署にも知名度が広がれば、社内は手嶋にとっての天国と代わったかもしれない。そんな夢は、僅か三日目に打ち砕かれた。強敵、十倉大湖の出現である。
 十倉の噂は入社二日目に手嶋の耳に入り、三日目には社中に知れ渡ることとなった。手嶋の人気はその波に阻まれ、結局総務課内だけのものとなったのである。その総務課でも、今では十倉の名を聞かない日はない。
 別に女子社員に囲まれずとも、彼はさしたるダメージを負うことはない。何故なら、彼は女より男の方が好きだったからだ。
 会社で女に相手にされなくとも、二丁目に行けば言い寄ってくる男はいくらでもいる。結婚願望は元よりなかったし、気持ちいいことが好きな彼は抱くより抱かれるほうを好んだ。
 自分に誘われれば、拒む男はまずいない。入れ食い状態の日々に、手嶋は満足していた。
 そんなある日、行きずりの男に誘われて入った店で、理想の男を見つけた。すらっとした長身に、切れ長で知的そうな瞳。通った鼻筋の下できゅっと閉じられた唇の形は美しく、見た瞬間ビビっときた。その唇で辱められたい。指先は、舌は、どんな風に男を鳴かせるのだろう。
 常連らしい客にそれとなく聞いた話では、彼の好みは可愛い系であるとのこと。よく誘いをかけられているが、本当にたまにしか相手をしてくれないらしい。その高嶺の花のような情報に、手嶋の闘争心は燃え上がった。絶対、落としてみせる。
 しかし、手嶋がそう思って店に通い始めた日からその男は店に来なくなり、聞いた話では手嶋がいない日にも訪れた様子はない。
 こんなことになるのなら、初めに見たときに話しかけておくべきだった。そう悔やみ続けて数ヶ月経ったある日、手嶋は己の幸運を叫んだ。なんとその男は、同じ会社に勤めていたのである。しかも成績優秀、人当たりも良く、知れば知るほど男に惹かれていった。今までにない胸のときめきに、手嶋はこれが本気の恋であると自覚した。
 とにかくお近づきになりたい。彼の願いは、またしても障壁にぶち当たる。天国計画をおじゃんにした、十倉大湖の存在だった。
 彼は十倉の世話役らしく、日がな一緒にいることが多かった。二人で外回りをし、二人で昼食を摂り、二人並んで帰路に着く。オフィスのデスクは多少離れているようだが、その間は手嶋も仕事中だ。少し張ればトイレで会いまみえることもできただろうが、そこまでがっつきたくはなかった。店でさり気なく話しかけ、同じ会社であることを皮切りに仲良くなれれば。
 そんな悠長なことを考えている間に、恐れていた事態が起きた。勿論、最初から不安ではあった。十倉の外見は、噂で聞いた男の好みに一番マッチしていた。どう見てもノンケであったが、あの男に誘われたら簡単に落ちるだろう。それほど、男の色香は強かった。
 そしてそれは、現実のこととなった。二人が、件のゲイバーから出てきたのだ。仲良さげに、手なんか繋いで。
 呆然として二人の乗ったタクシーを見送り、我に還るなり店に飛び込んだ。すっかり顔馴染みとなったままが笑顔で迎えるのに、久方ぶりの挨拶を惜しんでした問いに返ってきた答えは、手嶋にとって絶望でしかないものだった。
「諦めなさい、相当大事にされているみたいだから」
 恋人なのだと言外に言われ、目の前が真っ暗になった。
 大事に、されている。高木に、大事に扱われている。ひょっとしたら、あそこで隣りに並んでいたのは自分だったかもしれないのに。
 女子社員の視線が逸れたときには、意にも介さなかった。望むものは、そこにはなかったから。
 しかし、その日初めて。手嶋和夫は、十倉大湖に対して敵意を持った。可愛いというだけで、彼の愛情を一身に受けている男。
 どんな手を使ってでも、きっと別れさせてみせる。
 店内でそう呟いた言葉を、店のママは愚か、手嶋本人すら聞いていなかった。


 総務課に可愛い子がいる、という話は高木も耳にしていた。こなすスピードは人並みだが、その仕事は正確で丁寧、ころころ変わる表情がまたいいのだとか。
 しかしその噂が高木のいる販促課に届いたとき、高木は既に十倉一色に染まっていたため、脳に深く刻まれることはなかった。
 なので、トイレで隣りに並んだ男がそれだと気付くことはなく、ましてや名前なんて全く浮かんでこない訳で。突然話しかけられたことにより、その内容に目を見開いた。思わず開いた口から、挟んでいたハンカチがぽとりと落ちる。洗っていた手に反応した水道から流れる水が、それをみるみる濡らしていくのも、気付かなかった。
「あっと・・・今、なんて?」
 濡れた手をシンクの縁に突き、高木は必死で平静を装っていた。だが、動揺は隠せない。一向にハンカチを拾おうとしないところで、それは既にバレバレだろう。
 その横で鏡に向かって前髪を弄る手嶋が、軽い口調で今尋ねたことをもう一度口にする。
「ですから、十倉と付き合ってますよね? って訊いたんです」
「だか、なんでそう・・・」
 蒼白する高木を見て、手嶋はくすりと笑う。
「そんなに怯えないで下さいよ。同族の勘ってやつですか。高木さんが分かり易いって訳じゃないですよ」
「ど、同族?」
「俺も、ゲイですから」
 笑顔で言われたが、そう簡単に信用なんてできない。緊張して黙り込んでいると、横から伸びてきた手がシンクに乗せた手に重ねられた。びくりとして、肩が大きく揺れる。
「安心してください。俺も、人に知られたいほうではないので」
 そこで言葉を切ったので、高木は鏡越しに初めてまともに手嶋の顔を見た。伏せた睫毛に、ふと共鳴めいたものを感じる。
「今の反応では、高木さんも人に知られたいほうではないんですよね? ・・・辛いですよね、隠れて付き合うというのは」
「君、も?」
 つい口をついて出た質問に、手嶋ははっと顔を上げて高木を見た。その同様に自ら笑い、前髪を軽く掴む。その目は少し赤く見え、もしかしたら泣いていたのかもしれない。
「もう昔の話ですけどね。今も、また懲りずにノンケに片想いしちゃってます」
 自嘲するような言い方に、高木もつい口角を上げた。それを見て、手嶋も頬を緩める。
「俺、手嶋っていいます。もしよかったら、今度相談に乗ってもらえませんか? 俺でよかったら、高木さんの話も聞きますよ」
 突然の申し出に、高木は深く考えるよりも前に頷いていた。自分で思っていたより、溜まっていたのかもしれない。その答えに、手嶋が人好きのしそうな顔で笑う。
「じゃあ、これ俺の名刺です。裏に携番とアドレスを書いてあるんで」
 濡れた手で受け取ったと同時、廊下から高木を呼ぶ声がした。それが十倉だと気付くや否や、慌てて名刺をポケットに突っ込み、手嶋から顔を逸らす。ふふ、と手嶋が笑った。
「俺たちのことは、秘密にしておきましょう。変に勘繰られたら困るでしょう?」
 それに素早く頷くのを見ると、手嶋は踵を返した。その手が扉を開けると、入れ替わりに十倉が入ってくる。お互いに顔を見合わせて会釈し、何事もなかったかのように歩き出す。十倉は一瞬だけその後ろ姿を見たが、すぐに高木に視線を移した。
「あんまり長いんで心配しましたよ。・・・何かあったんですか?」
「いや、何も・・・」
 ふいと目を逸らしたことに不信を持ったようだが、それよりも手洗い場にあるハンカチに気付き、溜め息をついてそれを拾った。
「寝惚けてるんですか? それとも、疲れてます?」
 簡単に洗いながら訊かれ、高木は曖昧に答えた。迎えに来てくれたのは嬉しいが、それが何に起因するのか分からない。前髪を掴んで俯いていると、その手を濡れた指が撫でた。
「どうかしましたか?」
 優しい黒い瞳に、泣きたくなる。今こんなに優しくされていたら、捨てられたときどうすればいいのか分からない。
「恭臣さん?」
「・・・ス、していいか?」
 十倉が目を丸くした。会社で高木のほうから甘えてくるなんて、珍しかったから。ハンカチを絞っていた手から水気を切り、向き直る。
「いいですよ」
 目を閉じて少し顎を上げた十倉の顔を両手で包み、その少し赤みがかった唇に口付けた。
 柔らかいそれは触れているだけでも充分なのに、食むように動かすときちんと応えてくれる。熱い舌を絡めとリ、好きなようにする。暫くは優位に立っていたが、いつの間にか首に回された手に引き寄せられ、呼吸さえ制限するような激しいキスに変わった。
 苦しげに鼻から空気を吸っていると、膝が崩れたのを機に漸く解放される。へたりと覆い被さるように十倉の肩に身を預け、ふるりと体を揺らす。
「落ち着きましたか?」
「・・・ん」
 ぽんぽんとあやすように背中を叩かれ、高木は小さく頷いた。まだ受け止めてもらえる、と安堵を含めて。
「・・・ごめんな」
 体を離して謝ると、目を瞬かせた。そしておかしそうに笑い、ハンカチを差し出す。
「何謝ってんですか? 行きましょ、部長に怒られちゃう」
 そう言って先に歩き出す背中を見つめてから、ハンカチを目に当てる。その冷たさは、熱くなった体温に心地よいものだった。


 メールの着信を伝えるバイブに、手嶋は心中で微笑んだ。
 思い立って一日目で会合できるなんて、本当に今まで踏んでいた二の足はなんだったのかと思う。しかし、どうも高木は自分の存在を知らないようだった。そのことが、ちょっとだけムカついた。
 まあ今からでも遅くはないだろう。意外と警戒心がないのか、それとも十倉との付き合いに何か不安でもあるのか。どちらであっても、つけ込む隙はあるということだ。上手いこと言って親密になり、一度酒の席でも設けられれば。一度でも抱かせてしまえば、夢中にさせる自身があった。どう見てもノンケの男に、自分が負ける訳ない。
 こっそり開いたメールには、昼休みに屋上で、とだけあった。短く了承の返事を打ち、フラップを閉じる。
 高木も手に入り、十倉に悔しい思いをさせられる。
 一石二鳥の企みに、手嶋はくすくすと笑った。






続。
09.01.12

ライバル出現。くすくす。