『春の長雨』 ん、すみません。少し、眠ってしまっていたようです。この店の空気は、なんだか凄く落ち着きます。来たのは、今日が初めてな筈なんですけど。 お客さん、僕だけになってしまったんですね。はは、こんな時間までいるほうが珍しいって顔ですね。気を悪くしないでください、悪く言ったつもりはないんです。 コーヒー一杯だけしか頼んでないのに何時間も居座ってごめんなさい。でも、あと少しだけ。閉店の時間まで、いてもいいでしょうか。ここを出ると、もう自由にできる時間はなくなってしまうんです。 ああ、さっきから寒いと思ったら、ほら。降ってきましたね。昼間は、あんなに穏やかだったのに。これではせっかく奇麗に咲いた桜が入学式を前に全部散ってしまうかもしれませんね。 知ってますか? 春の雨って、びっくりするほど冷たいんです。まるで、冬の間に空の高いところで凍ってしまった大気の塊が、春の陽気で溶け崩れて落ちてきたかと思うほどに。 この時期になると、僕はある人のことを思い出します。春の温かさをその心に持ちながら、触れる指先は氷のように冷たい、あの人のことを。 よかったら、少しの間だけ話相手になってもらえませんか。他にお客さんが来たら終わりにしますし、後片付けのBGMとでも思って聞き流してくれて構いませんから。 ありがとう、ございます。思ったとおり優しい人ですね。このコーヒーも、とても美味しかったです。 お世辞なんか言いませんよ。ただ、あの人を思い出します。あの人も、こうやってさり気なく優しくしてくれましたから。 じゃあ、始めますね。この話を人にするのは初めてだから、正直緊張します。なんせもう15年も経ってしまっているんですから。そう、15年も。 あの日も、こんな冷たい雨が降っていました。昼頃だったと思うんですが、空は重い灰色で塗りつぶされたような色をしていました。その空の下、僕は冷たい雨をただ諾々と受けていました。 小学校に入ってすぐくらいの時期でした。頬を付けたアスファルトに、踏まれて千切れた桜の花びらが貼り付いていたのを覚えています。 頬に、全身に当たる雨粒が酷く冷たくて、一つ一つが氷でできた針のようにすら感じられました。それをうつ伏せの体勢で受けながら、僕はぼんやりと死を意識していたように記憶しています。 自分が何故道路で寝ているのか、どうしてガソリンの匂いにまみれているのか。そうなる前のことが、一切思い出せませんでした。ただ全身からみるみるうちに体温が奪われていくことだけがやけにリアルで、ああ、死ぬんだなって。 そのまま目を閉じてしまおうかと思っていたとき、不意に頬を打つ水が止まりました。一瞬で天国に来たのかと思って視線だけ上げた先に、彼はいました。珍しいものでも見るように、その真っ黒な目がくるりと動いたように思えました。 てんしさまだ。 僕はそう呟いて、そのまま意識を失ったようでした。 それから先も、暫くは記憶が曖昧なんです。どうやら酷い熱を出してしまったようで、ぐらぐらする意識の中で何度も母を求めて手を動かしました。そのたびに手を握ってくれるあの人に、僕は問いかけていました。ここが天国なら、なんで僕はこんなに辛い思いをしなければならないのですか、って。 おかしいでしょう。でも僕は雨の日に見下ろしてきたあの人を、天使と思い込み疑うことすらしていなかったんです。天使様に拾われたのだから、ここは天国に違いないって。今思えば、そう信じたかっただけなのかもしれません。 あの人は、僕がそう訊くたびに困ったような寂しいような顔をしていました。そして何事かを、苦々しく呟いていたような気がします。実はよく覚えていないんですが、多分天国なんかない、みたいなことを言っていたんじゃないでしょうか。あの人なら、それくらい言いそうです。 何日かうなされて、漸く僕はそこが天国ではなくただの廃ビルの一室だということを悟り、その人が天使ではないと知ったとき。 僕は、僕の名前すら思い出せなくなっていました。 あの人は自分のことをまったく語ろうとしませんでした。というより、そもそも口数からして少ない人だったんです。 名前も教えてもらえず、ただ、周りからは玉露、とだけ呼ばれていました。それが本名であったかなんて、今では確認もできないんですけど。 とにかく奇麗な人でした。 夜の闇をそっくり塗り込めたような黒髪と、それと同色の双眸、陶磁器か雪を思わせるような肌。たまに発せられる声は、耳に甘く後を引くアルトで、熱に浮かされた僕が天の使いだと見紛うたのも、ある意味当然だったように思えます。 そしてその心は、その人形染みた外見にそぐわない美しいものでした。僕は記憶を失くしていましたが、代わりに彼を手に入れたのだと勝手に思っていました。彼さえいるならば一生記憶なんて戻らなくてもいい、そんなことさえ思うほどでした。 彼の世界は、以前は会社のオフィスであったのだろうその一室と、少し離れた場所にある給湯室の名残のような場所だけでした。捨て置かれた机や、スプリングの飛び出したソファが、コンクリート張りの床に雑多に置かれていました。ただ一つ持ち込まれたものであろうベッドは彼の特等席で、しかしそれもマットレスの薄い軋みの激しい粗末な代物でした。 それでも、彼の世界はそれで構築されるのが当然であるように思われました。というよりは、彼自身がそれらを愛しているような。捨てられたものであるからこそ、持てる愛着というものがあったのでしょう。僕のことも、その辺に落ちていたから拾ってきただけのように感じられましたし。 僕はその世界の端にあるソファの一つに、これまた拾ってきたらしい毛布一枚を渡されて住み着くことを許されました。 出て行けとも、逆に出て行くなとも、言われませんでした。きっと彼にとってはどちらでも同じことだったのでしょう。道に落ちていた僕が、捨てられた会社の捨てられた備品の一つにまぎれたところで、さしたる問題ではなかったのだろうと思います。 貴方、恋人はいますか? 僕ですか? 僕は、いません。 嘘なんか吐いてませんよ。はは、嬉しいこと言ってくれますね。まあ、確かに全くチャンスがなかったわけではないんですけど。 ただ、駄目なんです。何人か親しくなった女性はいるんですけど、いざとなるとどうしてもあの人の、玉露の顔がちらつくんです。顔なんて、思い出そうとするときには何故か霞みがかかってしまって、きちんと覚えていないくらいなのに。 彼にはたくさんの恋人がいました。あれが恋人と呼べないものだということは、今なら分かります。でも、玉露に親しそうに話しかける男たちは、幼い僕には恋人という関係しか思い浮かばなかったんです。 彼は朝起きるとコーヒーだけを飲み、僕のためにコンビニで何かを買ってくる以外は外出らしい外出をしませんでした。 お金はどこから来ているんだろうという疑問は、割とすぐに晴れました。 さっきも言ったように、彼にはたくさんの恋人がいました。それも、男ばかりが何人も。 大抵寄るになると訪れる男たちは、スーツ姿であったりジャージであったりと、格好も年代もバラバラでしたが、行動は一様でした。 玉露から何かをもらい、そしてオマケとばかりに彼を抱いて帰るのです。 僕の存在は少なからず男たちに動揺を与えましたが、玉露が何も言わないと見るとみんな一瞬で僕のことを視界から消し去りました。僕も、男たちが来ている間は口をぴったりと閉じ、耳を塞ぐことに徹していました。彼らが何をしているのかなんて全く知らなかったのに、それでも見てはいけないものだということがなんとなく分かっていたんです。 どんなに塞いでも、玉露の悩ましい声は僕の耳に這入ってきました。部屋が部屋ですから、完全に遮断することなんて、所詮叶わないことでした。 いつしか、僕はその姿から目を逸らすことをやめていました。それどころか、艶かしく淫らな玉露の姿態に、欲情すら覚えていたんです。 勃起を知らず、セックスも知らない僕でしたが、あのとき腰を重く甘い痺れで支配していたのは、確かに性の衝動でした。 玉露の声に、表情に、指先の動きに。僕の目はその小さな変化すら見逃すまいと、夜毎目を凝らしていました。幼い性器を、徒に握ったりもしたものです。 玉露は何か危ない薬の仲買人でした。 といっても正式な取引がそこで行われることはなく、玉露がもらっているお金も渡している量から考えると明らかに少ないものでした。 男たちの中には、一度しか来なかったものとその内に顔を覚えるほど頻繁に見るものとの二種類がいました。その常連のうちの一人が、玉露にこのような仕事をさせている張本人だと気付いたのも、結構早い段階でのことでした。 それの名前はヤスオ。それも、玉露と同様本名かどうか怪しいものです。しかし、奴が玉露を食い物にしているのは明らかでした。 自分が玉露の一番の恋人であるかのように振舞うくせに、玉露が他の男に抱かれることすらも商売にしているような節がありました。情事の痕を見つけても、ただいやらしく笑うだけで。 玉露がそんなヤスオの言うことを何故素直に聞いていたのかは今でも分かりません。ただ、それが恋愛感情からきているものではないことだけは分かりました。 きっと、玉露は何もかもを諦めていたのでしょう。それを象徴するかのように、彼が抵抗らしい抵抗をする場面を見たことは一度もありません。複数の男に声が出なくなるまで犯されたときも、明らかに尋常ではない様子の男に長い棒で強かに叩かれているときも。 彼の表情は、いつも同じでした。この人たちは、何が楽しくて生きているのだろう。そんな、不思議なものでも見るような、動物のような目を向けていました。 そして僕だけが、玉露を想って泣きました。毎晩毎晩、部屋の隅で鼻を啜るようになりました。 そんなある夜、酷く咳き込んだかと思うと、玉露がぴくりとも動かなくなってしまったことがありました。 その夜の相手は玉露に無理をさせるだけさせておいてさっさと帰っていたので、玉露の異変に僕だけが気付く形となりました。 初めて行為の直後に間近で見た玉露の肌はしっとりと濡れていて、こんなときでもなければ僕の喉は鳴っていたかもしれません。しかしその皮膚を上下させる呼吸は恐いほど弱く、今にも消えてしまうかと思われました。揺すっても呼んでも、反応はありませんでした。 玉露が死んでしまう。 血の気が一気に引け、僕は怯えながらもなんとかしなければと思っていました。 幸い、オフィスから少し離れた場所にある給湯室にはヤスオがどこかの家庭から勝手に拝借しているというガスが通っていましたし、火の扱いはここにいる間に覚えていました。 湯を沸かし、比較的奇麗な布を探して玉露の体を清めました。注ぎ込まれた大量の精液は、目を閉じて拭いました。そして、ソファから毛布を引っ張ってきて、一緒にくるまりました。玉露の体はすっかり冷え切っており、とにかく温めなくてはと思っていたからです。 ぐすぐすと泣きながら朝を迎え、まんじりとすることもなく玉露の疲れた寝顔をずっと見ていました。その呼吸が次第に落ち着いたものになり、顔に色味が出てきたときは、飛び上がりたいほどの喜びに胸が震えました。 玉露は目を開けた瞬間に僕の泣き顔を目の当たりにし、珍しく動揺していました。しかしすぐにいつも通りの顔に戻ると、泣き腫らして少し熱い僕の目元を、親指で優しく撫でてくれました。そして、小さく。本当に小さく、ありがとう、と彼は呟きました。 その日から、僕は玉露の隣りで寝るようになりました。また冷たくなったら恐いという思いと、もっともっと近くにいたいからという気持ち。どちらのほうが大きかったのかは、自分でもよく分かりません。 とにかく、少しでも長く彼の傍にいたかった。あれはきっと、僕の純粋な想いでした。 玉露も、そんな僕をあえて追い出そうとはしませんでした。それどころか、いつも真ん中を陣取っていたベッドの端に避け、僕のためにスペースを空けてくれるほどでもありました。 彼にしてみれば、拾ってきた子犬に懐かれた程度のことだったのでしょう。それでも、僕は幸せでした。玉露の表情の微かな変化が分かるようになり、時々かけられる一言が会話を許すようなものだったりするだけで、僕の心は馬鹿みたいに躍りました。 でも、幸せと言うのは長く続けばいいと願うものほど、すぐに終わってしまうものです。 あの雨の日からあと数日で一ヶ月が経とうというとき、僕は久し振りに外の世界へと出ました。ある、お使いをするためです。 それを考えたのは、ヤスオでした。ずっと僕を無視していたくせに、あの日突然僕に向かって笑いかけてきたんです。ちょっと小遣いをやるから、玉露の手伝いをしてみないか、と。 玉露は何か言いたげでしたが、僕は一も二もなく頷きました。だって、玉露の役に立てるんです。これがどんなに嬉しいことか、当時の僕にはそれを言葉にすることもできないほどでした。 そして、僕は茶封筒を持って指定された場所まで持っていくという仕事を任されました。恐らく非合法なものの運び屋として利用されたのでしょうが、僅か七歳にも満たなかった僕に分かる筈もありません。分かっていたとしても、僕はきっとやったでしょう。玉露の助けになるなら、なんでもしたかった。 何度か似たようなことをやらされて、いつものようにコンビニで玉露へのお土産を買って帰ろうとしたとき、僕の幸せは唐突に終局への道を進み始めました。 その女の人は、ここ何日か見ていた同じアルバイトの人でした。その人はいつもと同じように無愛想な応対をし、そしていつも通り無造作にお釣りを渡そうとして、僕の顔を見て目を丸くしました。そしてお釣りを握った手を宙に浮かせたまま、僕の目を見て言ったのです。 初めは、何を言われたのか分かりませんでした。しかしその手が僕の手を握り、もう一度同じことを訊かれたとき。 僕の脳内は、布で隠されていた電球が突如表れたかのように、真っ白な光に満たされました。 彼女が僕に向かって訊いたのは、僕の名前だったのです。それをきっかけに、僕は全てを思い出しました。母の顔、父の顔、少し意地悪な姉のこと、入学したばかりで友達の少ない学校のこと、そう、全てのことを一瞬にして思い出しました。 あの日、僕は知らない車の中で震えていました。僕の父は小さいながらも会社を一つ成功させていて、他の家から見ればいくらか裕福な暮らしを送っていました。その財産を狙ってのことだったのでしょう、家を出てすぐの曲がり角で、僕は車に押し込まれました。 あとから聞いた話ですが、犯人たちは僕を監禁場所に連れていく途中で事故を起こしたそうです。元々素人集団が発作的に起こしたもので、逃走に慣れていなかった運転手は突然の雨にハンドルを取られてしまったのでしょう。 そうです。僕は、そんな事故現場で寝ているところを、玉露に助けられたんです。 事故の所為で、僕のことは誘拐ではなく失踪事件として扱われ早々に顔写真が全国にばら撒かれました。そしてあの日偶然、あのアルバイトの女の人は僕の顔がそれにそっくりであることに気付いてしまったのです。 女の人は善意からの行動だったのでしょうが、僕はその手を振り解いて逃げるように店を出ました。背後で釣銭が音を立て、せっかく買ったお菓子もレジに残してきてしまいましたが、そんなこと今は問題ではありませんでした。あれに捕まれたままでは、僕は二度と玉露に会えなくなる。その一心で、僕は廃ビルまでの道を止まることなく走り続けたのです。 僕が息せき切って辿り着いたオフィスで、玉露はまたヤスオに組み敷かれていました。その光景がなんだか悔しくて悲しくて。僕は、初めて行為の邪魔をしました。玉露の上で服を脱がそうとしているヤスオを叩いて、めちゃくちゃに喚いて。 勿論殴られて部屋の隅まで飛ばされましたが、結果的にヤスオは玉露の上から体を離しました。やる気が失せたとかなんとか言い、去り際にもう一度僕を強く蹴り上げ、腹立たしげに出て行きました。 玉露は、血の混じった胃液を吐き出した僕に近寄り、その冷たいけど優しい指先で、目にかかる前髪を避けてくれました。その黒い目が、何かあったのか、と訊いてきます。 玉露が、好き。僕は玉露が好きだから、他の人に触ってほしくない。そう呟くたび、殴られた頬より、蹴られた腹より、何もされていない筈の胸の真ん中が苦しいほど痛んで。涙があとからあとから溢れて、止められなくなりました。 子供のたわ言と、玉露は笑わないでくれました。小さく頷いて、僕が壊れたテープのように好きだと呟くのを、聞いていました。 玉露は僕の涙を流れる端から拭ってくれ、止まらないと見るとその腕で抱き上げてくれました。しゃくり上げる僕の背中を叩き、一緒にベッドへと横になりました。そしてズボンに手を入れると、小さな性器を優しく揉んでくれたのです。 宥め方を知らないから、と囁くように謝った彼の手で、僕は簡単に達しました。精通もまだだったそこからは勿論何も出ることはありませんでしたが、それでも脳髄を走った衝撃は、僕を泣きたいような切なさで一杯にしました。あのとき、僕は確かに絶頂を感じていたんです。 初めての感覚にうろたえ、それ以上に全身を急に襲った倦怠感にまどろむ僕の耳に、玉露の美しいアルトが響きました。 忘れろ、と。出会いから何から忘れてしまえ、と彼は何度も呟いていました。 そしてその声がどんどん遠くへ離れていき、次に目覚めたとき。玉露の姿は、そこにはありませんでした。 今までも、目覚めた瞬間から彼の姿がないことは時々ありました。しかし、今回はそれとは違うのだとすぐに悟りました。何故そう思ったかというと、玉露が唯一気に入っているらしい文庫本が、なくなっていたからです。買い物に行くときに、彼がそれを持っていったことなんて一度もなかったのに。 僕はすぐに外へ飛び出しましたが、見つかるわけもありませんでした。当てもなく街をうろつく間に、あの女の人が通報したのでしょう、警邏していた警官隊の一人に僕は保護されました。そしてすぐ、大きな病院へと運ばれて軽い検査を受けたのを覚えています。診断は、軽い栄養失調と脱水症状。しかしそれ以上に、僕には玉露がいなくなったことがショックでした。 その後両親が駆けつけ、若い婦警さんに色々訊かれましたが、僕は何一つとして語りませんでした。何より、話す気力が少しも残っていなかったのです。 玉露に捨てられた。そのことだけがただただ悲しくて、僕はいつまでも泣いていました。 雨、強くなってきましたね。夜の雨はもの悲しくて、少しばかり苦手です。 泣いて、いるんですか? 僕が可哀そうで? ふふ、ありがとうございます。本当に、優しい人ですね。 出会いも雨でしたが、玉露がいなくなったのもこんな雨の日でした。春の冷たい氷雨に、僕の体も心も芯から冷やされていったんです。 七歳の子供でしたが、僕は本気でした。彼を好きで、好きで、好きで。15年間、彼ばかりを思って生き続けた。必死になって捜しもしましたが、とうとう大学まで卒業してしまいましたよ。 僕を誘拐した人たちは、僕が無事に帰ってきたという報道が流れてすぐ、病院の両親の元へと罪を告白しにきました。その場にいた警察に突き出すこともできましたが、父はそれをしませんでした。彼らが、自らも怪我をしているというのに、僕の捜索を寝食惜しまずしてくれていたと知っていたからです。 彼らは、元から僕を傷付ける気なんかなかったのでしょう。それなのに、不慮の事故で僕は行方不明となってしまった。誘拐しましたとも言えなかった人たちでしたが、それでもその誠意は父に伝わったのでしょう。 その後彼らを雇い、その献身的な働きもあり、父の会社は他の大企業にも劣らないものへと成長を果たしました。僕も、次期社長として卒業を待たずに多くの業務を経験させられています。明日からは、父の傍で修行しながら実質的には僕が会社を運営していくことになっています。もう、自由な時間がないと言ったのは、そういうことです。 卒業してから入社時まで。この一ヶ月足らずの間が、僕に残された最後のチャンスでした。この期間だけ、僕は父から自由にすることを許されていました。 でも、駄目でした。父に協力してもらい、方々まで手を尽くしたんですが、この街を最後に、彼の足取りは全く掴めなくなってしまったんです。 ねぇ、泣かないでください。僕は本当に、後悔なんてしてないんですから。そりゃ、会えなかった心残りは、少しばかりありますが。 でも僕は、玉露と出会えたことを幸運に思っている。たった一ヶ月弱の短い期間だったけど、一緒に過ごせたことは最高に幸福だったと信じている。 玉露は天国なんか信じないんだろうけど、あの寂れたオフィスは、僕にとっては確かに天国だった。そこに住む玉露は、天使に間違いなかった。 だから、ねぇ、店長さん。泣かないで。 そんなに泣くのなら、そんなに僕のことを可哀そうだと思うなら、一つだけ、僕の願いをきいてもらえますか? 名前、教えてください。 15年間、ずっと知りたかった。 ねぇ、玉露。 終。 080923up |