第七話  『花嫁の危機』


「ラズ、ラズ起きろって。おやつ持ってきたぞ」
「ん・・・んー?」
 瞼を擦り、紫の目をぱちりと開けた。とろりと美しい光をたたえるそれは、少しうろついてから真っ直ぐに俺を捕える。その瞬間がばりと腕に抱えられ、ベッドに引きずりこまれた。
「っん! こら、ラ・・・んむっ」
 寝起きで熱い舌に口内を弄くられ、簡単に体が火照っていく。抵抗の力はすぐになくなり、ラズの腕の下で大人しくそれを受けた。
 満足したらしいラズが腕を立てて体を起こし、溶けた目で俺を見下ろす。
「リュー、甘い匂いがする。ケーキ作ってた?」
「だから持ってきたって言ったろ・・・馬鹿」
 鼻を摘むと、子供のように笑って俺の上から飛び降りた。そして俺の手を取り、早く早くと促す。
 お前、俺とケーキとどっちが好きなんだ。思うが、口には出さない。ラズが甘いもの好きなのは、ここ一月で充分すぎるほど理解したから。
 そう、この城に来てもう一ヶ月余りが過ぎた。婚約はしたものの、ラズが18の誕生日を迎えるまで正式な嫁となるわけではない。
 俺は元々定職のないヒモ野郎だったし、ラズもまだ守り魔の任を引き継いでいない。つまり二人ともすることが全くないので、日がなダラダラと自堕落な生活を送っていた。
 することといったらまずはセックス。天気のいい日には散歩をすることもあるが、殆どこの部屋で過ごしている。駄目だろうとは思うのだが、しかし俺にはできることが少ない。こうしてケーキを作って配ることくらいしか、能がなかった。
「リュー? 食べないのか?」
 毎回フォークも持ってきてやるのに、ラズは手で掴んで食べる。頬にクリームを付けてるのなんて日常茶飯事で、俺は指先で取ってそれを口にした。
「俺はこれでいいから、好きなだけ喰いな」
「やった!」
 ラズは可愛い。感情に素直で、そして嘘がない。上辺だけの奴らとばかり付き合ってきた俺にとって、胸のくすみを取り去ってくれるような存在。恥ずかしいから言ったことはないが、こういうときは会えてよかったと感謝してる。
「そういやさあ・・・俺、お前と」
「リュー!」
 言葉の途中で大声を出され、驚いて身を引くと背中に何かが当たった。振り向いて、そこにあった青い光に捕まる。
「・・・誰だ?」
「あんたこそ誰だ? すげーいい匂いするな」
 言うなり、青い目をした男は俺の頬をベロリと舐めた。
「ディア!」
「ありゃ、ラズじゃん。こいつ、ラズの供物?」
「リューは俺の嫁だ! 手離せ!」
 ラズが叫ぶと、ディアはつまらなそうな顔をして手を離した。空いていた椅子に座り、ケーキを指差す。
「じゃあこれ、喰っていい?」
「あ、そりゃ構わな」
「駄目だ。一欠片もやらん」
 大人気ないことを言い、ラズは嫌そうに手で払う動きをした。俺はそれを無視して、切り分けてやる。
「おい、リュ」
「どうせ全部は食べられないだろ。ワガママ言ってんなよな」
 ラズは何か言いかけ、結局むすっとして顔を背けてしまった。怒らせたとは思うが、間違ったことは言っていない。苦笑して、ディアに話しかける。
「えっと・・・ディア、だっけ? 君も悪魔なわけ?」
「ディア=ベルゼビュート。悪魔王の息子って言えば、驚く?」
 幸せそうな顔でケーキを食べながら言われても。悪魔ってのは全体的に甘党なんだろうか。俺の服に付いた匂いにも敏感だったようだし。
 しかし悪魔王の息子とはね。確かに聞いたことあるような単語だな。ん? ってことは。
「悪魔界の王子じゃん、君」
「ピンポーン。で、こんな奴やめて、俺のとこ来ない?」
「ふざけんな!」
 ラズが机を叩きながら立ち上がり、紅茶やケーキの皿が音を立てた。
「冗談だよ。弟分のラズの嫁さんを奪ったりするかよ」
 ラズより一つか二つ年上だろうか。少年と呼ぶより青年と呼ぶべき顔が、けたけたと笑う。未だにむすくれているラズの肩を抱き、疎ましそうに押しやられてもしつこく引き寄せた。
「ディアにだってもう嫁はいるじゃねぇか! 浮気してる場合かよ!」
「嫁っても許婚で恋愛結婚じゃないしぃ。それにこんな美味しそうな人間って、初めてで・・・あれ?」
 フォークに付いたクリームを舐めながら、ディアは俺の顔をまじまじと見た。
「俺・・・あんたと会ったことないか?」
「はい?」
 すみませんが、今のところ悪魔のお知り合いはラズとその父のイーリ様だけなんですけど。
 夢に出てくるのも、ラズだって分かったしな。あ、さっきそれ聞こうと思ってたのに。俺、ラズとどんな約束したんだろう。
 考え込んで、ラズの不機嫌そうな顔にはっとした。ったく、いつまでへそ曲げてんだよ。どうしたものかと思って眺めていたら、ラズはディアの手を振りほどいて俺の後ろに立った。
「ラ、ラズっ」
「それ喰ったら帰れよな。戻ってきてもまだいたら、殺す」
 さっと俺を抱き上げると、そんな物騒なことを言って翼を広げた。窓から飛び出す際、青い目が一瞬だけ俺を捕えた。何か言いたげな含み笑いをしているように見えたが、すぐ見えなくなったのでもう分からない。
 それよりも、空中に浮く緊張に俺はラズにしがみ付くので精一杯だった。時々こうして飛ぶのだが、まだ慣れない。
 だが言ってやらなくては。首に腕を絡ませたまま、その紫の瞳を睨み付けた。
「ラズ! お前、態度悪いぞ!」
「なんでだよ! リューこそ、俺の嫁だって自覚が足りないんじゃねぇの?」
 城の少し上で滞空され、俺は首に回した手に力を入れた。ラズが俺を落とすとは思えないが、まだあのときの恐怖が残っている。ラズが、落ちるんじゃないかって。
「恐い?」
 ラズは分かっていて飛ぶのだ。ここでは、ラズしか頼れる相手がいないから。
「・・・恐いよ。だから、早く下行ってくれ」
 暫くすればラズは簡単に機嫌を治す。しかし今回は根が深いようで、降りてはくれたが、むすっとした顔は戻らなかった。
 やれやれと片方の手を頭に回し、撫でてやる。キスしてやろうと顔を寄せると、それにはちゃんと応じた。
「友達なんだろ?」
「・・・ただの腐れ縁。気になるの?」
「お前のことだからな。なぁに疑ってんだよ」
 男とくれば浮気だと思うんだから。もう今更ノーマルだなんて言わないけど、抱かれてもいいと思うのはお前だけなんだぞ。
「てか聞きたいことあんだよね。降りてよ」
 山の上空って寒いし。震えて見せると、ラズは渋々高度を下げた。バルコニーに立ち、俺もそこに足を付けて漸く安心する。
「サンキュ。・・・な、俺とお前って、昔会ってるよな?」
「・・・今頃思い出したの?」
 うんざりした言い方に、俺は少しばかり肩透かしを喰らったような気分になる。喜ぶとは思ってなかったが、不機嫌になるのはもっと想定外だ。
「それで? 他に言うことは?」
「え? あ、ああ! 約束のこと? 実はあれ、未だに思い出せないんだよね・・・ぇ」
 あ、れ? なんで不機嫌度が増してんの? ちょ、なんで翼広げてんのさ。待って待って待って。
「ラズ?」
「今日は森で寝る。リューが自分で思い出すまでは、帰らないからな」
 バルコニーの手すりに足をかけ、止める間もなくすっ飛んでいった。
 この山一帯で遊んで育ったラズには、至るところに秘密基地のような場所がある。俺に怒られたときや、逆に俺が怒らせてしまったときなんかは大体そこで夜を明かす。所詮イーリ様の結界の中だから、頼めばすぐ見つかるのだけれど。最近は俺の感覚も冴えてきて、聞かなくても分かるようになったが。
 俺が迎えに行けばすぐ戻るのだが、今日はなんか捜しに行きにくい。怒らせると思ってなかったから、罪悪感があんまないし。
 飛び去っていく鴉の濡れ羽色の翼が小さくなるのを眺めてから、俺は踵を返した。
 そんなに大事な約束だったんだろうか。だとしたら悪いことしたよな。それについては少しだけ反省しながら窓を開けると、突然耳鳴りがした。
「おかーえり」
 うきうきと弾んだ声。それがラズのものではないと理解しながら、俺はその場に崩れ落ちた。


 やくそくだよ、とその小さな唇は動いた。ぜったい、ぜったいだよ、と何度も念を押して。
 でも俺は思い出せない。一体俺は、何を約束したんだったか。
 全く、思い出せないんだ。
「あ、起きた? どんな感じ?」
「へ? ディ、ア・・・?」
 そうだ、こいつ帰ってなかったんだ。ラズはあんなだけど怒ると恐いから言うことは聞いたほうがいいと思うぞ。
「ってなんじゃこりゃあああぁぁぁぁぁ!」
 全裸だ! いや、もうこの際服を着ていないことなんてもう些細な問題だ。なんていうか、あれだ。一言で言えば、拘束されてるわけで。
 まず、手。長い布みたいなので片手ずつベッドの足に括られていて、小さくバンザイできる程度にしか動かせない。そして足だが、胸に付くまで曲げられ、それを伸ばせないよう固定されている。しかも膝の裏に長い棒を咬まされている所為で、晒された陰部を隠すこともできない。
「・・・な、なあこれ。これ、何?」
「え? いいでしょ。術のかけ方強かったのか、なかなか起きなくて焦っちゃったよぉ」
 太股の裏を撫でられ、悪寒がした。
「お前、何考えてんだよ! ここ俺の部屋だよな? ラズが帰ってきたら、」
「帰ってきたところで入ってはこれないよ。俺の結界、ラズの力じゃ剥がせないからさ」
 キラ、と青い目が光ったかと思うと、薄暗い室内の壁全体もぼんやりと光った。いつかラズが俺を閉じ込めた、見えない壁の正体だろうか。尤も、今回は閉じ込めるんじゃなくて締め出すためのものらしいが。
「一体、何が目的なんだ? お前ら、幼馴染なんだろ?」
 訊くと、ディアはくすくすと笑った。何も知らないんだ、と俺に顔を寄せて。
「俺の目的はあんただよ。正確には、あんたを抱くことでもらえる力、なんだけど」
「・・・は?」
「マジで何も聞いてないんだな。あんた、俺ら悪魔から見れば最高級の食材みたいな体なんだよ」
 最高級食材。ご馳走、のようなものか。
 そういやラズもよく美味そうだの甘いだの言って俺を抱くが、それはあいつが色欲の悪魔な所為だと思っていた。俺ら悪魔ってことは、もしかして他の奴らにも?
「ぅんっ」
 足の付け根をさすられて、そのビリっとした刺激に目を閉じた。ラズに色々されているおかげで、俺の体は以前よりずっと敏感になっている。ディアが笑って、会陰を指で押してくる。前立腺を外から押される、少しもどかしい快感。宙にある足が、ふらふらと揺れた。
「ん、んくっや、やめろ・・・!」
「不思議なのは、18から今までなんで誰にも喰われてないかだよね。この年でラズと婚約したってことは、最近まで村にはいなかったんだろ?」
「は? 一体なんの、こと」
 浮いた頭で訊くと、ちんこの先に滲んだものをついと伸ばされた。
「あんたの甘い匂い、俺たち基準の成人・・・つまり18なんだけどな、そこを契機に増すんだよ。それまで人間の他の匂いに紛れていても、そうなるともう終わりだ」
「終わり?」
「無理やり悪魔界に連れてかれて、不死にされてからは狂うまで・・・いや、狂っても壊れても抱かれ続けるんだ」
 ぞっとした。俺の顔でそれを察したのか、ディアがまた笑う。
「ラズは優しくてよかったと思ってる? でも、あいつはそれを黙ってる。黙って、あんたをここに閉じ込めた」
 くりくりと先端を揉まれ、腰が砕ける。熱くなった息を吐くと、ディアはますます調子に乗った。
「いいよなぁ。俺は治めてる地とかないからさ。あの村の連中ってあいつらの言うことに逆らえないんだろ? ラズはそこを利用したんだよ」
 指に掬った先走りを胸になすられ、硬くなったところを押し潰された。ビクっとして息を詰めると、ディアはまた笑った。
「あいつはあんたが好きなわけじゃないよ。あんたの力が欲しいだけ。そんな奴に操立てなんかしてないで、俺んとこ来いよ」
 痛いほど膨らみ、すっかり色付いたそこにディアは口を寄せた。軽く咬みながら舌先にくすぐられ、腰に切なさが集中する。
 そうして胸を吸いながら、ディアは尻に手を伸ばした。ラズに慣らされたそこは、ラズの指でなくても簡単に飲み込んでしまう。浸入する異物感に、体が震えた。
 ラズが、自分の権力を利用して俺を囲ったって? なら俺が好きだと言った言葉も行動も、全部嘘偽りだったってのか。
 そんな、そんなことが。
「信じられると思うのか、馬鹿が」
 低く言うと、ディアは驚いたように顔を上げた。その丸い目に、言ってやる。
「あの馬鹿が付くほど正直な奴が、そんな回りくどいことするかよ。それに俺は、あいつが好きで足開いてんだ。それ以外の野郎のちんこになんて、興味ないね」
 ラズの友達だか幼馴染だか知らないが、ここまで言われて使ってやる気なんて俺は持ち合わせていない。睨み上げ、咬み付く勢いで叫んだ。
「分かったらこれ外してさっさと帰りやがれ! 悪魔界の王子だろうが、俺にはなんの魅力もないんだよ!」
 ディアが顔色を変えた。一瞬悲しそうな顔をし、そして激昂する。
「言わせておけば調子に乗りやがって。もう、慣らすのなんてやめだ。どうせヤリまくってて緩いんだろ?」
 酷薄そうに笑い、前をくつろげた。性急に擦り上げ、少しだけ濡れたそこにあてがった。熱い肉の感触に、体が竦む。
「っだ、やめろ馬鹿! 嫌だ! ラ、ラズ! ラズ・・・っ!」
 助けるって、護るって言ったじゃねぇか! なんとかしろよ!
「っあ・・・」
 思い出した。思い出した、けど。
「呼んだところで来ないって言っただろ。俺の結界は・・・あれ? ちょ、そこは・・・!」
 喉を鳴らして笑ったかと思うと、ディアは突然焦ったようにベッドから降り、周りを見渡した。そして何かが消失したようなあの感じがしたかと思うと、窓が大きな音を立てて開かれた。
「ラズ!」
「リュー! ディア、お前・・・」
 飛び込んできたラズはディアに掴みかかろうとしたが、後ろから入ってきたもう一人の闖入者をちらりと見て、苦虫を噛み潰したような顔をしてそれを堪えた。
 その美丈夫はラズに一礼すると、何故か怯えているディアの肩を抱いてそこから消えた。黒いもやが散っても、ラズがそれを見ることはなかった。硬い表情で俺の足の拘束を解き、棒を捨てるとじれったくなったのかそのまま抱きついてくる。それに俺も頬を寄せ、目を閉じる。
「もう駄目かと思ったぞ。あいつ、ラズには解けないとか言ってたし」
 言うと、ラズは一瞬だけ体を離した。苦い顔で、斜め下に視線を落とす。
「・・・ヴィエストが、あ、さっきの背高い奴な。あいつが、解いてくれたんだ。ディアの結界にはどうしても薄くなるとこがあるからって」
 バツが悪そうな顔をして、自分でできなかったことを悔いているようだ。なんか可愛くて、つい笑ってしまった。
「来てくれたから、それでいいよ」
 こつんと額をぶつけて、囁く。
「それより、早く手の奴取って。抱き締めてやることも、できないだろ」
 言うと、ラズは首を振ってもう一度俺に抱き付いた。
 やれやれ、と思う。この甘えんぼさんめ。俺はもう、勝手に消えたりしないよ。ちゃんと、帰ってくる。
 自由にならない手を開閉させ、俺はラズが気の済むまで待ってやることにした。





続。