第五話  『花嫁の疾走』


 大分日も高くなった頃、窓を叩く音に目を開けた。
 二回目ともなると、腕の中にいてもさほど驚かない。身をずらすようにそこから抜け、ベッドを降りた。
「なん、だよ・・・」
 眠い目を擦ってカーテンを開け、そこいいたものに目を見開いた。そいつがにかっと笑い、片手を振る。
「っぎゃあああぁぁぁぁ!」
「! なんだ? リュー?!」
 俺の声に飛び起きたラズが、俊敏に俺の傍へ駆け寄り、その背中に隠す。そしてすぐ、なんだと言って溜め息を吐いた。
「・・・なんだ、グウじゃねぇか。入れよ」
 ギィ、と猿よりも何トーンか低い声を上げ、そいつは入ってきた。下げた前足に何か持っている。
「あ、俺の鞄」
 そういえば、家に置きっ放しだった。しかし気付いたところで奪い返す勇気も出ない。それに気付き、ラズは肩を竦めて受け取ってくれた。いつかのイーリ様と同じようにリンゴを渡し、帰ってもらう。
「咬んだりしないから安心しろよ。従順な、いい奴だぜ?」
「で、でもよぉ・・・」
 猿はデカすぎると恐いんだよ。お前のちんこと一緒でな。思って、青褪める。いつか挿れられてしまうのかと思うと、どうしても重い溜め息が落ちる。
 そんな俺の心境など知らないラズは不思議そうな顔をして、鞄を放ってよこした。
「今度はちゃんと許可をもらってから捨てようと思って。リューの両親が連絡してくれたんだ」
「んん・・・」
 とりあえず詰めてきたという荷物だから、本当に必要なものなんて多分ない。とりあえず出した携帯はやはり電源が切れているし、入れてももう連絡を取りたい相手もいない。つまらない生活してたな、と自分のことながら呆れてしまう。
「あのさ、ラズ。コンセントって・・・」
「あるぜ。その窓の横」
 あ、あるんだ。まあ電気が通ってるんだから、当たり前ですよね。
 なんとなくしっくりこないものの、充電器に挿して電源を入れた。ラズは、他の荷物を引っ張り出しては散らかしていた。
 うわ、なんじゃこりゃ。着信が97件に、メールは35通も着ている。誰からだろうと調べようとしたときに、また呼び出し音が鳴り響いた。俺はともかく、ラズが飛び上がってベッドの陰へ隠れた。
「もしも、」
『やっと出た! せのーさんってば、今どこにいるの?』
「あ? 実家だよ、実家。ていうかお前・・・」
『凛だよ! 着いたら連絡するって言っといてしてこないし、電話しても出ないしさぁ!』
 そうだ、凛。坂之上凛。最近まで、俺を囲ってた奴。
 小柄で可愛い奴というイメージは浮かぶが、どうも顔が思い出せない。キンキンと高い声を聞かないように離していたら、恐る恐るといった風にラズが近付いてきた。
「誰?」
「・・・前の、男」
 隠すのもどうかと思って言ったのだが、案の定ラズは憤慨し、携帯に手を伸ばしてきた。その頭を片手で抑えることで止め、また耳に当てる。
『調べさせたらせのーさんの家なくなってるってゆーし、もしかしてもう帰ってこないつもりなんじゃ・・・』
「あー・・・ちょっと込み入っててさ。悪いけど、あ! こらラズ返せ!」
 油断した隙に携帯を奪われた。電話は知っているのか、ちゃんとした持ち方で叫んだ。
「キーキーうるせぇよ! リューはもう俺のなんだ、帰るわけねぇだろ!」
『なっな、誰だよお前! せのーさんは、僕の・・・』
「リューは俺の嫁だ! 文句あるなら直接こっちにきやがれ! 分かったな!」
 言い切るなり、ラズは電源ボタンも押さず携帯を真ん中から真っ二つに折った。あ、と思っている間に床へ叩きつけ、暫くしてから俺のほうを窺う。どうしよう、と目が許しを乞う。
「ごめ、ん。これ壊したら、リュー・・・怒る?」
 その情けなさ全開の顔に、思わず噴き出した。この、直情バカ。
「怒んねぇよ。もう、いらないし」
「でも、まだリューがいいって言ってないのに嫁だとか言っちゃったし、知られたくなかった、だろ?」
「あ? お前、何言っ・・・」
「ラズちゃん!」
 バン! と扉が開き、グラマラス美女もといイーリ様が入ってきた。ラズに飛びついて、その豊満なバストを押し付けている。・・・羨ましい。
 邪まな気持ちで見ていたら、遅れて先生もやってきた。いつものにこにこ顔がいつもより更に嬉しそうなのは、多分気の所為じゃない。
「どうやら、前向きに考えてくれてるみたいだね?」
 やっぱり分かるのか。苦笑いして、イーリ様に撫でられまくるラズを見る。
 昨日の風呂場でのことを、あいつは本気でただの礼として受け取ったらしい。馬鹿が付くくらい単純なくせに、なんでこういった勘は働かないのか。誰が、なんとも思っていない男なんかに向かって足を開くかよ。
 まあ、まだ言わなくてもいいか。また暴走したラズにあれを無理やり突っ込まれるのも困るし、暫くは勘違いさせておこう。
 苦い顔で見ていたら、肩を叩かれた。見ると、先生は床で可哀そうなことになっている携帯を指差した。
「あれ、凄いことになってるけど。・・・どうしたの?」
「えっと・・・まあ、色々ありまして」
 男二人が自分を取り合ってたなんて、どうして言えようか。
 しかし、俺はこのときどんなに恥ずかしかろうと、先生にことの仔細を話しておくべきだったのだ。
 ラズが、何を口走ったのか。
 そうすれば、あんなことは起こらなかったかもしれないのに。


「まーた拗ねてんのか、お前は。凛のことは顔も思い出せないって言ったろ?」
 イーリ様たちが戻ったあと、ラズはカーテンにくるまって唇を尖らせていた。ふう、と溜め息を吐いて、それに近付く。
「ラズ?」
「・・・リンって奴は、最初からそんなに気にしてない」
 言うと、ラズはポケットに手を入れた。そこから出された袋に、一瞬ベッドに目をやった。枕の下に入れといたはずだが、いつの間に。伺うと、ラズはそれには答えず中身を出した。
「これ、何? リューの気持ちがすっかり染み込んでて、いい気分じゃない」
 気持ち? そういやどうやって見つけたんだ? 昨日は匂いとか言ってたけど。
「思念、とかいう奴が、ものには付く。大事にすればするだけそれは色濃く残るから、これは深いとこにあってもすぐ分かったんだ」
 へぇ。便利だな。呑気な俺と違い、ラズは悔しそうな顔をしている。
「リューが泣くから探してきたけど、俺は持ってて欲しくない。それに、これは・・・」
 ラズが口ごもる。もしかして、形が嫌とか? そりゃ、悪魔にクロスは似合わないもんな。うんうん。
 なんて勝手に解釈していたら、ラズは渋々といった感じに袋を返してくれた。それを手の平に置いて少し眺め、ラズの手を引いてベッドに向かう。
「これは、俺が師匠にもらったやつなんだ」
「師匠?」
「パティシエのな。梅田千早さんっていう、俺の目標だった人」
 わざと過去形で言ったことに、ラズも気付いたようだった。そう、千早さんはもういない。それと同時に、俺も修行するのをやめたんだ。
「あの人以外に教わりたくなかったって言えばかっこいいかもしんないけど、まあ・・・ただのワガママ。だからこれは、形見ってことになるのかな」
 若い頃からずっと持っていたというものを、初めてまともな形のものを作れたときのご褒美にくれた。
 その時はそこまでボロくなかったのに、俺が持ち始めてすぐ劣化が始まった。買い換えようかと思ったが、何故かそれをしなかった。千早さんの刻んだ歴史を、捨てたくなかったのかもしれない。
「・・・どうしても嫌なら、お前がどこかに隠してくれても、」
 言い終わる前に袋を奪われ、枕の下に押し込まれた。きょとんとしているうちに頭を抱えられ、そのまま後ろに倒れたラズの胸に顔を預ける形になった。
「ラズ?」
「そこまで、俺の心は狭くない。・・・いつか、俺のがもっと大事なものを作ってやるから覚悟しとけ」
 ガキが強がっちゃって。薄く笑ったが、声には出さず目を閉じた。抱き締められるというのも、悪くない。久々に千早さんのことを思い出せたし、少し甘えさせろ。
 俺が大人しいことに戸惑っているのか、ラズの手がぎこちなく髪を梳いているのが面白い。その手を戯れに掴んでやると、案の定ぎしりと固まった。
「なあ、ラズ」
「な、何」
 話しかけても、声が上滑る。
「何か作ってやろうか? これでも大抵のケーキは作れるようになってるんだぜ?」
 指の関節を挟むようにして弄っていたら、強い力で逃げられた。体を起こして、その赤い顔を覗く。
「何が食べたい? 好きなの、作ってやるよ」
 ラズが目を逸らした。やっぱりガキだな。甘えるのも楽しいが、こうやって甘やかしてやれるのも経験の差かな。
 凄い楽しい気分で頭を撫でていたら、突然その手を掴まれた。あ、と思う間に反転させられ、ベッドに縫い付けられる。スプリングで一回だけ浮き、ラズの真剣な顔に睨まれた。
「どした?」
「・・・ちょっと、ムカつく」
 そう言うと、キスでもするのか顔を近付け、しかしギリギリでとめると数秒固まって体を離した。それを何度か繰り返し、結局背中からベッドに倒れた。苛ついているのか、重そうな溜め息を吐く。
「リューは酷い。俺のこといつも子供扱いして、本気になってくれない」
「そういうわけじゃ・・・」
「俺、今にきっとかっこよくなるよ。背だって高くなるし、だから、もっと真面目に相手してくれよ」
「ラ、」
 言葉を遮るようにベッドから跳ね起き、追おうとした俺に枕を投げた。むすっとしたまま扉に向かい、ノブに手をかける。
「父さんの手伝いしてくる」
「お? おお」
 榊先生は昼間中学で教鞭を振ってるし、イーリ様は城を空けないほうがいいらしい。だから山や村に何か異変があったときは、ラズが偵察に向かうのだ。後継の日も近いし、いい鍛錬になるのだろう。
 いってらっしゃいと手を振っていると、ラズが半開きの扉の前で振り向いた。
「・・・プリン」
「え?」
「好きなの、作ってくれんだろ?」
 早口で言って、ラズはそのまま逃げるように部屋を出た。
 堪えたが、結局我慢できずに噴き出してしまった。やっぱ、ガキじゃねぇか。
 くるりとうつ伏せになり、枕に顔を押し付けてくすくすと笑う。
 将来かっこよくなる、ね。どこから来る自信なのかは知らないが、まあ期待させてもらおうじゃないか。
 ずっと他人のワガママばかり聞いてきた。甘やかすのには慣れているが、甘えるのにはまだ慣れていない。つい、構いたくなる。あいつが、もっと頼り甲斐のある奴ならな。
 枕を抱いて、天井に向き直る。柔らかすぎると思っていたベッドも、今では簡単に俺を眠りに誘うようになった。


 何日かして、流石に何もしないのが苦痛になってきた。いくら仕事しないヒモ生活に慣れていたとはいえ、それでも買い物とか軽い家事をやることはあった。
 相談でもしようかと榊先生の帰宅を待っていた日に、事件は起きた。
 応接間のソファでのんびりしていたとき、いつかのように大きな音を立てて入ってきたラズに拉致された。また逃げるとでも思われているのかと頬を膨らませかけたが、様子のおかしさを感じ黙り込んだ。
 連れて行かれたのは、これまた重い空気を漂わせるイーリ様の自室だった。
「な、何? 二人とも、顔が恐いんだけど・・・」
 イーリ様の部屋は、俺の部屋よりも小さい。というか、ここは自室ではないのかもしれない。やけに照明が暗いし、それに香なのかなんなのか変な甘い匂いがする。
 ラズの肩から降ろされてきょろきょろしている俺の前で、イーリ様は神妙な顔で目を閉じていた。
「ラズ・・・?」
「侵入者だ」
「へ?」
 侵入者だって? どこに。城内か?
 首を傾げていると、おもむろに立ち上がったイーリ様の指が額の中心に当てられた。
 何、と思うより早くラズにされたときと同じような、いや、もっと強い耳鳴りがして、映像が直接頭の中に飛び込んできた。
 空から森の木々へと落ちていくようなイメージ。葉を掻き分けて広げられた空間にいる、あの姿は。
「・・・凛か?」
 声を出した瞬間に映像は消え、ラズに背中を支えられていることに気が付いた。
 どうやらあれをされている間は一種のトランス状態になるらしい。振り向いて何か言おうとしたが、ラズが暗い顔をしていたのでやめた。
「やっぱり、あの電話の?」
「ん? ああ、あと知らないのが二人くらいいたな」
 言うと、イーリ様の美しい眉間に皺が寄った。何、この空気。
「琉太さん、それは恐らくエクソシストでしょう」
 へえ、エクソシスト。俺初めて見るよ。
「エクソシストぉ?」
 それって、まずいんじゃ。思って二人の顔を見、漸くことの重大さに気付けた。
「で、でも。ここの守り魔のことを村の人らは別に隠してないよな? つーことはもう結構知られてるわけで、それをなんで今更・・・」
「宝石だって、見えていてもショーケースの中にあったら取れないだろう?」
「先生!」
 声のしたほうを見ると、息を切らせた先生がはいってくるところだった。
「イーリ様の結界は強力だからね。知っていたところで、ここは入るのはおろか見つけることすら困難なんだ」
「そういえば、入るまでここのこと知らなかった・・・」
 どう考えても下から見えるほどの大きさがありそうなのに。村人だって、訪ねてくる奴はいない。
「じゃあ、なんで凛たちは? まっすぐ向かってるみたいなんだろ?」
「中の人に招かれると、簡単に見えるようになるんだ」
「招く?」
 復唱して、弾けるようにラズを見た。ラズも分かっているのか、目を逸らす。
「過ぎたことはもうどうしようもありません。とにかく、彼らが城内に入ることだけは防ぎます」
 イーリ様はそう言い、虚空に小さな円を描いた。そこが炎のように光り、いつもの猿が現れる。それも、二匹。
「グウ、お願いね。和彦様は私と。二人は早めにここを離れなさい」
「でも父さん、これは俺が・・・」
「妻を護るのは夫の務め。違いますか?」
 いつもはおしとやかで息子に甘いイーリ様の声が、厳しく響く。やっぱり、大変な状況なんだ。
 ラズは苦虫を咬むような顔をして、俺を横抱きにした。窓を開けて、翼を出す。
「ちゃんと掴まってて」
 沈んだ声で言い、窓枠を蹴った。
 二度目とはいえ、重力をなくす感じは慣れそうにもない。ラズの顔も険しいし、星空が奇麗だぜイエイなんて言えない感じだ。
「ラズ、」
「・・・っ! リュ、ごめ・・・!」
 突然唸ったかと思うと、ラズは俺を放り投げた。状況を理解する前に鳥肌が立ち、悲鳴を上げる前に生い茂る枝葉に引っかかった。
 ほっとして、同時にムカっ腹を立ててラズに文句を言ってやろうと振り仰ぐ。いるはずの空に、ラズはいなかった。
「ラズ?」
 バキバキと音がして、ラズが木々にぶつかりながら落ちていくのが見えた。慌てて、俺も枝を伝って下に向かう。
「ラズ!」
「あ、せのーさん」
 子供じみた、少し馬鹿っぽい声。見ると、凛と二人の男がラズの傍に寄るところだった。
「後で助けてあげるから、大人しくしてて。まずはこいつ、殺しちゃうから」
 こつ、と頭を爪先で蹴るのを見て、毛が逆立つ。そいつに、触るな。
「凛、なんでここに? しかも、そいつらは・・・」
「真夜村って、悪魔信仰の危ないとこなんでしょ? パパに相談したら、ずっとここを狙ってる人ってのとコンタクト取ってくれたんだ。凄いでしょ、これを落としたのも二人の力なんだよ」
 その言葉を合図に二人が何かを呟くと、ラズが苦しそうに喘いだ。思わず駆け寄りそうになるのを、凛が取り出したものを見てとめた。
「へへ、いいでしょ。悪魔をなんとか分解する文字の入った弾丸らしいけど、勿論人にも効くからね。邪魔しないでよ、せのーさん」
 こいつに善悪の感情は少ない。自分の邪魔になるか、ならないか。それだけだ。
「やめろ、凛。俺は・・・」
「リューは、俺のだ」
 ラズが動いた。二人の男が明らかに狼狽し、顔を見合わせている。
「俺の嫁なんだ。お前みたいな野郎に、誰が渡すか・・・」
「何それ。嫁って、マジなわけ? ばっかみたい」
 かちり、と撃鉄を動かす音がした。凛の照準が、ラズに向けられる。
「せのーさんはかっこよくて素敵な僕のペットなんだよ。お前になんか、あげないよ」
 何か考えるより先に、足が動いていた。

 銃声というものを、そういえば初めて聞いた。





続。