第四話 『花嫁の誘惑』 夜の風が入る気配に飛び起きると、枕元にあった影が驚いて後ろに下がった。それが逃げようとしたから、急いでその腕を掴む。まだ闇に慣れない目が、最初に紫の光を捉える。 「・・・ラズ」 「あっごめ、起こす気はなくて・・・その、これ」 「何ビビってんだ」 らしくないぞ、と溜め息を吐くと、ラズは急に黙りこくって力を抜いた。だって、と闇の中で口が動く。 「俺がいたら、舌咬んで死んじゃうんだろ・・・?」 漸く見えてきた表情は、まるで叱られた犬のようだ。 高慢だったり、怒ってみたり。ガキみたいに泣くくせに、時々妙に大人びた顔をする。感情がすぐ表れるんだな、と肩を竦めた。 「しねぇよ。しないけど、ちょっと怒ってる」 「え?」 「歯喰いしばりな」 振りかぶり、ラズがぎゅっと目を閉じるのを確認して拳を開いた。そのままゆっくりと下ろし、ビクビクしているラズの頬をぱちりと叩いた。恐る恐る開く目が、俺を窺う。 「・・・リュー?」 「本当はボコボコにしてやりたかったけど、なんかもう汚いからな。許してやるよ」 というか、昨日殴られた理由が分かった。勝手に心配させられると、何故かその相手を殴りたくなる。 わしわしとその埃だらけの頭を撫で、俺は立ち上がった。扉に向かい、こつんと叩いてラズを見る。 「開けな」 ラズの表情が絶望の色に染まった。それに俺は呆れた溜め息を吐き、引きずって扉の前まで来させた。 「今何時だと思ってんだ? 昨日の今日で、逃げようなんて思わねぇよ。風呂、入りたいの」 いくら奇麗にしてもらったとはいえ、やはりお湯を被りたい。浸かりたい。 それに、とラズを指差す。 「お前も汚すぎ。そんなんで俺のベッドに入るつもりか」 「い、いいの?」 「ああ、だから・・・」 早く開けろという意味で扉をノックすると、ラズは下から俺の首に抱きついた。重い。 この期に及んでまだ止める気か、と思ったが、案外すぐに離れたラズは、俺の手を取ってそこに何かを握らせた。 ザラザラした布の質感。小さなポチ袋みたいな。その中でチャラリと動く感触に、はっとした。慌ててそれを開き、中身を手の平に落とす。劣化の酷い、細い鎖のペンダント。トップには、シンプルなクロスがついていた。 「ごめん、リュー。ごみがいっぱいありすぎて、それしか見つからなかった。リューの匂いが一番残ってたのって、それし、かっ?」 思わずその小さな体を抱き締めた。腕の中で、ラズが緊張に息を詰めたのが分かる。 「リュ、リュー?」 「これで、これが、良かったんだ・・・お前は、間違ってないよ」 余りの嬉しさに頬ずりしかけ、そこでラズは弾けたようにその身を離した。勢い余って後ろに飛び、床に尻をつける。その顔は、細い月明かりの中でも分かるくらい赤い。 「何してんだ、お前?」 「おっおっお、お前が! 抱きついたりするからだろ!」 何を今更。てかさっきはお前から・・・ははん。さてはこいつ、押されるのに慣れてないな? これは、ちょっと面白くなっちまったな。 「な、何がおかしい!」 「悪い悪い。ほら、立てよ。風呂に行こう」 差し出した手を、ラズは渋顔で受け入れた。 呪とやらは、えらく簡単に解けた。ラズが手の平をそこに当て、何か呟いたかと思うと、もうそれはなくなっていた。 元々見えていたわけではないが、それでもそこから何かが喪失したのは分かる。どういう仕組みかなんて、きっと何十年かけても分からないんだろう。 「そだ、イーリ様んとこ寄ってこうぜ。お前のこと、かなり心配して・・・」 「父さんには俺が山に入った時点で分かってるよ。母さんには途中で会ってきたし、明日で大丈夫だろ」 「でも、顔くらい見せても・・・」 「夜に両親の寝室に入る勇気が、リューにはあった?」 「・・・ないな」 それを知らない年頃でも、そこに入るのには随分な気力が必要だった。知ってからは、余計嫌だった。 黙りこむと、ラズは勝ち誇ったような笑いを鼻から出した。いつの間にか、普段の態度に戻っている。 ・・・まあ、それはこの際いいとして。 「いい加減、手離してくれないか? 痛い」 「リューは信用ならんから駄目だ。それに、最初に繋いできたのはリューのほうだからな」 俺は起こした後は離すつもりだったんだよ。思ったが、それは言わないでおいた。 どんな探し方をしたんだか、俺のを強く握るその手には、たくさんの細かい傷があった。ガサガサするその中には、深いものもいくつかあるようだ。時折、汗じゃないものでぬるりと滑った。 「着いたぞ」 ゴウン、と扉を開けると、まるでエステルームみたいな部屋が広がっていた。その奥にもう一つ扉があり、あそこが浴室に繋がっているんだと分かる。 さっさと服を脱ぎ、置いてある手触りのいいタオルを取って振り向くと、ラズはまだ服を着たまま複雑な表情をしていた。それに呆れて服を脱がしてやり、引いていく。 「お前、自分で服も脱げないのかよ」 「ち、違う」 「じゃあ手間かけさせんなよな。もう夜中なんだし」 隣りに繋がっていた浴室は、想像以上のものだった。 はめ込み式の浴槽は大きく丸い形をしていて、変な生き物の形をかたどったレリーフからお湯がどぼどぼと出ている。 年甲斐もなく飛び込みたい気分を抑え、かけ湯してやってからラズをそこに浸からせた。傷ついた手は出させたまま、洗い場で先に体を洗う。 「来いよ、洗ってやるから」 「い、いいよ!」 洗い終わってから呼ぶと、ラズは温まってほんのり赤い顔を更に赤くしてお湯から出た。何故か遠回りして俺の横に座り、手にシャンプーをつけようとする。それを慌てて掴んで止め、無理やりお湯をかけた。 「わぷっ。何、すんだよ」 「痛いんだろ? 傷にもよくないだろうし、無理すんなって」 明るいところで改めて見ると、やはりたくさん切れていた。素手なんかでごみを漁るからだ。アルミやガラスでできた傷は、治りにくいんだぞ。 ラズはそれを眺め、やがて大人しく頭を下げた。その頭に、もう一度お湯をかける。 奇麗な闇色の髪は、濡れると紫の光沢を持ち更に美しく見えた。手に取ったシャンプーを馴染ませると、よく泡立つしするするした指通りが気持ちいい。 このシャンプー、ボトルは華美だけど中身は知ってる匂いのような気がする。結構俗に染まってんだな、この城は。 「お客様、痒いところはございませんかーってな」 けたけたと笑ったが、ラズはむすくれたまま無反応を決め込んだ。何を拗ねているのか、さっきからこちらを見ようともしない。 頭を流し背中をスポンジで擦ってやってもそのままで、しかし前を洗ってやろうとしたところで、急に暴れ出した。驚いた俺の隙を突いてスポンジを奪い、すぐに背を向けた。 「自分で、やる」 そう言って握ったが、やはり染みるらしい。ぽとりとスポンジが落ちた。 「ほら見ろ、年長者の言うことは素直に聞くもんだ」 「だから、いいって・・・っ」 何をそんなに、と前に手をやり、はたと気が付いた。この硬くて腕に当たっているものは、もしかして。 動かなくなった俺を振り仰いで、ラズが顔を赤くして怒った。 「リューの所為だからな! 俺の前で、普通に服脱ぎやがって!」 「あ、ああー・・・」 だからさっき変な顔してたのね。純情というか、若いというか。 「だってこんなん、銭湯みたいなもんじゃねぇか。そんなん見て、」 「俺はリューが相手だからこんなになってんだよ! いいから貸せ!」 「でも、治るまではきついだろ」 渡し渋っていると、ラズは歯をギリギリと咬んで顔を背けた。そして何事かをぶつくさと言うが、よく聞こえない。 「あ? なんだって?」 「・・・リューが舐めてくれれば、すぐ治んだよ」 突拍子もない言葉に、目が点になった。ラズは予想していたようで、その間にスポンジを奪う。 「ほら、嫌なんだろ? だからさっさとあったまって、部屋で待ってろ」 「なんだ、じゃあ早く言えよな」 「は?」 よく分からないけど、悪魔ってのは人間の何かを栄養にしてるらしいし。こいつは精力だとか言ってたし、俺がやれば治るってんなら経済的だよな。 正面に回ってスポンジを奪い、横に置いてから泡だらけの手にお湯をかけた。そして洗剤が残っていないことを確認し、その指を口にふくむ。驚いたラズが手を引こうとするのを、強く掴むことで止めた。 「リュー!」 「昨日俺の治してくれただろ。その、お礼」 舌で傷をなぞると、最初は血の味がするもやがてざらりともしなくなる。ささくれが完全になくなったら次の傷へ、と繰り返しているうちに、体の異変に気が付いた。ちらりと上目で窺うと、ラズが妙な顔をしている。 「だから、やめろって・・・」 ああ、なるほどね。色欲の悪魔の血なんか摂取したら、おかしくもなるってか。熱が下半身に集まって疼く感じに、俺は唇の端を上げた。 「っく、ふ・・・」 ぴちゃぴちゃと指を舐めながら、俺は少しずつ前屈みになっていきざるをえなかった。痛いほど熱が集中し、解放したくて堪らなくなる。 「あ、ふ・・・」 片手が終わった辺りで、目で確認しようと口を離したとき、ラズがそれを引いて俯いた。片手で隠してはいるが、こいつも相当ヤバい状態になっているんだろう。 「リュー、もういい。それ以上そんな顔で舐められたら、我慢できなくなる」 頑なに拒んでいた理由はそれか。俺が嫌がることはしたくないって? 今朝の罪滅ぼしのつもりか、悪魔くんよ。 何を言われても俺にやめる気はなく、もう一方の手を掴んで強引に治療した。奇麗に傷がなくなった頃には、俺の体はすっかり出来上がっていて。全身が酷く熱い。特に中心なんて、溶けるようだ。 「は、はぁ・・・」 ぶるりと体が震えた。そんな俺を見て、ラズは必死で自分を抑えているのか。恐らく、触りたい気持ちでいっぱいなのだろう。ちらりと見てはぎゅっと目を閉じる様に、俺は自分の中の嗜虐心がむくむくと膨らむのを感じた。 「なあ、ラズ」 呼んで、ゆっくりと足を開いていく。ラズの紫の瞳が妖しく光り、喉が上下した。 「今のは、昨日の礼。こっからは、ペンダントの礼だよ」 ラズの視線がそこに集中するのが分かる。見られている部分が、ライトを当てられているように熱い。 ぞくりと背筋が震えるのを感じながら、見せ付けるように腰を前に出す。そしてゆっくりと、囁いた。 「どうしたい? お前が、決めな」 唾を飲む音が、俺にも聞こえるようだった。するはずのない匂いが鼻を掠める。若い、牡の匂いだ。 ラズは何度も喉を動かしながら、荒い息を吐いて俺を見ていた。やがて床に手を付くと、ずり、とこちらに寄ってきた。 「抱かせて、くれるの?」 率直な奴め。もういいか。お前の必死さに免じて、負けてやるよ。 「随分と即物的だな。・・・いいよ。お前がしたいな、らっ」 言い切る前に、ラズは体当たりするように俺を倒し、床に押し付けて唇を貪った。 いた、痛い。頭、ごつごついってるから。 肩を叩いて訴えてもラズが気付くわけもなく。諦めて、俺は力を抜いた。こんなに真っ直ぐな欲望を持ってこられるのも、悪くない。 「っは、は、リュ・・・リュー」 何度も俺の名前を呟きながら、キスマークを残しつつ下がっていく。感触で茂みに到達したのを知り、思わず身を硬くした。 「リュー・・・リューの、美味そう。昨日からずっと、喰いたかった」 言うなり、ラズは性急に俺のを口にした。びりびりと電流が走るような、そんな激しさ。思わず、声を上げてしまう。 「んああ! っあ、ラズ、ちょっと待・・・っそんなに、吸ったら・・・!」 目の前で、花火が散ったみたいだ。予想もつかない凄い快感に、俺は腰を浮かせて射精していた。 「はふ、はふ、はぁん・・・っ」 「・・・美味し。もっと、ちょうだい」 「っわ、ちょ、待てっての・・・」 尿道を開きながら残滓を抉り取る舌の攻めに俺が喘ぐ間に、ラズがまた口をつけようとする。こんなにイカされてたら、絶対もたない。慌てて髪を掴んで止めたが、ラズは無視して唇を開いた。 「ひぅ・・・っ」 「気持ちいい?」 「ば・・・っかやろ! 少しくらい、手加減できねぇのかよ! 俺ぁお前の何歳年上だと・・・」 「8くらい?」 ぜいはあと荒い息で訴えたのに、ラズは舌に残った精液を手の平に垂らしながら、生意気そうな顔をした。悪魔の微笑みとでも、言うのか。 「無理だよ。俺がリューに突っ込みたいと思ってから、何年経つと思ってるの。一回や二回じゃ、治まらないよ」 「なんだ、そりゃ・・・ぁ・・・っ」 ぬるぬると自分のものをなすり付けられて、息が詰まる。普通じゃ触られないような場所を擦られる感覚に、内股が震える。 「・・・柔らかい。誰かに触らせたこと、あるの?」 「あるか! 今だって、凄い嫌なのを必死で・・・っ」 吠えると、ムスっとした顔に唇を塞がれた。はいはい、嫌だなんて言ってすいませんね。 唇を離してから、ラズは慎重な手付きでそこに指を挿し込んだ。俺の反応を見逃さないように真剣な顔をして、少しでも痛がる素振りを見せると自分のほうが辛そうな顔をした。 「大丈夫だから、もっと一気に広げちまいな」 「で、でも・・・」 ていうか、慎重すぎてもどかしいんだよ。あ、待って。そこ、気持ちいい。 男に挿れるとき、こんなところで感じるなんてすげーなとか思ってたけど、案外悪くないんだな。ちょっと、はまりそう。 「ん、・・・っん!」 時間ばかりかけて、漸く二本目の指が入ってきた。 しかしこれが色欲の悪魔の本領だろうか。指一本で弄られている間に、すっかり腰が崩れてしまっている。股を大きく広げた情けない格好だが、なんだかもうどうでもいい。 「ラ、ラズ・・・ラズ?」 俺以上に、ラズのほうがおかしかった。息も荒いし、なんか目の色もおかしい。恐い顔で俺を見下ろし、ギンギンになっているものを取り出した。 「え、ちょっと待って、何それ。そんな、デカかったっけ?」 「も、無理。挿れたい。挿れさせて。痛く、ないから」 「いやいやいや! 痛くないわけないだろ! そんなん突っ込まれたら、俺・・・っ」 あれ? なんかこの部屋、湯気多くなった? 「・・・リュー? おい! リュー!」 あ、いつものラズだ。 せっかく正気に戻ったとこ悪いけど、なんかもう俺動けないみたい。悪い、な。 「だから悪かったって。湯あたりしたんだよ」 空が少しずつ明るくなっていく頃、俺はベッドに座りながら、扉に寄りかかって拗ねるラズに謝った。 まさか、お前のちんこが大きすぎて恐くなりましたなんて言えない。想像して、その余りの恐ろしさに失神してしまった。ずっと待っていたらしいラズには悪いが、俺だって自分のケツが惜しい。 寝巻きを着せて俺を運んだラズは、俺の意識がはっきりするのを確認してからあそこに移動した。それから、恨めしそうに俺を見ては逸らすという動きを繰り返し、何も言おうとしない。 「いいからこっち来いって。もう朝になっちまうぞ」 これも何度言ったか分からない。相当へそを曲げてしまったらしい。そりゃ、あの後自分で処理したのかなーと思うと、可哀そうな気もするが。 「なあ、俺はもうここにいるしかないんだろ? だったら、この先いくらでもヤるチャンスはあるじゃねぇか。な?」 そう言うと、漸くラズはその背中を扉から離した。重い足取りだが、近付いてくる。 「あ、待て。その皿も一緒にだ」 方向を少し変えて丸テーブルに行ったラズは、そこにあるものを見て肩を落とした。 「食べて、くれなかったのか」 「だから今食べんだよ。持って来い」 手招くと、ラズは不満そうな顔をして寄ってきた。その手に歪なおにぎりを取ってもらい、口に入れる。表面が軽く乾いていたが、まあ食べられないわけでもない。 「お前も喰え。一人で喰うと不味いだろ」 「・・・一緒に食べたって、美味しくないだろ、こんなの」 「ばっか。美味いよ」 まあ、塩は多かったり少なかったりの場所があるし、握りすぎで米は潰れちまってるけど。 「美味いよ」 もう一度言うと、漸くラズも一つ手にした。ベッドに腰掛けて、むそむそと食べる。 「食べたら寝るぞ。すげ、眠い」 提案に、ラズは頷き一つで答える。 世のエクソシストどもに、見せてやりたいな。お前らが退治せんと意気込んでいる悪魔には、こんな素直な奴もいるんだと。 ほだされている自覚は重々あったが、まあそれもいいか、と俺はもう一つおにぎりと手にした。 続。 |