第三話 『花嫁の葛藤』 寝苦しさに目を開けると、目の前に誰ぞやの胸があった。うわっと後ずさりながらその腕を抜け、勢い余ってベッドから落ちた。胸の主が、ん、と声を漏らす。 「リュー?」 「あ、ラ、ラズ・・・だったか。おは、」 「おはよう。今日も可愛いな」 「んなっ」 上半身を起こして伸びをしながらの言葉に、思わず口がぽかりと開く。俺が、可愛いだと? まあ確かにいいもん喰ってるし外見にも誰かが金かけてくれるから? 肌艶は元より美しいとは思うが。手足は筋張ってるし身長だってお前より10センチくらい上だろうし、どう転んでも可愛い系ではないと思うんだが。ていうか、異性はともかく同性からも、外見についての賛辞は「かっこいい」しか聞いたことないんだけど、俺。 それとも、悪魔ってのは割合悪趣味なのかしら。いや、榊先生はあれでいて顔いいし、イーリ様の趣味が変だとは思えない。 それに、可愛いという褒め言葉はこいつのほうが合ってると思うわけ。紫の目は母・・・もとい、父親に似て大きいし、肌も白くてそれがとろりと黒い髪となんともいいバランスを保っている。まあ意外に力持ちなのを覗けば、充分女の子たちにもてはやされるタイプだろうに。 そんなことを勝手に考えながら眺めていると、寝起きは悪いのか、不機嫌そうな顔で俺を見た。 「なんだよ。足、まだ痛むのか?」 「あ、いや・・・」 そういや昨日、治療だとかこつけて、いや、実際したからかこつけてたわけではないんだけど、ともかく随分と屈辱的なことをされたような。思い出して、そして服を着ていることに首を傾げる。いつ、着たっけか。それになんか、風呂に入ってないことからくる気持ち悪さもない。 「これ・・・」 「母さんの服を借りた。着せたのは俺だけどな」 ベッドから降り、吊り下げ式のカーテンを引きながら淡々と言う。着せたって、お前が? そんな顔をしていると、ラズは朝陽を背にふんぞり返った。 「何か文句でもあるのか? 性行為の後始末をするのは、夫の務めだ」 「夫って・・・」 もうなんでもいいです。昨夜はさっさと逃げたくて堪らなかったけど、よく考えればここのほうが楽できそうだし。というか、朝はなるべく考え事したくないんだよね。 「つうか、悪魔のくせに朝早いんだな」 「リューは悪魔に対して偏見を持ち過ぎだ。・・・まあ、俺と父さんは確かに他の奴らよりは早いだろうけど」 あ、やっぱ偏見なんだ。でも悪魔って夜中に行動しそうじゃん。 「護るべき対象とサイクルを合わせたほうが、何かと便利だからな」 「護る? あ、真夜村の人らか。確かに問題があったとき寝てたら意味ねーわな」 手を叩くと、いつまでそこにいるんだとばかりに床から起こされた。 「それもそうだけど、俺が主に護りたいのはお前だからな、リュー」 そんな痒いことを言い、俺の腕を撫でた。くすぐったいが、その顰められた眉に何を考えているのかが知れ、俺は黙った。恐らく、昨日の怪我を反芻しているのだ。 ラズの手が俺の肌をさすり、溜め息を吐いて唇に寄せた。震えるそれが動くことで、ほんの僅かにだが皮膚を掠める。 「心臓が、止まるかと思った」 んな大袈裟な。 そう言いかけて、やはり何も言えなかった。昨日の冷たい指で、その心情はよく分かったから。 「あ、ま、とにかく! 俺にも一応生活あるし、嫁云々を決めたとしても一旦帰ろうかと・・・」 ていうのは口実で、向こうに戻ったらまた雲隠れするつもりなんだけどさ。 自分でも空々しいと感じる笑いにラズがどう思ったのかは知らないが、口に寄せた手を繋いだまま下げると、少し苦しそうに首を振った。 「それはできない」 「なんで? ちゃんと帰ってくるって」 嘘だけど。 「逃げてもすぐ分かるから、そんなことは気にしてない。そうじゃなくて、リューに帰る場所はもうないんだ」 「・・・なんだって?」 おちゃらけた思考も一発で消えるような、そんなことを言わなかったか。目を丸くして固まる俺を、宝石みたいな瞳が映す。 「リューの家は昨日のうちに使いを出して解約させた。戻ったところで、あそこにはもう何もない」 「何もって、お前・・・」 「全部捨てさせた。リューは俺の嫁になるんだから、他に意識を移されたら困る」 それが当然、そうするのが常套だという口調に、俺は瞬間的に怒っていた。何かを考える前に手を振り上げ、ラズの横っ面を殴る。その細い体が横に傾ぎ、俺を睨んだ。 「って・・・リュー、何す」 「それはこっちの台詞だ! お前にそんなことする権利、ないだろう!」 少し切れたのか、血を拭いながらラズが俺の前に立ち直る。そして紫の瞳で、俺を射抜く。 「あるよ。なんたって俺はお前の夫なんだから」 「それだって俺は了承した覚えもする気もねぇよ!」 叫んで、踵を返した。あの辺ごみ収集って、何曜日だったっけ。 気の急いている俺がドアノブに手を伸ばし、動かしたとき。 目の前の扉は、ぎしりともしなかった。 「・・・は? なんだ、これ。なんでこれ、開かねんだよ!」 開くと思って進んでいた体がぶつかっても、その扉は少しも動かず。それどころか、押しても引いてもなんの反応も見せなかった。まるで分厚い壁についた、ドアノブの形をしたフェイクを掴んでいるような。 「なん、ラズ! ラズ、お前か? お前、開けられるんだろ? 開けろ!」 振り向くと、絶対近くまで来ているだろうと思っていた姿はまださっきの場所にいて。開かないのは初めから知っていたという顔に、血が昇った。 狂ったように扉を叩き、喚くと、ラズは無表情のまま歩み寄り、赤く腫れかけた俺の手を止めた。そして溜め息を一つ吐き、ドアノブに手をかける。 「ほら」 壁のようだった扉はやはり扉で、開かれた空間に俺は足を踏み出した。そしてまた、何かに進行を阻まれた。尻餅をつき、は、とそこを見上げる。 「何、これ。なんで俺は、ここから進めないんだ・・・」 膝を付き、廊下に手を伸ばす。テレビで見たパフォーマーのように、俺は空を撫でた。奴らと違うのは、そこには本物の壁があるってことだけだ。 「なんで、なんで・・・!」 再び叩こうとした俺の腕を掴み、肩を抱くとそのまま後ろに引き寄せた。 「いくら叩いても無駄だよ。夜のうちにかけた呪は、何をしようとリューをここに留めてくれる」 「な・・・に言っ」 「自業自得。人間の言葉だよね?」 聞き終わる前に、俺はその体を突き飛ばしていた。見えない壁に体ごと当たり、爪を立てる。 「やめなよ。無理なことをすると、リューの身が壊れる。それに、解けるのは俺だけだから父さんに頼んでも・・・」 「じゃあお前が解けよ! 俺をここから出せ!」 「それはできない」 「ふざけんな!」 怒号に、ラズは怒っているような悲しんでいるような複雑な顔をした。 「何をそんなに必死になってるんだ? あそこにあったものが欲しいなら、同じものをもう一度・・・」 「同じものなんてねぇよ!」 服とか、靴とか。あんな周りの奴らが俺を飾り立てるためだけに用意したものになんて、俺だって執着してない。 でも、あれは。あれはもう、二度と手に入らないものだ。いや、手に入る入らないの次元ですらないのに。 壁を再度叩き、びくともしないことに俺が漸く諦めて座り込むと、ラズは俺を抱き上げた。ベッドまで運び座らせると、自分は床に膝まずいて俺の顔を覗き込んだ。 「な、もう分かっただろ? 諦めて、ここで俺の・・・」 「断る。死んでもごめんだ」 重い言葉に、ラズがぴたりと口を噤んだ。 「普通のガキに見えたって、少しばかり可愛くたって、やっぱてめぇは悪魔だよ。結婚はおろか、もう顔も見せるな」 ラズの目が丸くなった。何、驚いてんだ。男が泣くのが、そんなに珍しいか。 「出て行け。俺が出られないなら、お前が出ろ。それも駄目だってんなら、俺は舌を咬んでここで死ぬ」 「リュ・・・!」 「早くしろ」 はらはらと流れる涙に負けたのか、それともそれだけ俺の声に本気の色が混ざっていたのか。 意外にもラズは妙な表情をしただけで、黙って部屋を出た。扉を閉める間際に俺を見て、目尻を下げる。 「・・・朝食、何か運ばせるから」 「いらねぇよ」 ぐいぐいと目を擦り、出て行くラズを見ないようベッドに倒れ込んだ。毛布を被った所為で曖昧になる聴覚に、扉の閉まる音が届く。 しん、と静まり返った部屋に、俺の鼻をすする音だけがしていた。 「千早さん・・・」 助けて、千早さん。もうこんなところ、いたくないのに。 昔も今も、俺が信じられるのはあんただけなのに。 毛布の端をぎゅっと掴んで、俺は年甲斐もなく泣き続けた。止めたくても、止まらないんだから仕方ない。心身共に、疲労がピークに達していたのだろう。 ラズが出て行ってからすぐと、あと多分昼頃。女の子の声と一緒にカートで飯が運ばれてきたが、俺は顔を出すことさえしなかった。もう、何をするのも億劫だった。 またバス停に立っている。 夢の色は何故ああも曖昧なんだろう。灰色の部分が多いけれど、時々ぼんやりと色が付くこともある。今回も、バス停の横の草むらは所々緑色だった。 「お前、誰よ」 泣き声の主は、いつの間にか横に立っていた。まだ小さい、小学生くらいのガキ。 「泣いたって、俺は何もしてやんねぇからな」 ガキは更に泣いた。うるさい、うるさい。殴ってやろうかと拳を握り、大人げないと思い直して我慢する。何度かそれを繰り返しているうちに、ガキは突然泣き止んだ。不信に思った俺が横に目を向けたとき、ガキの目は真っ直ぐに俺を見ていた。 「な・・・んだよ」 「お前、もしかして」 「ガキにお前と呼ばれる筋合いはねぇぞ」 イラっとして、俺は前に向き直った。全く、なんだってんだ。 そしてガキが何かを訴える声が次第に遠くなり、俺はゆっくりと目を開けた。 「・・・先生?」 「あ、起きた? これ、ラズくんが」 潜っていた毛布から顔を出し、差し出された皿を見て首を傾げた。歪な形の、大小様々なおにぎりたち。 「頼むから、何か食べてくれって」 「・・・いらない」 あいつの作ったものなんて、食べたくない。 事情は聞いているのか、先生は珍しく無理強いはせずそれをベッドから少し離れた位置にある机に置いた。ついでにそこの椅子を運び、ベッドの横で腰掛けた。 「でも、一昨日から何も食べてないんでしょ? いい加減体が持たないんじゃ・・・」 「先生は、平気だった?」 言葉を遮って、俺はベッドの縁に腰掛ける。俯いて、組んだ指を見つめた。 「悪魔と、結婚なんて。こんなの、全然現実的じゃない」 俺は、帰りたいんだ。 小さく呟くと、先生は俺の手に自分の手を重ねた。そして少し揺すって、顔を上げさせる。 「瀬能くんの現実って、何?」 「え・・・」 「都会で女の子と遊ぶこと? お酒飲んで、セックスして、仕事して?」 微笑んだ顔に問われ、答えに窮した。仕事なんて、ここ何年もしてない。ずっと、金のある女か男に寄生するようにしていきてきた。 「そういう、意味じゃなくて・・・」 「同じだよ。僕には、いや、この村にはイーリさんもラズくんも現実なんだ。君がこの村を出てしてきたことと変わりないよ」 「でも、」 反論の声を上げたが、後に続く言葉が見つからない。空気を食み、気まずさに目を逸らす様を見て、先生が頷く。 「確かに、勝手にこんなことに巻き込まれた瀬能くんは気の毒だと思うよ」 そう言って、先生は視線を動かした。釣られて見た先には、さっきのへたくそなおにぎりが。 「でも、ラズくんは本気で君の事を好きなんだよ」 手を離して、先生は窓の外を見た。 「昨日、ラズくんが飛び出さなくても、イーリさんの見る力を使えば君は簡単に見つかったんだ。それなのに、ラズくんってばいないと知るなり翼を出しちゃってね」 眉を下げて困ったような顔をしているが、その口調には息子の成長を喜ぶ親の気持ちも含まれていた。聞きながら、俺はなんともむず痒い気分になる。 ラズが俺のことを心配してくれていたのは、痛いほど分かる。というか、殴られたから実際痛かったし。 手の平が当たった頬に触れ、昨日のラズを思い出す。服のあちこちに、小さなほつれがあった。俺を捜して、どれだけの木々を通り抜けたのか。 頬を押さえたまま物思いに耽っていた俺を見て、先生は楽しそうにしている。 「あの子は、君を大切にするよ。だからもう少し、前向きに考えて欲しいんだけどな」 「・・・やっぱり教え子よりあいつの味方なんだ?」 苦笑しながら言うと、可愛い一人息子だから、と先生は笑った。それは、幸せそうな笑顔で。 分かっている。自惚れではなく、ラズが俺を心底好いてることくらい。しかし、そう簡単に受け入れられるものでもないじゃないか。そんなことも、あいつは分からないのか。 俺の考えを見透かすように、先生はくすくすと笑った。 「結婚は一人でするものじゃないのにね」 二人で同時に笑い、とにかくラズを呼びますかと切り出そうとしたとき、ドアが勢いよく開かれた。二日振りに見る、イーリ様だった。 「・・・っか、和彦様!」 「イーリさん? 一体どうし・・・」 「ラズが、ラズちゃんが、いないの!」 わっと泣き出し、駆け寄った先生の胸に縋りついた。俺も遅れて傍に行き、何もできず立ち尽くす。 「ラズくんがいないって、どういうこと?」 「山に、村にいないの! どこにも、見えない!」 泣き崩れるイーリ様に俺はただおろおろして、榊先生の顔を見た。先生は今思い出したように俺を見、眉を寄せた。 「さっき見る力、と言っただろう? それは真夜村を含むこの山林一帯だけで、そこを出てしまったらしい。それに、そこを出るとラズくんの力も弱まる」 「それって・・・そんなに取り乱すようなことなんですか?」 俺の間抜けな質問に、先生は真剣な顔で頷いた。 「馴染みはないだろうけど、エクソシストってのは、結構いるんだよ。この村が特殊なのは、分かっているだろ?」 「あ・・・」 そうか。変だ変だとは思っていても、守り魔ということに対しての抵抗は余りない。小学生の頃から、魔棚は俺にとっても日常だったから。 注意していないと忘れてしまう。悪魔は、本来忌避される存在なのだと。 そりゃあイーリ様が半狂乱になるのも仕方ない。大事な息子の、危機なんだし。 「少し前にも一度あって・・・そのときは村のはずれですぐに見つけたんだけど、今回はどこに」 榊先生が歯噛みし、イーリ様を気遣いながら立たせた。支えながら扉を開け、俺を振り向く。 「イーリさんはここから出られないから、僕が捜しに行く。瀬能くんはここにいて」 「あ、はい」 言われなくても、俺はここから出られない。俺は椅子を戻して、そのままそこに腰掛け頬杖を付いた。俺に食べてもらえなかったおにぎりが、布巾の下で寂しそうにしている。 それを一生懸命に作る姿を想像して、苦笑する。この出来栄えじゃ、初めてだったんだろう。おぼっちゃまが、慣れないことしやがって。 食べようかと手を伸ばして、やめた。ベッドに戻り、そこに身を投げる。 俺がヒステリーを起こして放った言葉を、ワガママそうなあいつは律儀に守っているらしい。わざわざ先生に運ばせたのが、その証拠だ。 そこで、はっと思う。体を起こして、扉を見た。 「まさかあいつ、あれを取りに・・・?」 俺が、馬鹿みたいに騒いだから。 「何、考えてんだよ」 悪魔のくせに。俺のこと監禁するような真似までする、非情な奴のくせに。 膝に両手を置いて、項垂れる。これじゃあ本当に、どっちが悪魔だか分かりゃしねぇ。 「早く、帰って来いよ」 じゃないと風呂に入れないじゃないか。 心中で毒づいたその言葉が本心じゃないことくらい、自分が一番分かっていた。 続。 |