第二話  『花嫁の脱走』


 俺はまたバスを待っている。
 しかし、これが夢であることになんとなく気付いていた。何故なら、今は夏の筈だというのに降り注ぐ日光は穏やかな春のものにしか感じられないからだ。これは、俺の記憶の夢だ。
 そこまで思ったとき、またガキの声がした。わんわんと泣くガキの声。うるさくて、逆にどこから聞こえているのか分からない。
 マジ、うるさい。俺はガキなんか嫌いだし、その泣き声はもっと嫌いなんだ。俺の夢なら、俺の都合いいように動いてくれ。
「・・・く、な」
「なんだ? 起きたのか?」
 自分の声で意識が眠りから引き戻され、別の声の参入で完全に覚醒した。紫の目が、俺を覗いている。
「疲れてたのか? ほぼ丸一日寝てたぞ、リュー」
「・・・気安く呼ぶな」
 ベッドで寝る俺の隣りにいるそいつを手でどかし、額を押さえながら体を起こす。
 結局昨日は夜中を大分過ぎるまで先生と話し、空が白む頃に俺がダウンした。カーテン越しの外の様子だと、今は六時くらいか。確かに、寝すぎだ。
 しかし寝ていないとやってられない気分なのも分かって欲しい。なんでも、俺が花嫁になることはこいつの一存で決まったらしい。次期守り魔であるこいつの言葉は絶対で、しかも花嫁となることは村の連中にとっては名誉この上ないことらしい。だから、あいつらは俺を崇めたり両親は誇らしげにしたりしていたのだ。本人の意思なんて、全く汲んでいない。
「・・・い、おい。リューってば。聞けよ」
「うるせえなぁ。大体お前なんで俺の名前知ってんだ?」
 言うと、そいつは少し怒ったような顔をした。
「本当に覚えてないんだな。まあ、そう思ったからお前を花嫁として迎え入れたんだけどさ」
「そう、それだよ。人の都合も考えないで何勝手に・・・なあぁ?!」
 な、なんで俺全裸なんだよ! あ、でも下は履いてるから半裸か。ふぅやれやれ驚いたじゃなくて!
 半裸でも全裸でも、脱がされたってことじゃねぇか! って胸のこれ、この赤いのはもしや・・・!
「キスマ、」
「セックスするんだ、付けたって構わないだろ」
「構うわ! つーかなんで俺がお前と・・・っ」
「お前は俺の嫁なんだから、跡継ぎを作るのは当たり前だろう」
「・・・は?」
 あ。なんか嫌なこと思い出しそう。そうだ、こいつも先生の腹から産まれたんだっけ。嫁に選ばれたからには、この俺も。
「馬鹿言うなよ。どうやって男が子供を産むってんだ」
「別に人間のように産む訳じゃない。俺の精力を注いで、お前の中で成熟した魂を取り出すだけだ」
「魂? 腹を割って?」
「違う。どうせそのときが来たら分かるんだ、とにかくヤらせろ」
 そう言って近付けてきた顔を、俺は腕を伸ばして離した。指の間から見えた目が、恨めしそうに俺を睨む。
「なんのつもりだよ」
「それはこっちの台詞だ。俺はお前と結婚する気も、その未熟なちんこを入れられるつもりもない」
 俺の言い分にガキが目を丸くした隙に、俺はベッドを降りてそこに捨てられていた服を手に取った。それに腕を通そうとしたところで、ガキの手が俺を掴む。
「勝手なことをするな。ここに来た時点で、お前は俺のなんだから」
「勝手なことを言ってるのはどっちだよ。悪いけど、他を当たっ・・・」
 ヒイン、とまた耳鳴りがした。あ、と思う間に全身が硬直し、前倒しになったところをガキに支えられた。腕にしか通せなかった服をまた剥がれ、ベッドに投げられる。
「てめ・・・」
 指一本動かせない状況に舌打ちする。ガキが紫の目で冷たく見下ろし、俺の腹に乗る。
「リューが何を言おうと関係ない。この村に生まれた時点で、全員が俺のものになるんだから」
 なんだそれは。言おうとした俺の胸の中心にある突起を、その細い指が抓り上げた。びくりとして、その痛みに顔が歪む。
「痛い? でも俺、怒ったから。優しくなんてしてやらない」
 言いながら、指はそこをぎりぎりと引っ張り、鎖骨に咬み付いてきた。しっかりと歯形の残る、そんな力の入れように瞼をきつく閉じる。
 なんだこれは。俺が一体、何をした。
 そりゃ、修行も中途半端にやめて定職にも就かなかったし、金をくれるなら男女構わず抱くような酷い生き方をしてきたよ。
 でも、こんなのはないだろう。いきなり悪魔の花嫁になれだなんて、はいそうですかと頷ける奴がどこにいる。それを拒むのが、そんなに悪いことなのか。
「静かだね。泣いてんの?」
「誰が・・・」
 言われて、手を目にやる。ほら見ろ、濡れてなんか、あ、動く。
「・・・っどけ!」
「うわっ」
 頭突きを喰らわすと、ガキは驚いて腰を上げた。その無防備になった腹に容赦なく蹴りを入れれば、その細い体は簡単に後ろへ飛んだ。
 急いでベッドを降り、服を拾って扉へ走る。そうだ、さっさと出て行けばよかったんだ。先生が説明してくれるからって、聞く必要なんてなかった。
「ごほ、リュー・・・」
 ちらりと見ると、ガキは苦しそうに床に手を付いていた。構うものか。悪魔なんだし、それくらいじゃ死なないだろ。
 無視してドアノブに手をかけたとき、ガキは妙なことを言った。
「村を潰すよ」
 振り向いて、目だけは直視しないようその顔を見る。
「潰す?」
「今は父さんの力だけど、俺が来年十八になれば次は俺の力が村の存続を決める。リューが俺のものにならないなら、受け継いだその日に潰してやる」
 それで勝ったつもりなのか、ガキは誇らしげに笑った。しかし俺も、負けじと馬鹿にした笑いを返す。
「好きにしたらいいさ」
「え?」
 ガキの顔が狼狽する。想定もしてなかったのだろう、ぱちくりさせた目が少し泳いだ。
「俺からしてみれば十年も前に捨てた村だ。村の奴らには悪いけど、来年までに出て行くことを言ってやればいいだけだ。俺には関係ないしな」
「な・・・っ」
「じゃあな。いい嫁さん見つけろよ」
 ドアノブを動かして、扉を開ける。あいつの慌てた顔。これじゃあ、どっちが悪魔なんだか分からないな。
 はは、と笑いかけたところで後ろから腰に衝撃を喰らった。体当たりでも受けたのか、弾みで膝から崩れる。
「ぅおっ? ちょ、おま・・・」
「嫌だ! やっと帰ってきたのに、またここを離れるのか! 約束、しただろ・・・!」
 約束? 一体なんのことだ。約束も何も、お前と会ったのは昨日が初めてだろうが。
「ずっと、待ってたんだぞ・・・! リューじゃなきゃ、俺は嫌だ! 城だって継ぎたくない!」
 んなワガママな。腰に縋り付いて泣くそいつを首を捻って見下ろし、溜め息を吐いた。
 本当に面倒臭い。さっきまで生意気に優位をアピールしていたくせに、思い通りにいかないと知るとすぐにこれだ。だからガキってのは嫌いなんだ。
「・・・おい、おいって。顔上げろ」
 手をかけて揺さぶると、そいつは意外にも素直に顔を上げた。そしてしがみ付いていた腰から手を離し、しかし片手だけは服の裾を掴んだまま瞼をごしごしと擦った。
 俺も向き直り、その頬に残る涙を拭ってやる。
「泣くな、ガキ。泣いたって俺は結婚しないからな」
「ガキじゃない、ラズだ」
「はいはい、ラズね。ラズ=ディラウト」
 ぐずぐずと鼻を鳴らすラズを呆れ顔で見ながら、こういうところはそこらの高校生となんら変わらない、などと思う。
 目の色は紫だし突拍子もないことを真顔で言ったりするが、泣いたり拗ねたりするところはガキと一緒だ。顔も奇麗なほうだし、城を継ぐってんなら将来も安泰だろう。そんな好物件が、なんで俺なんか。
「なあ、ラズ。とりあえず今日は風呂入って寝ようぜ。よく考えたら、昨日も入れてないんだ」
「・・・じゃあ、入れるよう言ってくる。リューは、ここにいて」
「分かった」
 すっかりガキにしか見えなくなったラズは、泣いたのが恥ずかしいのか俯きがちに部屋を出た。
「いってらっしゃい」
 待ちは、しないけどな。
 足音が完全に消えるのを待ち、俺は静かに扉を開けた。誰もいないことを確認し、その長い廊下を進む。
 城が靴を履いたまま入れる場所でよかった。部屋の隅にあったそれを履いて、なんとか出口を見つける。
 夏とはいえ、森の夜は早い。鳥や虫の声に少し怯んだが、もうあの猿以上に恐いものは出てこないだろう。思い出して一人で肩を震わせ、草を踏んだ。
「じゃあな、バカガキ。イーリ様と榊先生も」
 月と星の光だけを頼りに、俺は村に向かって足を進めた。


 結果だけ言うなら、この逃走劇は明らかに失敗だった。
 木々の隙間から見える高い位置にある夜空を眺めながら、そんなことを思う。まさか、崖から落ちるとは。
「あってててて・・・」
 おまけに足首まで捻挫してやがる。所々擦り傷もあるし、全くついていない。この村に来てから、ろくなことがなさ過ぎる。
 まだそう城から離れてはいない。もしかしたら俺がいないことに気付いたラズが助けにきてくれるかもしれない。
 そう考えて、余りの身勝手さに苦笑する。どう見たって、自業自得だ。
「・・・っ!」
 鳥でもいたのか、頭上を何かが飛ぶ音に情けないくらい跳ね上がった。心臓の鼓動がうるさいくらいで、その後不意に訪れた静寂の中でそれは余計不安を煽る。
「参ったな」
 草の上で身を縮め、目を閉じた。
 こんな年になって、夜の森が恐いなんて。震える肩を、ぎゅっと抱き締める。
 こうなると知っていたら、大人しくあいつを待って風呂に入ってしまえばよかった。そしてぐっすり寝て、朝になってから改めて交渉するなりなんなりすればよかったんだ。
 いや、そもそもここに来るべきじゃなかったのかもしれない。親父の手紙なんか無視して、あのまま一生ヒモとして暮らしていれば。俺には、所詮そんな生活のほうが合ってたんだ。
 早く帰りたい。空っぽでも、まだ楽だったあそこへ。
「千早さん・・・」
 思わず懐かしい名前を呟いたとき、頭上でデカい羽音がした。はっとして顔を上げると、そこには夜の闇を背負ったラズの姿が。
「・・・リュー」
「ラ、ズ」
 舞うように降りたその背中には、あの猿にも生えていた蝙蝠のそれのような大きな翼あった。しかし、猿のより一段と大きく色も濃いそれは、何故か美しいもののように見えた。
「ラズ、お前・・・」
 さく、と草を踏み、ラズは俺を立たせようと手を引いた。しかし痛みで立てないのを知るや、突然手を振り上げて引っぱたいた。痛いより、熱い。
 一瞬呆けて、怒ろうとした俺の口を手の平で押さえる。
「少し、黙れ」
 紫の瞳は光らず、そして耳鳴りもしない。それでも俺はその言葉と目の強さに負け、口を噤んだ。
 黙った俺に頷き、ラズは抱き上げるとそのまま地面を蹴った。同時に重力の鎖は簡単に切れ、体がふわりと宙に浮く。
「う、わっ」
 いきなりのことに思わずラズの首にしがみ付き、目を閉じた。
 あれ、こいつの心臓、すげー速い。それでいて、俺を抱く手は凍えるほど冷たくて。
 薄目を開けて顔を盗み見ると、こいつは今にも泣きそうな表情をしていた。俺が突然いなくなったから、心配したのか。緊張で手が冷えてしまうほど、恐がらせたのか。
 そんな自惚れたことを考えながら、胸中でひっそりと謝った。


「あ、瀬能くん! 大丈夫だった?」
「榊先生」
 やっぱ普通のパジャマ着るんだ。城の中でその服装は変というか、しかしイーリ様もこいつも案外普通の格好してるよな。
「平気です。すんません、夜中に」
「この辺は城の力で獣が近付いてこないんだけど、それでも夜は危ないからね。ラズくんが慌てて出て行ったから、」
「母さん」
 先生の言葉を遮る声には、まだ怒気が含まれていた。先生もそれを敏感に察し、口を閉じてラズを見る。
「どいて。こいつ怪我してるから」
 言うなりラズは先生の横を通り抜け、ずんずんと廊下を進んでいった。肩越しに見る先生が、心配そうに俺を見送る。
 さっきの部屋に戻り、ラズはまた俺をベッドに降ろした。そして服を脱がしていき、俺は黙ってそれを見ていた。
「・・・抵抗しないんだ?」
 それでも黙っていると、ラズは手の擦り傷に唇を寄せながら口角を上げた。
「一応は、悪いとか思ってんだ?」
 そして一舐め二舐めすると、驚くことに傷は跡形もなく消えた。目を丸くする俺をちらりと見て、他の傷の手当を再会する。
「悪魔の舌には魔力があるからな。怪我の治癒だって可能なんだ。・・・俺は、あんたにしか使わないけど」
 ちゅ、ちゅっと舐めていく行為は、愛撫にも似ている。その所為なのか、さっきからなんだか妙な気分だ。顔の傷を舐められたときは、思わず肩が揺れた。
「感じてる? だろうね、俺は色欲を司るから」
「色欲?」
「そう。人間とエロいことして、その精力をいただくんだ」
 言いながら下を脱がしにかかり、ラズは半勃ちになっている俺のものを見て薄く笑った。
「嫌いな相手でも、勃つんだ?」
「うるせぇ! これは、お前が・・・っ」
「そうだよ。これは俺が色欲の悪魔な所為。だから気にしないで、感じてて」
 足の怪我を気遣いながら服を抜き取り、ラズはその足首に口付けた。舐められ、吸われる感じが堪らない。ぞくぞくっと吸われるたびに痛みが抜けていく感触が快感に摩り替わり、体が震えた。
「っあ、てめ・・・」
 ラズの手が性器に伸びる。窮屈な布をずらし、握り込む。
「・・・もう足、痛くないよな?」
「痛くない、けどっ・・・」
 唇を離したラズが、俺の顔を見ようとして体の位置を変えた。その間も手は性器をいじくり続け、拙いとしか思えないのに俺は簡単に追い詰められていく。
「っふ、ぅ、む・・・っ」
 片手で顔を覆い隠し、もう一方でラズの肩を掴んで押した。しかし触れられた部分から波紋のように快感が広がって、力を上手く入れることができない。
 くそ、これが色欲の悪魔の実力ってか。色々な女や男に触れさせてきたけど、こんな、触れただけで痺れるようになるのは、初めてだ。
「ふぅ、んんん・・・!」
 最後の意地で声を出すのだけは抑えたが、性器が白いものを吐くのは止められなかった。シャツを掴んでいた手が痺れて落ち、俺は肩で息をする。
 ペチャ、と音がするから何かと思って見ると、あろうことかラズは俺が出したものを赤い舌で舐めてやがった。目を見開く俺の前で、ラズが淫妖に笑う。
「甘い」
 んな訳あるか。
 突っ込んでやりたかったが、山をうろついたのと今の射精とで、どっと疲れがきた。ずれたパンツ一枚という格好は気になったが、もういいやと思って目を閉じる。
 朝になったら、絶対出ていってやる。
 そう思いながら眠りに引き込まれようとする俺の髪を、ラズが愛おしそうに撫でているのを感じた。





続。