『その煩悩を僕は落とせない』


 染谷がどうしても「二年参り」をしたいというので待ち合わせたのに、約束の時間になっても全く現れる気配がなかった。
 参拝客は次々に増え始め、門の横で待ちぼうけする俺は、なんともいたたまれない気分でそこにいなければならず。手袋をし損ねた指先はポケットの中ですっかりかじかんでいるし、爪先からもそろそろ感覚がなくなりそうだ。白く濁った溜め息を吐いて、俺は思わず握り込んでいた携帯電話をポケットから取り出した。
 時刻は23時半を過ぎようかという頃。もう30分も経ったので、染谷は恐らく来ないだろう。寝ているか、どこかで遊んでいて時計を見ていないか。もしかしたら忘れているのかもしれないなと思い、それだけは若干ムカつくななんて眉を寄せてから、俺は門の前を後にした。
 染谷礼二郎は、名前に「礼」なんて入っているくせに、本人は礼節のれの字も知らないような失礼極まりない男だ。約束を忘れるなんて当たり前、人に借りたものはなかなか返さない、加えて女癖も悪いという、なんとも人間のクズのような存在。
 それでも俺なんかより余程友人知人が多いのは、その人格のなせる業か。無駄に暑苦しいところ以外は、面倒見もいいし人当たりも良い。誰かを怒りはするも嫌いになることなんて一切なく、人から倦厭されるような仕事は率先してやった。それも、見返りを求めようなんて意志は全く持たずに。
 そんなだからか、奴の周りには基本的に人が集まる。後輩からは慕われ、女からはモテ。染谷について本気の悪口を言っている人間を、俺は今まで見たことがない。
 いや、それは嘘だ。唯一、一人だけ知っている。それが俺、吉井秀人だからだ。
 俺の名前は「ひでと」と読むのだが、あろうことか染谷は初対面の俺に向かって「お前サッカーしてんの? それシュートって読むんだろ?」と最悪のジョークをかましてみせた。それに対して俺は低く、ただ一言返しただけなのだが、何故か染谷の琴線に触れたらしい。
 以来染谷はしつこいくらい俺に話しかけ、もう無視するのも面倒だからということで友人のような関係を始めたところ、いつの間にか結構親しい間柄になってしまった。というより、元々俺に友達と呼べる人間が少ない所為でもあった。大体の時間を一人で過ごす俺は、自然染谷といる場面ばかりを目撃される。加えて染谷も俺のことを友達だ親友だなどと触れ回っているようで、不本意ながら俺と染谷の凸凹コンビは学内でもまあまあ有名になってしまった。そりゃ、性格も趣味も違いそうな二人が仲良かったら、周りは不思議に思うだろう。
 そう、俺と染谷には共通点と呼べるものが殆どといっていいほどない。俺は人と遊びに行くなら映画か読書を選ぶし、染谷と違って女遊びもしない。いや、女遊びに関しては、したくてもできないだけだ。俺は、俗に言うゲイという趣向の持ち主なので。
 人ごみの進む方向に逆らいながら、俺は歩いて20分もかからないアパートへと足を進めた。たまたま俺の家の近くに神社があったから誘ったのだろうに、来ないなんて何事か。
 そんなことを思いながら歩いていたら、遠くの空から除夜の鐘が聞こえてきた。
 なんだ、あの神社小さいと思っていたが、きちんと除夜の鐘も鳴らすのか。ちらりと振り向いたが、もう神社は見えない。そんなだから、いつもは人がいるのか怪しいような神社なのに、こんなにも人が集るのか。ふむと顎に手を当てたところで、もう一度鳴った。
 人間の根本煩悩を6つとし、それに付随する煩悩を・・・なんとか煩悩というらしい。6つの内容なんて覚えちゃいないが、一番悪いとされるのは「愚痴」だという話だ。意味は、物事を正しく知らないということ。俺の知っている「愚痴」とは、大分違う。
 ほぅと吐いた息は白く、俺の中にある煩悩もこれと同じように霧散してしまえばいいのにと思う。俺の煩悩は、あるだけ無駄なものなのだから。
 漸くいつも通りの深夜の風景になってきたところで、見慣れた我が家に帰りついた。まだ新築だというアパートは外壁も内装も俺好みで、染谷も気に入っている。一度連れて来てやったらやけに気に入りやがって、ちょくちょく訪れるようになった。大学から近いこともありよく仮眠しに来るのだが、流れ上合鍵まで渡してある。恋人でもないのに、という自嘲混じりの皮肉が、俺の中に突き刺さる。
 流石に暗くなっている階段を昇り、鍵を挿したところで首を傾げた。もしやと思ってそのままドアノブを回してみると、引っかかることなく開いた。少し嫌な予感がして、俺は真っ暗な室内へと足を踏み入れた。
「・・・染谷」
 ベッドの上で、さっきまで俺が待ち続けていた男が暢気にいびきをかいて寝こけていた。その呼気からは僅かどころではない酒の匂いがして、俺は思わず眉をしかめた。
「なんでお前はこんなとこで寝てんだよ」
「ふが」
 鼻を摘んでやったが、起きる気配は全くない。一度熟睡してしまうと、こいつは水をかけても起きないのだ。
「ったく、ふざけんなよなぁ」
 俺の時間を返してくれよ。ベッドに背を付けて座り、マフラーをしゅるりと外す。
 恐らくこいつのことだ、俺との約束なんて忘れてたくさんの友人と忘年会でもしていたのだろう。そしていつものくせで俺の家まで来て、そこで倒れたというわけか。どうせ参加するなら、カウントダウンまで付き合ってくればいいものを。
 なんだか馬鹿馬鹿しくなって笑いを漏らすと、染谷が何か言葉を発した。それは明瞭ではなく、すぐに寝言なのだと分かる。
「・・・んぬ、しゅ、と・・・そこだ、フリーキック・・・」
 なんの夢を見ているんだ、己は。上半身だけ振り向いて腹を殴ってやる。
 俺の名前の読み方を知った後も、こいつは俺を「しゅうと」と呼び続けた。そのほうがお前らしいからとかなんとか言って、ただ単に呼びたいだけのくせに。
『しゅうと、今日の1限のノート貸してくんない?』
『しゅうと、俺また彼女できたー』
『しゅうと、俺またフラれたよー』
『なあしゅうと、俺ってなんで彼女と長く続かないんだと思う?』
『お前とはこんなに長いのにな、しゅうと』
 しゅうと、しゅうと、しゅうと。
 もういい加減にして欲しい。そうやってお前が何度も何度も呼ぶから、俺は絶対育ててはいけない感情を芽生えさせてしまった。決して望んではいけないものに、手を伸ばしたくなった。
 思わず泣きそうになるのを、シーツに顔を押し付けることで堪える。こんなの、俺らしくない。
 誘われれば誰彼構わず寝て、百戦錬磨の異名さえ持ったことのある俺が。お前との友情を壊したくなくて、こんなにも怯えているなんて。
 酔い潰れて寝ている姿すら、俺にはなんだか可愛いものに見えて仕方がない。情けない寝顔も、少しはだけた衣服すらも。全てが色めいて、俺の欲情を駆り立てる。
 お前は知らないだろう。俺が、お前が泊まった翌朝、お前の匂いが染み付いたシーツに顔を埋めて自慰をしていることなんて。夜毎お前の体に跨って腰を振っている場面を想像しては何億もの精子を放っているなんて、知らないだろう。
 知られるわけにはいかない。染谷にとって俺は、ただの友人なのだから。その関係を、俺は壊したくないんだ。
「はあ」
 本当に馬鹿馬鹿しい。シャワーでも浴びて寝るとしよう。そう思って腰を上げると、不意に手を掴まれた。ドキリとして見下ろすと、染谷の目がうっすらと開いていた。
「あ、れ? しゅうと・・・」
「そめ、」
「お前なんで家にいねんだよ。二年参りいこ・・・て、言ってあった・・・ろ」
 そこまで言って、染谷はまた目を閉じた。俺の中で、ふつふつと怒りが湧き起こる。
「貴様が神社の前で待ち合わせって言ったんだろうが・・・っ」
  ばっと毛布を剥いで、俺は息を飲んだ。体の中心、トランクス一枚の下。明らかに形を変えているものが、目に入った所為だ。
「こいつ・・・」
 無駄にいいものを持っていることは、随分前から知っていた。というか、こいつはいつも下着姿で寝るから、嫌でも目に入ってしまう。
 普段なら見ないようにしているものを、今日は染谷が寝ているということもあってガン見してみた。このシルエットでは、さぞ形もいいんじゃないだろうか。
 ごくり、生唾を飲む音に一番自分が驚いた。誰かがいるはずもないのにきょろきょろと周りを見渡し、再び視線を染谷の股間に戻す。
 少しくらい拝んでも、罰は当たらないだろうか。おっ勃てているのはこいつだし、多分もう本当に起きない。念には念を入れて鼻を摘んで暫く待ってみたが、苦しむだけで目を開くことはなかった。むくむくと、都合のいい考えが頭に浮かぶ。
 この二年間、俺は我慢に我慢を重ねてきた。忘れようと思って男遊びに耽ったこともあるし、こいつのためにしなくてもいい傷心を感じてきた。
 もういっそ、バレて嫌われてしまったほうがすっきりするんじゃないか。起きたのなら、その際に向けられるであろう軽蔑の目をきっかけに、諦めることもできるかもしれない。
 俺はもう一度唾を飲み込み、染谷のトランクスに手をかけた。そのまま下に引く時の緊張大きさは、後にも先にも覚えることはないだろう。
 いつの間にか、除夜の鐘は聞こえなくなっていた。


「ん、ふ・・・」
 じわりと口の中に広がる苦味に、俺は背筋が痺れるのを感じていた。俺の口内で熱を受けたそれが湯気を放ち、陶酔で目も眩む。
 二年間の我慢は、俺から理性という名の抑制心をすっかり消し去っていた。拝むだけで済ますつもりが指先で触れたくなり、触れるだけで済ますつもりが口に含みたくなった。唇を当てた瞬間に僅かな理性も奇麗さっぱり霧散し、唾液を擦りつけながら俺はその感触を唇に記憶させようと躍起になった。舌を動かすとひくひくと動く血管が、ひどく愛おしい。
「はぁ、あ・・・」
 染谷のを口に咥え、腰を浮かせて自分の性器を強く擦る。しゃぶっているだけで痛いほど張り詰めたそこは、今にも欲望を吐き出してしまいそうだった。
「っふ、ぅうん・・・ん、んぁ」
 どうしよう、気持ちいい。それに、凄く美味しい。今までに咥えてきたちんこなんて、比べ物にならないくらい。
 じんと頭のてっぺんから爪先まで麻痺するように快感が走り、俺は自身の先走りが床に垂れるのも気にせず擦り続けた。いやらしい水音と、噎せ返るような性器の饐えた匂い。様々な器官から入る情報が、俺をこれでもかというほど追い詰める。もう我慢なんて効かなかった。
「っあ、は・・・イく・・・出る、出る・・・っ」
 絞るように扱き上げると、先端から熱い白濁が凄い勢いで吐き出された。ベッドの端に少しだけかかり、殆どが床に落ちて水溜りを作っていく。
 凄い快感だった。妄想でオナニーする時の射精なんか、目じゃないくらい。
 うっとりと目を細めて息を整えてから、俺はまだ元気な染谷のものに再びむしゃぶりついた。強く吸いながら唇で扱き、竿の根本も袋も刺激する。最初で最後の奉仕を、手抜きなんかで済ませたくない。
 やがて口内に溢れる先走りの苦味が強くなり、少しの酸味も混じり出した頃。一際大きく膨らんだかと思うと、喉にびたびたと音がするのではというほどの勢いで射精した。粘度の高いものが喉にぶつけられる感覚に、全身が悦びで震える。信じられないことに、その衝撃で俺はまた軽く達してしまっていたのだ。
 ひくんひくんと睫毛を揺らしながらその余韻に浸り、口の中で柔らかくなったものにまた舌を這わせた。放たれたものを喉に通し、残滓すら舌先でくじって貪欲に飲み干した。今までにしたことがないくらい丁寧に掃除し、下げていたトランクスを上げる。幸か不幸か、染谷は一度も起きる事はなかった。
「・・・ごちそうさま」
 暢気な寝顔の眉間を指でつつく。
「本当に起きねぇでやんのな、お前。病気なんじゃないの?」
 くすくすと笑いながら、俺は目を覆った。なんで、涙なんか。
 起きて欲しくないと思いながら、俺は心のどこかで起きてくれることを望んでいた。起きて、バレて、罵られて。
 それでも好きなんだと、ずっと好きだったんだと、伝えるくらいはしたかった。
「好きだよ、染谷。もうずっと、お前が好きだった」
 寝息は、何も伝えてはこない。混乱も、動揺も、軽蔑すらも。
 こいつに寝たふりなんて芸当は出来るわけがないから、本気で寝ているのだろう。
「・・・もういいか」
 引導を渡そう。こんな悲しい気分になるのなら、さっさとフラれてしまおう。
 流れていた涙を軽く拭い、俺はずらしただけのズボンを下着と一緒に脱いだ。上も全て脱いで肌を晒し、染谷のトランクスも足から抜いてしまう。
「起きたら、なんて言うんだろうな?」
 起こすより先に、逃げるように帰るだろうか。そして明日からは、忘れたように過ごすのだ。俺がゲイだと触れ回るようなことは、恐らく絶対しないだろう。
 すやすやと眠り続ける染谷の隣りに横になり、さっき剥いで丸めておいた毛布を掛け直した。そして起きないのをいいことに、ぴとりと染谷の体に寄り添う。朝までの短い時間になるだろうが、それでも俺は幸せだ。一夜だけでも、こうして恋人気分を味わえるのなら。
 目を閉じて、体を少しだけ丸めた。ぬくもりが、俺を眠りに誘う。今夜だけは、きっと良い夢が見られるだろう。
 頭の中で、一つだけ鐘の鳴る音が聞こえた気がした。
 それはきっと、煩悩ではなく俺の恋心を消すために、響いたものだ。





終。

08.12.31up